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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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抜けたところの縫い目

 「ねえ、……抜いてる?」


 千紗の声が、洗濯物の山の向こうから飛んできた。

 僕はソファの端でフリーズしたまま、リモコンを握っている。テレビはついているけど、内容は入ってきてない。入ってくるのは、頭の中の雑音だけ。


「なにを?」

 僕が聞き返すと、千紗はピンチハンガーを持ったまま首を傾げた。

「手順」

「手順?」

「うん。あなた、今日なんか……抜いてる顔」

「抜いてる顔ってなに」

「抜けてる顔、とも言う」

「それは悪口?」

「現実通り」


 アンは椅子の上で丸くなって、しっぽの先でトントンと床を叩いている。椅子。第三の動き。

 猫は「抜けてる」を責めない。抜けてる隙間に入り込んで、勝手に寝るだけだ。


 僕は喉の奥で、ちいさく息を吐いた。

 吐くのが先。クロール。

 そして胸の奥が「チッ」と鳴った。

 舌打ちじゃない、ブザー。

 “図星”の音。


 チッ=ブザー→凹凸→一手。

 凹凸。刺さったときの手すり。


「凹凸」

 僕が小さく言うと、千紗はすぐ返した。受信機が早い。

「凹凸」


「で、何を抜いてると思ったの」

「えっとね」

 千紗は洗濯物をソファの背もたれにちょいと置いて、僕の前にしゃがみこんだ。

 目線が揃う。これだけで、取り調べ感が消える。


「朝、白湯飲んだ?」

「飲んだ」

「歯、磨いた?」

「磨いた」

「…アンにおはよう言った?」

「言った」

「言ってない」

「言ったって」

「アンの顔が“聞いてない”って言ってる」

 千紗が顎で椅子を示す。アンは片目だけ開けて、無言の判決を下していた。


「……それは抜いたかも」

「でしょ」

 千紗は立ち上がって、冷蔵庫に貼り紙を一枚増やした。貼り紙の忍者。

 太い字で今日のルールを書きつける。


『ヌケ(抜け)=悪じゃない

 でも“抜きっぱなし”は穴になる

 線/スリット/椅子

 チッ→凹凸→一手

 錨:現実通り

 ピース化して縫う

 最後にシャク』


「ピース化して縫う」

 僕が読み上げると、千紗は鍵の鈴をちん、と鳴らした。

「さぁ。今日は“縫い目の日”」


「縫い目?」

「うん。抜けたところを責めない。縫う」

「裁縫の話?」

「裁縫でもいいし、気持ちでもいい」


 千紗が言いながら引き出しを開けると、小さな裁縫箱が出てきた。

 糸。針。指ぬき。布切れ。

 うちの生活は、こういうところが妙に充実している。


「……ほんとに縫うの?」

「うん。まずは物で練習。物は分かりやすい」

 千紗は僕のトートバッグを指差した。

「ここ、ほつれてる」

「気づかなかった」

「気づかなかったのが今日の“抜け”」

「ごめん」

「ごめんは後でいい」

 千紗はさらっと言う。

「先に椅子」


 椅子。第三の動き。

 僕らはテーブルに向かって座った。座ると、心が走らない。

 アンは椅子から降りてきて、僕の足の甲に前足をちょん、と置いた。猫の錨。


「内なる五人、呼ぶ?」

 千紗が聞く。

 僕は頷いた。抜けがある日は、炭酸が勝手に議長席に座る。


「白湯:落ち着け」

「紅茶:順番を守れ」

「ほうじ茶:温めながら」

「コーヒー:具体に落とせ」

「炭酸:やばい!抜けた!全部やり直せ!完璧にしろ!」


 炭酸がうるさい。

 千紗が鈴をちん、と鳴らす。

「炭酸は観客席。議長は白湯」

「はい……」


 千紗は糸を通しながら言った。

「で、あなたの“抜いてる”は、バッグだけじゃないでしょ」

 受信機が拾いに来る。

 僕は少し迷ってから、現実通りに言った。


「…今日、仕事の返信、一本抜けた」

「どれ?」

「昨日の夜に来てたやつ。見たのに返してない」

「なるほど」

 千紗は頷くだけで、責めない。

 責めないから、僕の喉が開く。


「あと、なんか…心の手順も抜いてる気がする」

「手順って?」

「チッが鳴った後に、凹凸まで行かずに…スクロールして誤魔化した」

「うん」

 千紗は針を止めて僕を見る。

「それが“抜きっぱなし”の穴」


 穴。

 穴って言われると怖いけど、千紗の声は怖がらせる音じゃない。

 修理する音だ。


「線、引こう」

 千紗は紙を出し、一本線を引いた。線。

 線に小さな切れ目。スリット。通気口。

「左が現実通り、右が気持ち。混ぜない、閉めない」

「うん」


 僕は左に書く。

『返信を一本抜いた。見たのに返してない。』


 右に書く。

『返してないのが怖い。怒られる想像。面倒が増える想像。』


 書いた瞬間、炭酸が観客席でバタバタする。

『ほら!終わりだ!』

 でも白湯議長が言う。

『まだ終わってない。』


「錨」

 千紗が言った。

「風に飛ばされない発言、する」

 錨の一語+理由一行+鈴。

 僕は短く言う。


「錨:現実通り」

「理由:返信は抜けたけど、今から戻せる」

 千紗が鈴をちん、と鳴らす。

「固定。いい」


 固定されると、不思議と穴が“出入口”に変わる。

 落とし穴じゃなく、通気口。

 抜けはゼロじゃない。戻り口がある。


「で、ピース」

 千紗が言う。

「欠片をピース化して、完成側へ戻す」

「完成側」

「“生活が回ってる側”」

「どうする」

「一手、二つだけ」

 千紗は指を二本立てた。

「返信を返す。アンにおはようを言い直す」

「二つだけでいい?」

「いい。三つだと欲張る」


 千紗はバッグのほつれに針を入れた。

 糸が布を通る音はほとんどしない。

 でも“縫い目”は確実に増えていく。

 ちりつもたれつの、良い方。


「……縫うの、上手いね」

「うん。縫うのは得意」

「心も?」

「心は共同作業」

 千紗は笑って、少しだけ針を持つ手を止めた。

「あなた、抜けるでしょ」

「抜ける」

「私は縫う」

「役割分担」

「そう。なあなあじゃなく、現実通りの分担」


 僕はスマホを手に取った。

 ここでスクロールに逃げたら、また穴が広がる。

 だから一手。返信を返す。

 短く、礼儀の紅茶で。


『確認遅くなりました。承知しました、こちらで進めます。必要あれば追加で共有ください。』


 送信。

 送った瞬間、胸の奥のブザーが一段静かになる。

 答えが返ってきてないのに、落ち着く。

 行動は椅子になる。第三の動きってこういうことだ。


「返した」

 僕が言うと、千紗は針を進めながら「そっか○」と言った。

 受け取ったの○。

 それだけで、僕は勝手に百へ走らない。


 次。アン。


 僕は椅子から立って、アンの前にしゃがんだ。

 猫は目を細めている。寝たふり。

 でも耳だけは、こっちを向いている。


「アン、おはよう」

 僕が言うと、アンは「……にゃ」と小さく返した。

 判決:遅刻は許す。

 猫は寛大だ。条件はおやつ。


「抜け、戻った」

 千紗が言う。

「戻った」

「じゃあ、最後」

 千紗はバッグを僕に差し出した。

 ほつれはきれいに縫われて、そこだけ小さなステッチが並んでいる。


「見て。縫い目」

「かわいい」

「かわいいは正義」

「誰がなんと言っても」

「それ、ここで使うの好き」


 千紗が最後に鈴をちん、と鳴らした。

「さぁ。締めにシャク」


 りんごを切った。

 最後にシャク。食感で割る。

 僕が噛む。シャク。

 千紗も噛む。シャク。

 音が、今日の“抜け”と“縫い”を現実通りに並べ替えてくれる。


「ねえ」

 僕が言った。

「“抜いてる?”って、嫌な言葉かと思ってた」

「うん、使い方による」

 千紗はりんごをもう一口噛んで言う。

「責めると罠。合図にすると武器。刃物じゃなく背中を押すやつ」

「今日は合図だった」

「うん。穴を見つけたら、縫い目を作る」

「抜けは悪じゃない」

「でも抜きっぱなしは穴」

「穴は…」

「通気口にもなる」

 千紗が笑う。

「スリットだよ。閉めない。混ぜない。呼吸する」


 アンが椅子の上に戻り、縫い直したバッグの持ち手に鼻先を押し付けた。

 自分の縄張りの確認。猫のニュースはいつも現場で起きる。


 僕はバッグを肩にかけて、縫い目の感触を確かめた。

 小さな縫い目。

 ちりつもたれつ。

 でもこの積み重ねは、ちゃんと“完成側”へ向かっている。


「明日、また抜けたら?」

 僕が聞くと、千紗は当然みたいに言った。

「聞く。『抜いてる?』って」

「その時、僕は?」

「凹凸」

「凹凸」

「で、一手」

 千紗が鈴をちん、と鳴らした。

「さぁ」


 抜けてもいい。

 抜けたままにしない。

 僕らは穴を責めずに縫って、生活のリズムを明るい方へ戻していく。

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