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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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冷蔵庫の掲示板

 朝の光はちゃんと入ってきているのに、部屋の空気だけが重い日がある。

 原因はだいたい、スマホだ。


 僕はソファの端で、親指だけを動かしていた。スクロール。スクロール。

 「速報」「衝撃」「炎上」「危険」「終わり」みたいな文字が、ひっきりなしに現れては消える。

 ニュースって、画面の中でいつも走っている。走りながら、こっちの呼吸も奪ってくる。


「……なにしてんの」

 背後から千紗の声。

 昨日の“なにしてんの”とは温度が違う。今日のは、半分ツッコミで半分救助だ。


「ニュース」

 僕は短く答えた。短くしないと、言い訳が長くなる。

「うん、見れば分かる」

 千紗がコーヒーを片手に近づいてくる。アンは椅子の上で丸くなり、尻尾の先だけで実況している。椅子。第三の動き。

 猫はニュースを見ない。猫の世界のニュースは、窓の外の鳥と、床に落ちた紙片だけだ。


「……そのニュース、あなたの口に入る?」

 千紗は僕の画面を覗き込まずに聞いた。覗かない。受信機の作法。

「入らない」

「じゃあ、出す」

 千紗は鍵の鈴をちん、と鳴らした。

「さぁ」


 鈴。刃物じゃない武器。背中を押す合図。

 その音で、僕の胸の奥が「チッ」と鳴った。

 舌打ちじゃない、ブザー。

 “まだ見たい”と“やめたい”が同時に出るやつ。


 チッ=ブザー→凹凸→一手。

 凹凸。刺さったときの手すり。


「凹凸」

 僕が言うと、千紗は頷いた。

「凹凸。で、一手」


 一手。

 僕の親指を止める一手。

 僕はスマホをテーブルに伏せて置いた。画面を隠す。線を引く。

 それだけなのに、心の中の騒音が少し下がる。


「ニュース、好きだよね」

 千紗が言う。責めるトーンじゃない。現実通りを言うトーン。

「好きっていうか……気になる」

「気になるのは分かる」

 千紗はコーヒーを一口飲み、息を吐いた。吐くのが先。クロール。

「でも、今のあなた、受信機が“全チャンネル受信”になってる」

「全チャンネル」

「うん。必要な声も、不要な騒音も、ぜんぶ同じ音量で入ってくる」

「……それ、きつい」

「きついのに、止められない」

「現実通り」

「現実通り」


 千紗は冷蔵庫に貼り紙を一枚増やした。貼り紙の忍者。

 太い字で、今日の運用。


『NEWSっぽいもの=三段フィルター

 線/スリット/椅子

 チッ→凹凸→一手

 錨:現実通り

 “うちのニュース”を先に

 最後にシャク』


「曲名じゃないように書いたね」

 僕が笑うと、千紗も笑った。ギャグに寄せすぎない、薄い笑い。

「っぽいもの、だからセーフ」

「セーフ判定の速度が速い」

「編集者気質」

「誰の」

「私の」

 千紗は鈴をちん、と鳴らした。

「さぁ。三段フィルター」


 三段フィルター。

 千紗は紙を一枚出し、一本線を引いた。線。

 線の真ん中に小さな切れ目。スリット。通気口。

「左が“世界のニュース”、右が“うちのニュース”。混ぜない」

「混ぜると?」

「世界がうちに雪崩れ込む」

「雪崩は暗く沈む」

「そう。だからスリットで通気だけする。全部は入れない」


 僕は黙って頷いた。

 内なる五人がざわつく。

 炭酸が観客席で叫ぶ。『でも見ないと損!知らないと置いていかれる!』

 コーヒーが言う。『具体にしろ。何が必要?』

 白湯が言う。『落ち着け』

 紅茶が言う。『順番を守れ』

 ほうじ茶が言う。『温めながら』


「五人、呼ぶ?」

 千紗が聞く。受信機が丁寧だ。

「呼ぶ」

 僕は頷いた。


「白湯:落ち着け」

「紅茶:順番」

「ほうじ茶:温度」

「コーヒー:具体」

「炭酸:全部!今すぐ!」


 千紗が指を立てた。

「議長は白湯。炭酸は観客席」

「はい」


 白湯議長が椅子に座ると、僕の肩が少し下がる。

 椅子。第三の動きは、いつも“戦わない姿勢”を作ってくれる。


「じゃあまず、“うちのニュース”」

 千紗が言った。

「え、世界じゃなく?」

「うん。うちはうち。戻る場所のニュースが先」

 千紗は小さなカードを三枚出してきた。

 前に作った“戻る封筒”の仲間みたいな、ちいさい札。角ばった小さい字。

「今日の“うちの速報”を三つ。ピース化して読む」

「ピース」

「欠片を完成側へ戻すやつ」

 千紗は頷いた。

「コップでもいい。空っぽでも器は器。今日は器に“良いニュース”を入れる」


「良いニュース、あるかな」

 僕が言うと、千紗は即答した。

「ある」

「強い」

「誰がなんと言っても、ある」

 千紗が笑って、鈴をちん、と鳴らした。

「さぁ」


 千紗がカードに一つ目を書いた。

『速報:アン、朝から機嫌がいい』

 アンは椅子の上で片目だけ開けた。

 自分がニュースになったのを、理解している顔だ。


 二つ目。

『速報:味噌汁、ちょうどいい』

 キッチンから、湯気と匂い。

 たしかに、ちょうどいい。

 ちょうどいいって、ニュースだ。大事件じゃないけど、生活の骨組みになる。


 三つ目。

 千紗は僕を見た。

「書いて」

「僕が?」

「うん。あなたの“うちのニュース”」


 僕は少し考えた。

 世界の見出しは山ほど思いつくのに、うちの見出しは、意外と難しい。

 でも難しいのは、うちのニュースが小さいからじゃない。

 小さいから、探すのに手がいる。


 僕はペンを持って書いた。

『速報:今、止められた』

 スマホを伏せたこと。スクロールを止めたこと。

 小さなこと。

 でも僕の中では、けっこう大きい。


 千紗が頷いた。

「それ、いい」

「大会になりそう」

「大会にしない」

 千紗は貼り紙を指差す。

「錨」


 錨の一語+理由一行+鈴。

 風に飛ばされない発言手順。


 僕は短く言った。

「錨:現実通り」

「理由:世界は走るけど、うちは座れる」

 千紗が鈴をちん、と鳴らす。

「固定」


 固定されると、世界のニュースが少し遠くなる。

 遠くなる、は無視じゃない。距離を取る。手袋みたいに触れないで守る。


「じゃあ次、世界のニュース」

 千紗が言う。

「ただし三つまで」

「三つまで」

「見出しだけ。中身は“必要なら後”」

「後に回すのが難しい」

「だから椅子」

 千紗は窓際の椅子を指差した。

「そこで読む。そこが世界枠。ここはうち枠」


 僕らは場所で線を引いた。

 ソファはうち。

 窓際の椅子は世界。

 場所で運用すると、頭が理解する前に身体が守られる。

 これ、けっこう効く。


 僕は窓際の椅子に座って、スマホを開いた。

 千紗はテーブルの上に、りんごを置いた。

「最後にシャク、忘れないで」

「まだ読む前」

「読む前にも噛んでいい」

「暴論」

「現実通りの顎は、嘘をつかない」


 僕はりんごを一口噛んだ。

 シャク。

 音が、頭の中の見出しの針を少し鈍らせる。


 見出しを三つだけ読む。

 世界の“速報”は、たしかに刺激的で、たしかに胸をざわつかせる。

 でも、三つで止める。

 止めるのは敗北じゃない。焦がさない技術。

 ……と、頭では分かっていても、親指は勝手に次を欲しがる。


 チッ。ブザー。

 凹凸。

 一手。


「凹凸」

 僕が小さく言うと、千紗がテーブルの方から返した。

「凹凸」


 遠くても届く。

 これが受信機の良さだ。距離があっても拾える。


「一手」

 僕は自分で言って、スマホを閉じた。

 閉じた瞬間、胸の奥の炭酸が叫ぶ。『もっと!』

 でも白湯議長が首を振る。『今日は三つ』

 紅茶が付け足す。『順番』

 ほうじ茶が微笑む。『温度』

 コーヒーがまとめる。『必要なものだけ後で』


 僕は椅子から立って、うち枠のソファに戻った。

 戻る。

 戻るって、言葉だけじゃなく動作でもできる。


「どうだった?」

 千紗が聞く。

「……世界、走ってた」

「うん、走ってる」

「でも、今日は追いかけない」

「偉い」

「大会になる」

「じゃあ言い換え」

 千紗は鈴をちん、と鳴らす。

「現実通り」


 アンが急に椅子から飛び降りて、台所へ走った。

 次の瞬間、ガタン、と音。

 ペットボトルが床を転がった。

 アンは何もしてない顔で戻ってくる。

 猫のニュースは突然来る。しかも現場で起きる。


「速報」

 千紗が真顔で言う。

「アン、事件」

「え、世界のニュースより緊急」

「うん。うちの速報は現場主義」


 僕らは笑って、ペットボトルを拾った。

 こういう小さな事件が、生活のテンポを戻してくれる。

 世界の見出しが刺さっても、床に転がる音で“今”に戻れる。


「ねえ」

 千紗が言った。

「ニュースってさ、ほんとは“知らせ”じゃん」

「うん」

「知らせって、誰かが誰かに渡すもの」

「渡す」

「ならさ」

 千紗は冷蔵庫の掲示板を指差した。

「うちは“うちのニュース”をちゃんと渡す。世界のは、必要な分だけ受け取る。受信機の音量を、生活に合わせる」


 僕は頷いた。

 受信機の音量。

 それ、いい。

 世界の叫びも、うちの小さな叫びも、同じスピーカーから鳴らしてたら壊れる。

 分ける。線。

 混ぜない。スリット。

 そして座る。椅子。


 夜、僕らは冷蔵庫の掲示板に、今日のカードをそのまま貼った。

 『アン機嫌』

 『味噌汁ちょうどいい』

 『今、止められた』


 紙が増えると、ちりつもたれつで山になる。

 でもこの山は、責めの山じゃない。

 戻るための山。

 読むたびに“完成側へ戻る”山。


「最後にシャク」

 千紗が言う。

 僕はりんごを噛んだ。シャク。

 千紗も噛む。シャク。

 アンは欠片を狙うので、ほんの少しだけ置く。欠片はピース。ピースは完成側へ戻る。


「明日も世界は走る」

 僕が言う。

「うん」

「でも、うちは座る」

「うん」

 千紗が鈴をちん、と鳴らした。

「さぁ。うちの掲示板、更新完了」


 世界の速報は止まらない。

 でも僕らには、止める手順がある。

 凹凸で手すりを握って、線を引いて、スリットで息を通して、椅子に座って、錨を打って、最後にシャク。

 その順番で、ニュースは騒音じゃなく“知らせ”に戻る。

 暗く沈まずに、現実通りで。

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