覗きこまない質問
「……なにしてんの」
僕の声は、廊下の途中で止まった。
止まったまま、台所の入口に立っている。
千紗は背中を向けて、なにやら机の上でごそごそしていた。小さな紙。細いペン。妙に真剣。
アンは椅子の上で丸くなり、しっぽの先だけで“実況”している。椅子。第三の動き。
千紗は振り向かないまま言った。
「見ないで」
「え」
「見ないで、って言った」
「……なにしてんの」
「それが見たい人の言い方」
「違う、知りたいだけ」
「知りたいと見たいは近い」
近い。
言われて、僕は一歩だけ下がった。
この一歩が、うちのスリットだ。通気口。近づきすぎないための穴。
胸の奥で「チッ」が鳴りかけた。
舌打ちじゃない、ブザー。
“置いていかれた?”が勝手に立ち上がる音。
チッ=ブザー→凹凸→一手。
凹凸。刺さったときの手すり。
「凹凸」
僕が小さく言うと、千紗はやっと振り向いて、ふっと笑った。受信機がまだ動いてる。
「凹凸」
笑ったけど、目は真面目だ。
机の上には、切った紙が散らばっている。細い線、折り目、丸いシール。
秘密の工作現場みたい。
「ごめん」
僕は言った。
「覗きたくなった」
「覗きたいって言えたの、えらい」
「えらいって言うと大会になる」
「じゃあ言い換え」
千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らす。
「さぁ。現実通り」
現実通り。
僕は覗きたくなった。
千紗は見せたくない。
この二つを混ぜると、変なドラマになる。混ぜない。線を引く。
千紗が冷蔵庫に貼り紙を一枚増やした。貼り紙の忍者。
今日の新しいルールが、太い字で書かれる。
『「なにしてんの」=罠にも受信にもなる
当てない(Tell me)
椅子/線/スリット
チッ→凹凸→一手
最後にシャク』
「罠にも受信にも」
僕が読み上げると、千紗は頷いた。
「うん。言い方次第で“取り調べ”になる」
「取り調べ……」
「『なにしてんの?』って、優しい顔して近づけるでしょ」
「……確かに」
「だから今日は、受信機の形に直す」
受信機。相手の小さな叫びを拾う姿勢。
僕は深呼吸した。吐くのが先。クロール。
そして、一手。
一手は椅子だ。
「座ろ」
僕が言うと、千紗は紙をさっと重ね、机の端に寄せてから頷いた。
「うん。椅子」
僕らはテーブルに向かって座った。
座ると、言葉が尖らない。立ったままだと、心が走ってしまうから。
アンは椅子の上から降りてきて、僕の足の甲に前足をちょん、と置いた。
猫の監視カメラは、物理で設置される。
「で」
千紗が言う。
「“なにしてんの”を、受信機の形にしたいなら」
「うん」
「質問は三つまで」
「了解」
「当てない」
「了解」
「そして、聞いたら待つ」
「……それが一番難しい」
「現実通り」
千紗が鈴をちん、と鳴らした。
「さぁ。Tell me」
僕は質問を“覗き”のために使わない。
“拾う”ために使う。
内なる五人を呼んで、議長を決める。
「白湯:落ち着け」
「紅茶:礼儀(順番)を守れ」
「ほうじ茶:温めながら」
「コーヒー:具体に落とせ」
「炭酸:全部聞け!全部見ろ!今すぐ解決しろ!」
炭酸が騒ぐのを、僕は黙って観客席へ押し戻す。
今日は白湯議長。
「質問1」
僕はゆっくり言った。
「千紗、いまの“見ないで”は、青?黄?」
千紗は少し考えて答えた。
「黄寄りの青」
「黄寄りの青」
「うん。秘密は楽しい。でも見られると冷える」
秘密が楽しい。
それは良い。暗く沈む話じゃない。
ただ、冷えるのは困る。
冷える前にスリットを作る。
「質問2」
「その秘密は、僕に関係ある?ない?」
千紗はにやりとした。
「ある」
「……ある」
胸の奥で炭酸が跳ねる。
でも跳ねたままにしない。
跳ねたら、凹凸。
「凹凸」
「凹凸」
千紗が返してくれる。
これで僕は、勝手に“答え”を当てに行かずに済む。
「質問3」
僕は続けた。
「僕はいま、何をしたらいい?“待つ”と“手伝う”どっち?」
千紗は即答した。
「待つ」
「了解」
「ただし」
「ただし?」
「待つ場所、決めて」
「場所」
「うん。あなた、待つって言いながら、視線が覗きに来る」
見透かされている。現実通り。
だから、線。
僕はテーブルの上に紙を置き、一本線を引いた。線。
線の左に「僕の待つ場所」、右に「千紗の工作現場」と書く。
線に小さな切れ目、スリット。通気口。完全に遮断しない。
「待つ場所は、ここ」
僕は線の左を指差した。
「千紗の現場は、右」
「スリットは?」
「声」
僕は言った。
「声は通していい。見ないけど、聞く」
「それ、受信機」
千紗は満足そうに頷いた。
そして鈴をちん、と鳴らした。
「さぁ。採用」
採用された。
僕は“待つ”の姿勢を身体で決めるために、椅子を少しだけ後ろに引いた。
視線が届きにくい角度。
これも、第三の動き。
「じゃ、待つ間」
千紗が言った。
「あなたは“たまり場式”で、コーヒーでも淹れて」
「たまり場式?」
「うん。戻る場所のやつ。お湯が先。質問は後」
「石鳩亭じゃないのに」
「うちはうちの石鳩亭」
僕は笑って、立ち上がってコーヒーを淹れた。
コーヒーは起動音。
でも今日は議長じゃない。議長は白湯。
白湯も一緒に用意する。こういう細かいところが、生活を暗く沈ませない。
背後で、千紗の紙が擦れる音がする。
カッターじゃない。はさみ。
危ない刃じゃなく、形を整える道具。
僕の中で“秘密”が勝手に膨らみそうになるたびに、僕は息を吐いた。吐くのが先。クロール。
そして、心の中で合図を鳴らす。
チッ(ブザー)→凹凸→一手。
一手は、マグを持つ。
マグの熱さが、いまここを現実通りに固定してくれる。
「ねえ」
千紗の声がスリットを通ってきた。
「あなた、いま、“なにしてんの”言いたくなってない?」
僕は正直に答えた。
「なってる」
「じゃあ言い換え」
「……Tell me?」
「違う」
千紗は笑いを含んだ声で言う。
「“ここにいる?”」
「……いる」
「それでいい」
なるほど。
“なにしてんの”は、相手の中へ踏み込む質問になりやすい。
でも“ここにいる?”は、距離を確かめるだけだ。
近づかないで、つながる。手袋みたいに。
しばらくして、千紗が小さく「よし」と言った。
工作現場の音が止まる。
代わりに、足音がこちらへ近づいてくる。
僕は視線を上げそうになって、すぐ止めた。
線の左側にいる。待つ場所。
「はい」
千紗が僕の前に、小さな封筒を置いた。
封筒には、角ばった小さい字で一言だけ書いてある。
『戻る』
戻る。たまり場回の錨。
胸がすっと落ち着く言葉。
「……なにこれ」
僕が言うと、千紗はすぐ指を立てた。
「それ、罠の“なにこれ”」
「え」
「覗きに見える」
「じゃあ、受信機の形で」
僕は言い換えた。
「Tell me。これは、どう使う?」
千紗は満足げに頷いて、説明し始めた。
「最近、あなた、家で“待つ”のが上手くなってきたでしょ」
「うん」
「でも、上手くなるほど、黙りが増える」
「増える」
「黙りが増えると、あなたは“ひとりで抱える”。だから、戻り口を作った」
千紗は封筒を指でトントンする。
「これ、中に小さいカードが入ってる。私が外にいるときも、家にいるときも、あなたが“戻れない”感じになったら、開けて読んで」
「……お守り」
「お守りじゃなくて、手順」
千紗が鈴をちん、と鳴らす。
「さぁ。武器」
刃物じゃない武器。
背中を押す合図の方。
僕は封筒を開けた。
中には小さなカードが三枚。
それぞれに、短い言葉。
『凹凸』
『コップ』
『ピース』
そして裏に、理由が一行ずつ。
『凹凸:刺さったら手すり』
『コップ:空っぽでも器は器』
『ピース:欠片を完成側へ戻す』
「……千紗」
僕は声が少しだけ揺れた。
でも暗く沈む揺れじゃない。
温かい揺れ。
「なに」
千紗は、いつもの顔で言った。
「これ、僕が“なにしてんの”って言いそうなときに、先に戻すやつだ」
「そう」
「僕が覗いて当てに行く前に」
「うん。あなたの受信機が、相手じゃなく自分にも向くように」
自分にも。
受信機って、相手の小さな叫びを拾う姿勢だけど、今日は僕の中の小さな叫びも拾ってくれた。
“置いていかれたくない”
“でも踏み込みたくない”
その両方。
「ねえ」
千紗が言った。
「今日の“なにしてんの”は、どうだった?」
僕は考えて答えた。
「最初は罠だった」
「うん」
「でも途中から、“ここにいる?”になった」
「それが受信機」
千紗が鈴をちん、と鳴らした。
「さぁ。成功」
「成功って言うと大会になる」
「じゃあ言い換え」
「現実通り」
「現実通り」
最後に、りんごを切った。
千紗が言う。
「最後にシャク」
僕が噛む。シャク。
音が、今日の出来事をきれいに割ってくれる。
“覗きたい”は悪じゃない。
でも覗き方を間違えると、罠になる。
僕らは罠を、手順で解除できる。
アンが椅子の上で丸くなりながら、りんごの欠片を狙って目を細めた。
僕はほんの小さな欠片を置く。
欠片はピース。ピースは完成側へ戻る。
千紗が封筒の表をもう一度指で叩いた。
「戻る、は便利でしょ」
「うん。便利で優しい」
「“なにしてんの”って言いたくなったら」
「まず戻る」
「そう。戻ってから、聞く」
僕は頷いて、もう一口シャクと噛んだ。
今日の僕らの会話は、覗きこまない。
でも離れない。
受信機の形で、ちゃんとつながる。




