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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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言葉にならないコーラス

 うちの家には、言葉にならない言葉がある。

 説明じゃなく、合図。

 結論じゃなく、調律。


 例えば、千紗が機嫌を直すときに口ずさむ「んー」。

 例えば、僕が焦りを止めるときに吐く「ふう」。

 そして今日のは、これだ。


「ななななな」


 千紗がキッチンでフライパンを振りながら、突然、歌うでもなく喋るでもなく、軽いリズムで言った。

 メロディはないのに、部屋の温度だけが一段明るくなる。


 アンは椅子の上で丸くなって、耳だけこちらに向けた。椅子。第三の動き。

 猫は“意味のない音”が好きだ。意味がないと争いが起きないから。


「……それ、何」

 僕が白湯を飲みながら聞くと、千紗は肩をすくめた。

「意味、いらない日」

「意味いらない日」

「うん。言葉を付けると重くなる日」

 千紗はフライパンの中の卵をひっくり返しながら言う。

「今日は、NANANAで整える」


 整える。

 それは僕らの得意分野だ。

 でも整え方が言葉じゃないのは珍しい。

 僕の受信機が「どういう意図?」って拾いに行きたがる。


 胸の奥で「チッ」。

 舌打ちじゃない、ブザー。

 “当てたい癖”の起動音。


 チッ=ブザー→凹凸→一手。

 凹凸。刺さったときの手すり。


「凹凸」

 僕が小さく言うと、千紗がすぐ返した。受信機がまだペアリングしてる。

「凹凸」


「…今日、当てない方がいい?」

 僕が確認すると、千紗は卵を皿に乗せて、冷蔵庫へ貼り紙を一枚増やした。貼り紙の忍者。

 太字で短く。


『NANANA=言葉の手前

 当てない(Tell meは後)

 椅子で整音

 線/スリット

 最後にシャク』


 僕が読み上げる。

「言葉の手前」

「うん」

 千紗が頷く。

「なぁ、の前。なあなあ、の前。もっと前」

「もっと前」

「うん。気持ちがまだ形になってないとき」

「形にすると潰れる」

「そう。だからNANANA」


 なるほど。

 言葉にすると、気持ちは急に四角くなる。

 四角いのが悪いんじゃない。

 でも柔らかいものを四角にすると、角が刺さることがある。


 千紗は鍵の鈴をちん、と鳴らした。

「さぁ。今日は“整音”ね」


 整音。

 そんな言葉があるのかは分からないけど、うちにはある。

 部屋のノイズを下げて、声の波形を整える日。

 “声の波形に宿るもの”を、なるべく壊さずに扱う日。


 僕は椅子に座った。椅子。第三の動き。

 座ると、身体が先に落ち着く。

 立ってると、心が走る。

 今日は走らない。


「で、NANANAは何のため?」

 僕が聞くと、千紗は少しだけ迷ってから言った。

「……昨日さ、仕事でちょっとだけ、嫌な言い方された」

 僕の胸の奥がまた反応する。

 チッ。ブザー。

 “でてくるなよ”のトリガーになりそうなやつ。


 でも今日は、言葉の手前。

 ここで“誰がなんと言っても”を振り回すと、刃物になる。

 ここで“TRAP解除”の会議を始めると、千紗のNANANAが潰れる。

 だから一手。

 一手は、同じ音で返すこと。


「ななななな」

 僕は恐る恐る言った。

 自分で言って、可笑しくなりそうになる。

 でも千紗の目が少し丸くなる。

 そして、笑った。


「そう、それ」

 千紗が言って、フライパンを流しに置いた。

「意味いらない。敵も味方も作らない。まず整音」


 アンが椅子から降りてきて、僕の膝に前足をちょん、と置いた。

 猫も参加したらしい。

 ななな、にゃ。

 音だけの合図。


 千紗はテーブルに座り、コーヒーを一口飲んだ。

 内なる五人で言うなら、今日はコーヒーが議長になりそうだけど、議長はまだいらない。

 今日は議長席を空ける。

 空っぽでも器は器。コップ。


「コップ」

 僕が言うと、千紗は頷いた。

「うん。空っぽでも器は器。今はまだ中身を言わない」

「NANANAで器だけ出す」

「そう」


 僕らはしばらく、意味のない音で会話をした。

「ななな」

「なななな」

「なな」

「なななななな」

 アンが「にゃ」と入る。

 完全に意味がない。

 なのに、部屋の空気が“整っていく”のが分かる。


 不思議だ。

 言葉って、便利だけど、便利すぎて危ない。

 便利な刃物にもなる。

 でも音は、刃になりにくい。

 音は、手袋みたいに触れる。


「ねえ」

 千紗が言った。

 ここで初めて、言葉が出た。

 整音が効いて、言葉の角が丸くなってから。


「Tell me、していい?」

 僕は頷く。

「Tell me」


 質問は三つまで。

 当てない。拾う。


「質問1。昨日の“嫌な言い方”は、青?赤?」

「青。冷たい」

「質問2。それは“あなたの中”に残ってる?“外”に置けそう?」

「半分残ってる」

「質問3。今、僕にしてほしいのは“聞く”と“抱っこ(痛くない)”どっち?」

 千紗は少し考えて、笑った。

「抱っこ。でも、NANANAの続きで」


 NANANAの続き。

 抱きしめるにも、言葉の手前がある。

 痛くない握り方。

 引っ張らない。つぶさない。


 僕は立ち上がって、千紗の肩に手を置き、そっと腕を回した。

 ぎゅーじゃない。

 輪。

 椅子の背もたれみたいな支え。


「ななな」

 千紗が僕の胸に顔を寄せて言う。

「なななな」

 僕も返す。

 意味はない。

 でも“ここにいる”だけが伝わる。


 千紗はぽつりと言った。

「昨日、“その程度の仕事なら誰でもできる”って言われた」

 言葉が刺さる。

 でも刺さった瞬間に、僕らには手すりがある。


「凹凸」

 僕が言う。

「凹凸」

 千紗が返す。


 そして一手。

 一手は、線とスリット。

 僕は紙に一本線を引いて、左に“現実通り”、右に“気持ち”。

 スリットを一つ入れる。通気口。


 現実通り:言われた。

 気持ち:悔しい。虚しい。少し泣きたい。

 でも、暗く沈ませない。

 沈む前に、音を戻す。


「なななな」

 僕が言うと、千紗が笑いながら鼻を鳴らした。

「それ、ずるい」

「ずるい?」

「泣きたいのに、笑っちゃう」

「笑っていい」

「うん…笑うと、戻れる」


 戻る。たまり場回の錨。

 家は戻り口。

 NANANAは、戻るためのコーラス。


 夕方、りんごを切った。

 最後にシャク。

 シャク、という音が、今日のNANANAにリズムを付ける。

 意味のない音と、現実の歯ごたえ。

 その両方があると、心はちゃんと地面に足を置ける。


「ねえ」

 僕が言う。

「NANANAって、歌じゃなくて…手順だね」

「うん」

 千紗が頷く。

「言葉になる前に、整える。誰かに言われた言葉が、私の中で大きくなる前に」

「大きくなると、罠になる」

「そう。TRAP」

「解除は?」

「まずNANANA」

 千紗が鈴をちん、と鳴らした。

「さぁ。今日のコーラス、合格」


「合格って言うと大会になる」

「じゃあ言い換え」

「現実通り」

「現実通り」


 アンが椅子の上で丸くなり、目を細めた。

 猫の判決も現実通り。

 意味のない音が、意味のある日を明るく支える。

 今日の僕らはそれを覚えた。

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