なあなあ防止線
「なあなあ、でさ」
千紗がそう言った瞬間、僕は反射で背筋を伸ばした。
“なあなあ”は、うちでは危険ワードだ。仲良しの合図にもなるけど、同時に、生活をヌルっと滑らせる潤滑油にもなる。
アンは椅子の上で丸くなって、しっぽの先で床をトントン叩いている。椅子。第三の動き。
猫は“なあなあ”が大好きだ。なあなあでおやつが増えるのを知っている。
「……どの、なあなあ?」
僕が白湯を飲みながら聞くと、千紗はスマホをテーブルに置いた。
「これ」
画面には、家計アプリの通知。
『今月の外食費が予算を超えました』
通知の言い方が、妙に礼儀正しい。丁寧に刺してくるタイプ。
胸の奥で「チッ」。
舌打ちじゃない、ブザー。
“まあいっか”が出てきそうな気配の音。
チッ=ブザー→凹凸→一手。
凹凸。刺さったときの手すり。
「凹凸」
僕が小さく言うと、千紗は眉を上げて返した。受信機が動いてる。
「凹凸」
「で、なあなあ、って?」
「……今月さ、忙しかったじゃん」
「うん」
「だから、まあ、なあなあでいっかって」
千紗は笑いに寄せた声で言う。
でも笑いの奥に、ちょっと青がいる。青寄りの黄。
“忙しかった”は現実通りだ。
だけど“なあなあでいっか”は、油断すると、そのまま次の月も滑る。
滑ると、いつか転ぶ。
転ぶと、暗く沈みやすい。うちは沈ませない。だから手順。
千紗が冷蔵庫に貼り紙を一枚増やした。貼り紙の忍者。
太い字で、今日のルール。
『なあなあ=滑り
線を引く(ゼロ/百禁止)
錨:現実通り
コップ/ピース
チッ→凹凸→一手
最後にシャク』
「線を引く」
僕が読み上げると、千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らした。
「さぁ。滑る前に止める」
鈴。刃物じゃない武器。背中を押す合図。
僕の中の炭酸が観客席で騒ぐ。
『すぐ節約!外食禁止!全部自炊!今日から修行!』
極端。百。
それも罠。TRAP。
だから、椅子。
僕はテーブルの椅子に座り直し、千紗にも目で促す。
「座ろ」
「うん」
千紗も座る。座ると会議になる。戦争じゃなく会議。
アンは椅子の上から降りてきて、僕らの足元に転がった。会議の邪魔をする係。
「内なる五人、呼ぶ?」
千紗が聞く。
僕は頷いた。こういう時、炭酸が議長になりたがるから。
「白湯:落ち着け」
「紅茶:礼儀(順番)を守れ」
「ほうじ茶:温めながら」
「コーヒー:具体に落とせ」
「炭酸:禁止!制裁!今日から禁欲!」
「炭酸は観客席」
千紗が即座に指を立てる。
「議長は白湯」
「はい」
僕は白湯を飲み、息を吐いた。吐くのが先。クロール。
そして、一手。
一手は“線”。
紙を一枚出して、一本線を引く。線。
その線に小さな切れ目。スリット。通気口。完全に閉めない。
「左が現実通り、右が気持ち」
僕が言うと、千紗が頷いた。
「混ぜない、閉めない、ね」
左に書く。
『外食費が予算オーバー。忙しかった。』
右に書く。
『まあいっかで流したい/でも後で嫌になりそう。』
書いた瞬間、千紗が小さく笑った。
「嫌になりそう、って自分で言うの、だいぶ受信機だね」
「受信機は拾う姿勢」
「うん。自分の小さな叫びも拾えるの、えらい」
「えらいって言うと大会になる」
「じゃあ言い換え」
「現実通り」
「そうそれ」
千紗が鈴をちん、と鳴らす。
「さぁ。錨、打とう」
錨の一語+理由一行+鈴。
風に飛ばされない発言手順。
僕は短く言った。
「錨:現実通り」
「理由:忙しかったのは本当。でも、なあなあは溜まる」
千紗が鈴をちん、と鳴らした。
「固定。いい」
固定されると、滑り止めが床に敷かれる感じがする。
まだ走らない。百に行かない。段で受ける。
「段、20/50/80でどれ?」
僕が聞くと、千紗はすぐ答えた。
「50」
「50なら、ピース化」
僕は貼り紙を指差した。
「山にしない。欠片→ピース」
「ピース、何にする?」
千紗が聞く。
「外食を責めないピースと、翌月を守るピース」
「二枚でいける?」
「いける。三枚だと欲張る」
千紗が紙の右側に小さく書く。
『ピース1:外食の回数を数えるだけ(反省会禁止)』
『ピース2:来週だけ“戻る日”を作る(自炊じゃなく戻る)』
「戻る日?」
「うん」
千紗が頷く。
「たまり場回の錨。“戻る”って言える日。コンビニ飯でもいい。とにかく家で座る」
「料理じゃなくて、座る」
「椅子が大事。第三の動き」
アンがその言葉を聞いたみたいに、僕の膝に前足を置いた。
猫の“戻る”は、体重で表現される。重い。かわいい。ずるい。
「で、外食の中身も、なあなあで流しちゃう?」
千紗が聞く。
言い方が柔らかい。
“なあなあ”を悪者にしないトーン。ここ大事。
「流さない」
僕は言った。
「でも裁かない。線を引いて、スリットを残す」
「スリット?」
「例えば、外食の中で“良かったやつ”と“惰性のやつ”を分ける」
「惰性」
「惰性は悪じゃない。でも惰性が増えると、なあなあが滑る」
千紗は少し考えて、スマホの履歴を開いた。
「良かったやつは…あのラーメン」
「うん。あれはピースだ」
「惰性は…遅くて、帰り道の駅ナカ」
「それも現実通り」
僕は言葉を添える。
「駅ナカを責めない。駅ナカを“手袋”にする」
「手袋?」
「触れないで守る。疲れた日に、無理して料理に触れない。駅ナカで守る日があっていい」
「……いいね」
千紗が頷く。
「手袋運用、好き」
好き。
“好き”が出ると、会議がちゃんと生活に戻ってくる。
「じゃあ、コップ」
千紗が言った。
「コップ?」
「空っぽでも器は器」
千紗は理由を一行で添えた。
「理由:お金の話も、空っぽ扱いにしない。器を出して、注ぎ方を決める」
鈴がちん。
「さぁ。器はある」
器はある。
それだけで、怖さが減る。
“予算オーバー=終わり”じゃなく、“器の調整”になる。
僕は笑って言った。
「なあなあって、悪くないんだね」
「うん」
千紗も笑う。
「悪いのは“なあなあで放置して、いつか爆発するやつ”」
「爆発は炭酸の仕事」
「炭酸は観客席でいい」
「観客席、うるさいけど」
「うるさいのは元気」
そのタイミングで、アンがにゃ、と鳴いた。
明らかに会議が長いと訴えている。
猫の議長権は強い。
「よし」
千紗が鈴をちん、と鳴らす。
「会議、閉会。最後にシャク」
りんごを切る。
最後にシャク。
食感で割る。
噛む音が、今日の“なあなあ”を、ヌルっとした油じゃなく、ちょうどいい潤滑剤として体に落とす。
シャク。
千紗が笑って言った。
「ねえ、なあなあってさ、ほんとは優しい言葉だよね」
「うん」
僕も頷く。
「厳しくしない合図」
「そう。だからこそ、線が必要」
「優しさが滑らないための線」
「それそれ」
アンがりんごの欠片を狙っているので、ほんの少しだけ置く。
欠片はピース。ピースは完成側へ戻る。
アンはぺろりと舐めて、満足そうに椅子へ戻った。猫は会議の成果を受け取るのが早い。
僕はもう一度、口の中の歯ごたえを確かめてから言った。
「今月は、なあなあで責めない」
「うん」
千紗が頷く。
「来月は、なあなあで滑らない」
「うん」
千紗が鈴をちん、と鳴らした。
「さぁ。現実通りで、仲良くいこ」
“なあなあ”は、怠ける言葉じゃない。
優しさが雑にならないための、ノックみたいな音。
僕らはその音に、手すり(凹凸)と、線と、錨と、シャクを足していく。
滑らないまま、暗く沈まないまま。




