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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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なぁ、の手前

 「なぁ」


 その一音は、扉の前のノックに似ている。

 ドアを叩くほど強くない。

 でも、無言で立ち尽くすほど弱くもない。

 入っていい?の手前。

 話していい?の手前。


 朝、千紗がキッチンで味噌汁を温めながら、ぽつりと「なぁ」と言った。

 言ったきり、続きがない。


 僕の胸の奥が、すぐ反応する。

 チッ。

 舌打ちじゃない、ブザー。

 “続きが来ない”の音。


 チッ=ブザー→凹凸→一手。

 凹凸。刺さったときの手すり。


「凹凸」

 僕が小さく言うと、千紗は鍋をかき混ぜながら返した。受信機がまだ動いている。

「凹凸」


 アンは椅子の上で丸くなって、しっぽの先をゆっくり揺らしている。椅子。第三の動き。

 猫のしっぽは、言葉の“手前”をずっとやってるみたいだ。

 決めないまま、でも迷子じゃない揺れ。


「……Tell me?」

 僕がそっと言うと、千紗は小さく笑った。

「うん。Tell me」

 それだけで、部屋の空気が柔らかくなる。

 “当てない”の合図が出た。


 千紗は冷蔵庫に貼り紙を一枚増やした。貼り紙の忍者。

 今日は短くこれ。


『なぁ=ノック

 質問は三つまで

 椅子/線/スリット

 錨:現実通り

 最後にシャク』


「ノック」

 僕が読み上げると、千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らした。

「さぁ。入っていい?」


 入っていい?

 この確認があると、“なぁ”は怖くない。

 怖いのは、勝手に入って勝手に家具を動かすこと。

 僕は昔それをやりがちだった。優しさのつもりで。


 だから今日は、椅子。第三の動き。

 僕はテーブルの椅子に座った。

 千紗も鍋の火を弱めて、向かいに座る。

 座ると、言葉が跳ねない。


「質問1」

 僕はゆっくり言った。

「“なぁ”の温度、青?黄?どっち寄り?」

 千紗は少し考えて答えた。

「青寄りの黄」

「青寄りの黄」

「うん。元気ないわけじゃない。でも、ちょっと怖い」

「怖い」

「うん。言うのが」


 青寄りの黄。

 日向にいるのに影がある感じ。

 暗く沈ませないために、影を影のまま扱う。


「質問2」

 僕は続けた。

「“言うのが怖い”の中身は、出来事?気持ち?」

「気持ち」

「うん」

 気持ちなら、線とスリットで扱える。

 現実通りを先に置けば、気持ちが溺れない。


「質問3」

「今、僕にしてほしいのは“聞く”と“待つ”、どっち?」

 千紗は即答した。

「聞く。でも…途中で止まるかも」

「止まっていい」

 僕は言った。

「止まったら、スリット」

「うん」


 千紗は深呼吸して、指先でマグの縁をなぞった。

 言葉を探す仕草。

 僕は待つ。

 待つのは苦手だけど、受信機は“拾う”だけじゃなく“待つ”でもある。


「……なぁ」

 千紗がもう一度言った。

 ノックが二回。

 ドアの向こうに誰かがいる感じがする。


「うん」

 僕は返事を短くした。

 返事を長くすると、僕の言葉で部屋を埋めてしまう。

 今日は埋めない。スリットを残す。


「最近さ」

 千紗が言う。

「私、あなたに“助けて”って言うの、ちょっと下手になってる」

 胸の奥がチッと鳴りかけた。

 “僕が悪い?”が立ち上がる。炭酸が観客席で叫ぶ。

『今すぐ理由を突き止めろ!謝れ!改善案を出せ!』


 罠。TRAP。

 自動反応。

 ここで当てに行くと、千紗の“なぁ”が潰れる。


 チッ。ブザー。

 凹凸。


「凹凸」

 僕は言った。

「凹凸」

 千紗が返す。

 手すりが立つ。落ちない。


 一手。

 一手は、線。

 僕は紙を出して一本線を引き、左に“現実通り”、右に“気持ち”と書いた。

 そしてスリット。切れ目。通気口。


「現実通り、書こう」

 僕が言うと、千紗は頷いた。

 千紗が左に書く。


『助けてと言う回数が減った。』


 右に書く。


『言うと、重くなる気がする。あなたが頑張りすぎる気がする。』


 頑張りすぎる。

 僕の“離せない”の形。

 痛くない握り方へ直したばかりなのに、まだ癖が残ってる。


「ありがとう。言ってくれて」

 僕はまず受け取った。

 そっか○、を心の中で鳴らす。

 受け取ったの○。


「僕の“頑張りすぎ”が、千紗の“助けて”を細くしてる?」

 僕は“当てない”ギリギリの形で確認した。

 千紗は頷く。

「うん。あなたが悪いっていうより、私が“あなたを焦がしたくない”」

「焦がしたくない」

「うん。あなた、強火になると、止めるの遅い」

「…現実通り」

「現実通り」


 笑いが少し混じった。

 この笑いは救命具だ。

 ギャグに寄せすぎない、でも暗く沈まない。


「じゃあ、錨」

 千紗が言った。

「今日は“助けて”を軽く言える錨を作りたい」

 錨の一語+理由一行+鈴。

 風に飛ばされない発言手順。


 僕は短く言った。

「錨:コップ」

 千紗が目を瞬いた。

「コップ?」

「空っぽでも器は器」

 僕は理由を一行で添える。

「理由:助けては“満たす要求”じゃなく“器を見せる合図”でいい」

 千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らした。

「固定。いい…それ、軽い」


 軽い。

 軽いのは、薄いんじゃなくて、持てる重さ。

 “助けて”が重いと、言えなくなる。

 言えなくなると、積もる。ちりつもたれつで山になる。

 山になる前に、コップを出す。

 器を見せる。


「じゃあ実演」

 千紗が言う。

「なぁ」

「うん」

「コップ」

 千紗が小さく言う。

「理由一行:今日は頭がごちゃってる」

 それだけ。


 僕の胸の奥が熱くなる。

 ここで抱きしめたくなる。100で。

 でも今日は“痛くない握り方”。


「受け取った」

 僕は短く言った。

「一手、何がいい?椅子?線?シャク?」

 千紗が笑った。

「シャクは最後。今は…椅子」

「椅子」

「うん。ここで一緒に座ってて」


 僕らはただ座った。

 何も解決しない。

 でもそれが、千紗の“助けて”の形だった。

 見守り。手袋。触れないで守る距離。

 触れないのに、いないわけじゃない。


 味噌汁の湯気が、ゆっくり上がる。

 アンが椅子の下から出てきて、僕らの足元を通り過ぎる。

 猫の足音が、生活の拍子を戻す。


「ねえ」

 千紗が言った。

「“なぁ”ってさ、便利だね」

「便利」

「うん。言い切らなくていい。ノックでいい」

「ノックは、入っていい?の手前」

「そう。手前があると、怖くない」


 僕は頷いた。

 手前は、大事だ。

 いきなり本題に飛び込むと、心が水しぶきを上げる。

 手前があると、濡れずに入れる。


 夕方、りんごを切った。

 最後にシャク。

 千紗が一口噛む。シャク。

 僕も噛む。シャク。

 食感が、今日の“言えた”を現実通りに締めてくれる。


「ねえ」

 僕が言う。

「次に“なぁ”が出たら、僕、ちゃんとノックだって分かる」

「うん」

 千紗が頷く。

「で、勝手にドア開けない」

「開けない」

「でも、いる」

「いる」


 千紗が最後に鈴をちん、と鳴らした。

「さぁ。今日のノック、合格」

「合格って言うと大会になる」

「じゃあ言い換え」

 千紗が笑って言う。

「現実通り」


 “なぁ”は、言葉じゃなく距離の測り方。

 僕らはその一音を、暗く沈む前の合図に変えていく。

 ノックの回数だけ、優しくなれる。

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