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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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小さな罠の外し方

 罠って、派手な音を立てない。

 パカーンと落とし穴が開くとか、天井から網が降ってくるとか、そういう漫画みたいなやつじゃない。

 僕らの日常の罠は、もっと静かで、もっと親切そうな顔をしている。


 例えば。


「ねえ、これ見て」

 千紗がスマホを差し出す。朝の台所。白湯の湯気。トーストの匂い。アンは椅子の上で前足を揃えて、裁判官みたいな顔。椅子。第三の動き。


 画面には、見た瞬間に脳が勝手に続きを読みたがる文字が並んでいた。


『あなたのタイプが分かる!たった3問で診断!』

『恋人に言ってはいけないNGワード10選』

『この行動をしていたら危険信号!?』


「罠」

 僕が即答すると、千紗は満足そうに頷いた。

「そう、罠。しかも甘い罠」

「甘い罠は糖分が高い」

「摂りすぎると頭がむくむ」

「むくむって何」

「あなたの場合、勝手に当てに行く」

 千紗が言って、目を細める。受信機が鋭い。


 ……当てに行く。

 僕の癖だ。

 “診断”とか“NGワード”とか、答えがある形を見ると、勝手に正解を探してしまう。

 そして、正解を探すうちに、千紗の言葉を聞く前に「こうでしょ?」って当てる。

 優しさのつもりで、相手の余白を奪う。

 罠だ。自分で自分に仕掛けるやつ。


 胸の奥で「チッ」が鳴った。

 舌打ちじゃない、ブザー。

 “今、落ちかけた”の合図。


 チッ=ブザー→凹凸→一手。

 凹凸。刺さったときの手すり。


「凹凸」

 僕が小さく言うと、千紗は笑いを含んだ声で返した。

「凹凸」


 合言葉を返すと、落とし穴の縁に手すりが立つ。

 完全に落ちる前に、掴める。


「一手」

 千紗が言って、鍵の鈴をちん、と鳴らした。

「さぁ。罠解除、やろ」


 鈴。背中を押す合図。刃物じゃない武器。

 千紗の「さぁ」は、世界を動かす号令じゃなく、僕の肩の力を抜く小さな指示だ。


「罠解除って、爆弾処理班みたい」

「似てるよ」

 千紗は真顔で言った。

「赤い線切ると爆発する、みたいな」

「どの線が赤いの」

「あなたの“当てたい”」

「赤い」

「赤い」


 アンが椅子から降りてきて、僕の足元でくるりと回った。

 猫は罠を踏んでも平気そうに見えるけど、実は踏まない。

 踏む前に止まる。嗅ぐ。見る。座る。

 猫は“第三の動き”の天才だ。


 千紗は冷蔵庫の扉に貼り紙を追加した。貼り紙の忍者。

 太い字で短く、今日はこれ。


『TRAP=自動反応

 線/スリット/椅子

 当てない(Tell me)

 錨の一語+理由一行+鈴

 最後にシャク』


「当てない(Tell me)」

 僕が読み上げると、千紗は頷いた。

「うん。罠って、自動で動くでしょ。だから、自動を止める合図が必要」

「Tell me」

「そう。質問は三つまで」

「了解」


 千紗はスマホをテーブルに置き、紙とペンを持ってきた。

 一本線を引く。線。

 その線に小さな切れ目を入れる。スリット。

「左が現実通り、右が想像。混ぜない。閉めない」

「罠解除の基本」

「うん」


 僕は言った。

「現実通り:千紗が診断系の記事を見てる」

「想像:僕がそれを見て勝手に心配する」

「うん、想像は“罠の餌”」

 千紗がペン先で右側をちょん、と突く。

「餌に近づきすぎると落ちる」


 僕は白湯を一口飲んで、息を吐いた。吐くのが先。クロール。

 そして、内なる五人を呼ぶ。こういう時、炭酸が議長になりやすい。


「白湯:落ち着け」

「紅茶:順番を守れ」

「ほうじ茶:温めながら」

「コーヒー:具体にしろ」

「炭酸:今すぐ全部読め!対策しろ!NGワード覚えろ!」


 炭酸がうるさい。

 千紗が鈴をちん、と鳴らす。

「炭酸は観客席。議長は白湯」

「はい」

「で、Tell me」

「Tell me」


 僕は質問を三つに絞った。

 当てるための質問じゃなく、拾うための質問。


「質問1。千紗、今その記事を見た理由は“面白い”か“不安”か、どっち寄り?」

 千紗は少し考えて、肩をすくめた。

「半々。でも今日は“面白い”が勝ち」

「よし」


「質問2。僕にしてほしいのは“一緒に笑う”と“対策を考える”、どっち?」

「一緒に笑う」

「よし」


「質問3。罠っぽいと感じるところ、どこ?」

 千紗は画面を指でスクロールして、タイトルの語尾を示した。

「“危険信号”とか“NG”とか。煽り」

「煽りは罠」

「うん。煽りは心のブザーを鳴らす」


 僕の胸の奥で「チッ」が鳴りかけた。

 煽りという言葉だけで、僕は“守らなきゃ”モードに入りやすい。

 でも今日は運用がある。


「凹凸」

 僕が言う。

「凹凸」

 千紗も返す。


「一手」

 千紗が言う。

「椅子」

「また座る?」

「うん。記事を読む前に座る。読むと立ち上がって走るから」

「走る」

「あなた、正解へ走る」


 僕らは椅子に座った。

 座ると、スマホが“戦場”じゃなく“ただの四角”になる。

 四角は四角。世界じゃない。現実通り。


「じゃ、罠解除の手順」

 千紗が言って、指を一本立てた。

「錨」

 錨の一語+理由一行+鈴。風に飛ばされない発言手順。


 僕は考えて、短く言った。

「錨:現実通り」

「理由:タイトルは煽り。中身は生活に合わせて取捨選択」

 千紗が鈴をちん、と鳴らす。

「固定。よし」


 固定されると、落とし穴のフタができる。

 密閉じゃない。スリットがある。

 必要なら開けて、必要な分だけ覗ける。


 千紗はスマホを僕に渡した。

「読んでいいよ」

「え、罠じゃないの」

「罠を罠のままにしない練習。読むなら“食感で割る”をセット」

「りんご?」

「うん。シャクの用意」

「なんで食べ物が爆弾処理班に」

「噛むと戻るから」

 千紗は真顔で言う。

「思考の過熱を、顎で冷ます」


 僕はりんごを洗って切った。

 アンが寄ってくる。

 猫は“シャク”の準備にだけは素早い。現実通り。


 僕は記事を読み始めた。

 途中まで読んで、すぐ分かった。

 大半は“あるある”と“それっぽい言葉”のミックスだ。

 誰でも当てはまりそうな文が多い。

 つまり、当てに行く人ほどハマる。


 チッ。ブザー。

 僕はすぐ言う。

「凹凸」

「凹凸」

 千紗が返す。


「一手」

 僕は自分で言った。

「シャク」

 りんごを噛む。

 シャク。

 音が、頭の中の煽りを割ってくれる。

 “危険信号”はただの言葉になる。


「……これ、罠だね」

 僕が言うと、千紗は頷いた。

「どこが?」

「“あなたはこう”って断定して、焦らせて、別ページに飛ばす」

「うん。落とし穴の誘導」

「で、僕の罠は」

 僕は自分の胸に手を当てる。

「“正解”を探して千紗を守るフリして当てに行く」

「そう」

 千紗が笑って、軽く肩をぶつけた。

「だから今日の解除は成功」


 成功って言うと百になりそうなので、僕は言い換えた。

「現実通り」

「うん、現実通り」

 千紗が鈴をちん、と鳴らす。

「さぁ。じゃあ次の罠」


「まだあるの」

「ある」

 千紗は指を二本立てた。

「“言ってはいけないNGワード”」

「それは…」

 僕の中の炭酸が立ち上がりかける。

『覚えろ!地雷を踏むな!』


 チッ。ブザー。

 凹凸。

 一手。


「Tell me」

 僕が言うと、千紗は笑った。

「いいね。じゃあ言う」

 千紗は指先で机をトントンして、考えてから言った。

「私が嫌なのは、言葉じゃなくて“当て口調”」

「当て口調」

「うん。『つまりこういうことでしょ?』って決めに来るやつ」

「……それは、僕だ」

「そう。だからNGワードじゃなくNGフォーム」

「フォーム」

「うん。フォームの問題」


 なるほど。

 言葉狩りの罠に落ちない。

 “正解の単語”を集めると、会話が硬くなる。

 でも“姿勢”を整えるなら、優しくなる。

 受信機の姿勢。


「じゃあ僕の錨、もう一個打っていい?」

 僕が言うと、千紗は頷いた。

「どうぞ」


 錨の一語+理由一行+鈴。

 僕は短く言った。


「錨:受信機」

「理由:当てる前に、拾う。聞く。待つ」

 千紗が鈴をちん、と鳴らす。

「固定。これ、めっちゃ効くやつ」


 アンが椅子の上であくびをして、しっぽを一回だけ振った。

 猫の判決は「それでよし」。


 午後、僕らは“罠の練習”として、もう一つだけ小さなゲームをした。

 スマホを触りたくなったら、まず“椅子”。

 次に“線”。

 やることを一つだけ書く。

 それ以外はスリットの向こうに置く。

 最後に“シャク”。


 結果、驚くほど平和だった。

 罠はなくならない。

 でも、罠に落ちたときの出口が増えると、怖くない。


 夜、千紗が言った。

「ねえ、今日の罠解除で一番よかったの、どれだと思う?」

 僕は少し考えて答えた。

「“当てない”を、僕が守りとして選べたこと」

「うん」

 千紗が頷く。

「守り方が変わるの、CHANGEでいい変化」


 僕は最後にりんごを噛んだ。

 シャク。

 食感で割る。

 罠の甘さを、現実通りの歯ごたえに戻す。


「さぁ」

 千紗が鈴をちん、と鳴らした。

「明日も罠はある。だから明日も手順」

「凹凸」

「凹凸」

 僕らは手すりを確認し合って、笑った。

 落とし穴を怖がり続けるんじゃなく、落ちない歩き方を増やす。

 暗く沈まずに、生活の中で。

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