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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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フタの閉め方

 「……でてくるなよ」


 僕は、冷蔵庫の奥に向かって低く言った。

 そこにいるのは怪物でも幽霊でもない。

 昨日買ったヨーグルトの影に、ひっそり潜んでいる“思い出”だ。


 千紗が振り向く。受信機が早い。

「なにが?」

「……賞味期限」

「それは出てきて」

「うん、それは出てきて」


 アンは椅子の上で丸くなり、しっぽの先だけで笑っているみたいに揺れた。椅子。第三の動き。

 猫は見ている。人間が“出てくるなよ”を言う時、だいたい別のものに言ってるのを。


 僕は冷蔵庫を閉めた。

 カチャ。

 その音が、境界線みたいに聞こえる。線。

 でも線は、刃物じゃなく、生活の区切りだ。


 今日の僕の「出てくるなよ」は、賞味期限じゃない。

 スマホの通知のせいだ。


『〇年前の今日:あなたの投稿』


 SNSの“思い出”機能。

 人間の心の裏側を勝手に開ける、無遠慮な指。


 画面に映るのは、僕の過去。

 今より髪が長くて、今より熱が高くて、今より言葉が大きい。

 そして、いま見たくない一文が、丸ごと残っている。


『絶対に負けない。誰がなんと言っても。』


 ……誰がなんと言っても、って。

 今の僕が読むと、恥ずかしさで背中が丸くなる。

 しかも、その投稿の下に、当時の知り合いのコメントが並んでいる。

 軽い冗談の顔をした針が、いくつも。


 胸の奥で「チッ」が鳴った。

 舌打ちじゃない、ブザー。

 “出てきた”の合図。


 チッ=ブザー→凹凸→一手。

 凹凸。刺さったときの手すり。


「凹凸」

 僕が小さく言うと、千紗はすぐ返した。

「凹凸」


 それだけで、スマホの画面が“世界の終わり”じゃなく“ただの過去”に戻る。

 でもまだ、過去の僕が目の前で腕組みしてる。

 やたら自信満々で、声がでかい。

 そして僕に言う。

『見ろよ。逃げるの?』


「……でてくるなよ」

 僕はもう一度言った。

 今度はちゃんと、過去の僕へ。


 千紗がマグを置いて、冷蔵庫に貼り紙を増やした。貼り紙の忍者。

 太い字で短く。


『出てくるなよ=フタ

 でも密閉しない(スリット)

 手袋で触る

 椅子で座る

 錨:現実通り

 最後にシャク』


「フタ」

 僕が読み上げる。

「密閉しない」

「密閉すると爆発するから」

 千紗は真顔で言った。

「あなた、押し込めると夜中に出てくるタイプ」

「やめて」

「現実通り」


 僕は苦笑いした。

 暗く沈ませないための笑い。炭酸がちょっとだけ踊る。

 でも議長は白湯。落ち着け。


「一手」

 千紗が言う。

「椅子」

「座る?」

「座る。立ったままだと過去と取っ組み合いになる」

「取っ組み合いはしたくない」

「うん。生活の運用にする」


 僕らはテーブルに座った。

 アンは椅子の上から降りてきて、僕の足の甲に前足をちょん、と置いた。

 猫の錨。重すぎない重し。


「それ、どの“出てきた”?」

 千紗が聞く。

「恥ずかしいやつ」

「恥ずかしいの種類」

「……昔の僕が強火」

「強火のあなたが出てきた」

「うん。で、今の僕に絡んでくる」

「絡み酒みたい」

「絡み僕」


 千紗が笑った。

 笑えるなら、まだ大丈夫。

 笑えない時は、もっと手順が必要だ。


「内なる五人、呼ぶ?」

 千紗が言う。

 僕は頷いた。こういう時、炭酸が勝手に議長席に座る。


「白湯:落ち着け」

「紅茶:礼儀を守れ(順番)」

「ほうじ茶:温めながら」

「コーヒー:具体に落とせ」

「炭酸:消せ!今すぐ削除!存在を抹消!」


 炭酸が極端だ。

 千紗が鈴をちん、と鳴らす。

「炭酸は観客席。議長は白湯」

「はい」


 僕は白湯を一口飲んで、息を吐いた。吐くのが先。クロール。

 そして、線。


 千紗が紙を出し、一本線を引いた。線。

 その線に小さな切れ目を入れる。スリット。通気口。

「左が“現実通り”、右が“感情”。混ぜない。閉めない」

「うん」


 僕は左に書く。

『SNSが昔の投稿を出してきた。』


 右に書く。

『恥ずかしい。腹がむずむずする。消したくなる。』


 書けただけで、恥ずかしさが少しだけ小さくなる。

 霧が布になる。布なら畳める。


「で、あなたの“でてくるなよ”は何のフタ?」

 千紗が聞く。

「過去の僕が、今の僕を責めるフタ」

「責める」

「“弱くなった”って言ってくる」

 僕は正直に言った。

「昔の僕は、誰がなんと言っても、で走ってた。今の僕は…段で止める。止めるのが上手くなった。だから弱く見える」


 千紗は少し黙って、指先で紙のスリットをなぞった。

「それ、弱いんじゃなくて」

「うん」

「呼吸ができるようになっただけ」


 呼吸。

 その言葉で、胸の奥が少しほどける。

 強火の僕は、呼吸が浅かった。

 燃え続けることが正義だと思ってた。

 焦げるまで。


「じゃあ、錨を打とう」

 千紗が言った。

 錨の一語+理由一行+鈴。風に飛ばされない発言手順。


 僕は少し考えて言った。

「錨:現実通り」

「理由:昔の僕は嘘じゃない。でも今の僕も嘘じゃない」

 千紗が鈴をちん、と鳴らす。

「固定」


 固定されると、過去の僕が少しだけ黙る。

 完全には消えない。

 消さないのが今日のルールだ。密閉しない。


「じゃあ手袋」

 千紗が言う。

 引き出しから薄い手袋を取り出して、僕に差し出す。

「触れないで守る。触れるけど、素手で殴り合わない」

「殴り合わない」

「うん。手袋は“やさしい距離”」


 僕は手袋を片手だけはめた。

 片手がちょうどいい。

 全部装備すると工事現場になる。


「で、どうする?投稿」

 千紗が聞く。

 炭酸が観客席で叫ぶ。

『消せ消せ消せ!』


 でも白湯議長は言う。

『一手ずつ。』


 僕は段を思い出した。

 ゼロか百か禁止。

 今日は50。

 50の選択肢があるはず。


「削除じゃなくて…アーカイブにする」

 僕は言った。

「見えないところに置く。でも存在は消さない」

「それ、スリットの運用」

 千紗が頷く。

「過去を抹消しない。今を守る」


 僕はスマホで投稿をアーカイブした。

 消えた。

 でも“消した”じゃない。

 しまった、だ。


 それだけで、過去の僕が少しだけ小さくなって、椅子に座った気配がした。

 立って絡み続けるのをやめた。

 第三の動き。椅子が効く。


「それでも出てくる時あるよ」

 僕が言うと、千紗は即答した。

「出てくる」

「じゃあその時」

「合図」

 千紗が鈴をちん、と鳴らす。

「さぁ、で始める」

「“さぁ、出てくるなよ”?矛盾してない?」

「矛盾じゃない」

 千紗は笑って言った。

「“出てくるなよ”は追い払う言葉じゃなくて、フタの閉め方の合図。乱暴に閉めない。静かに閉める」


 静かに閉める。

 それが、僕の欲しかったやり方かもしれない。

 過去を殴らない。今を守る。

 その間にスリットを残す。


 昼過ぎ、アンが急に走り出して、棚の下に頭を突っ込んだ。

 何か見つけたらしい。

 僕が覗くと、古いボールペンが転がっていた。

 いつのだ。

 何のだ。

 ちりつもたれつの小さな遺物。


「でてくるなよ」

 僕が言うと、千紗が吹き出した。

「それは出てきていいやつ!」

「いや、だって…知らない過去が出てくる」

「知らない過去って言い方、怖い」

「現実通りに言うと、ただのボールペン」

「そうそう」


 僕らは笑って、ボールペンをペン立てに戻した。

 ピース。欠片→ピース化。完成側へ戻る。

 過去の残り物も、扱えばただの道具になる。


 夕方、千紗がりんごを切った。

「最後にシャク」

 僕が一口噛む。

 シャク。

 音が、今日の出来事を身体の方へ落としてくれる。

 頭の中の“恥ずかしさ”が、食感で割れて、ただの経験になる。


「ねえ」

 僕が言った。

「昔の僕、嫌いじゃないんだよね」

「うん」

 千紗が頷く。

「あなたの“誰がなんと言っても”があったから、今の段がある」

「段」

「20/50/80。止められる強さ」

「止められる強さ…」

「うん。止めるのは弱さじゃない。焦がさない技術」


 僕はもう一口、りんごを噛んだ。

 シャク。

 過去の僕が、遠くで腕を組んだまま、でも少しだけ笑ってる気がした。

 負けないって叫んでた自分が、今の自分の“呼吸”を見て、納得してるみたいに。


 千紗が最後に鈴をちん、と鳴らした。

「さぁ。フタ、上手に閉められた」

「でてくるなよ」

「うん、それ。合図としてね」


 僕らは“出てくるなよ”を、追い払いの呪文じゃなく、静かなフタの閉め方にした。

 密閉はしない。スリットを残す。

 過去は消さない。今を守る。

 暗く沈まずに、生活の中で。

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