訊ねていい言葉
千紗が黙ると、部屋の音が増える。
冷蔵庫の低い唸り、蛇口の雫、アンのしっぽが椅子を叩く小さな音。椅子。第三の動き。
普段なら生活のBGMでしかないのに、今日は全部が「何かある」を合唱している。
僕は白湯を飲みながら、千紗の横顔を盗み見た。
いつもならトーストをひっくり返すタイミングで何か一言くれるのに、今日はない。
ない、のは悪くない。
でも僕の心は、ない、を勝手に埋めたがる。
胸の奥で「チッ」。
舌打ちじゃない、ブザー。
“推測大会”の開始音。
チッ=ブザー→凹凸→一手。
凹凸。刺さったときの手すり。
「凹凸」
僕が小さく言うと、千紗は振り向かずに、でも返してくれた。受信機がまだ動いている証拠。
「凹凸」
アンは椅子の上で丸くなって、目だけこちらを見ている。
猫はたぶんこう思っている。
“人間はすぐ、勝手に字幕を付ける”。
僕は言葉を選んだ。
ここで「どうしたの?」と聞くと、千紗が「別に」と返したときに僕が沈む。
沈むと暗くなる。暗く沈ませないのがルール。
じゃあ放置?
それも違う。受信機は拾う姿勢だ。
だから、第三の動き。椅子を置く。
戦いじゃなく運用にする。
「…座ろ」
僕が言うと、千紗は「うん」と短く返して、僕らはテーブルに向かって座った。
座ると、言葉が丸くなる。立ってると守るために前のめりになるから。
千紗がコーヒーを一口飲んで、ぽつりと言った。
「ねえ」
「うん」
「今日、あなたに“当てられたくない”」
僕は一瞬、息が止まった。
当てる。僕の得意技であり、悪癖。
相手が言う前に「こうでしょ?」と答えを出してしまう。
胸の奥でまた「チッ」。ブザー。
でも今日は舌打ちじゃなく合図にする。
凹凸を握って、一手へ。
「…当てられたくない、了解」
僕が言うと、千紗は少しだけ肩の力を抜いた。
「うん。お願い」
「じゃあ一手、どうする」
「…“言って”って言ってほしい」
「言って?」
「うん。“Tell me”」
英語が急に出た。
でも千紗の「Tell me」は格好つけじゃなく、合図の音だった。
千紗は立ち上がって、冷蔵庫の扉に新しい貼り紙を貼った。貼り紙の忍者。
太めの文字で、短く。
『Tell me=当てない
質問は三つまで
答えは欠片でいい
チッ→凹凸→一手
最後にシャク』
「質問は三つまで」
僕が読み上げると、千紗は鍵の鈴をちん、と鳴らした。
「さぁ。今日の武器」
武器。刃物じゃない武器。
背中を押す合図の方。
僕はその鈴の音で、推測大会の会場を閉めた。
CALLED GAME。止める笛。
「Tell me、ね」
「うん。言って」
千紗は少し照れた顔で、でも目はまっすぐだった。
“言ってほしい”を言えるのは、強い。
「じゃあ、Tell me」
僕は言った。
言った瞬間、僕の中の癖がむずむずする。
“答えを出したい”が立ち上がる。炭酸が観客席で暴れる。
だから、内なる五人を呼ぶ。
自分の中の役職を整理しないと、炭酸が勝手に議長になる。
「白湯:落ち着け」
「紅茶:礼儀(順番)を守れ」
「ほうじ茶:温めながら」
「コーヒー:具体に落とせ」
「炭酸:当てろ!正解を出せ!今すぐ!」
千紗が指を立てた。
「議長は白湯。炭酸は観客席」
「はい」
「で、質問は三つまで」
「了解」
僕は深呼吸した。吐くのが先。クロール。
そして、質問を“当てる”ためじゃなく、“拾う”ために使う。
「質問1。いまの千紗の色、何色?」
千紗は少し考えて答えた。
「青」
「理由一行、いける?」
「冷たいってほどじゃないけど、ひとりで抱えたい感じ」
青。タユタウの日の青じゃなく、静かな青。
「質問2。抱えてるのは“出来事”か、“気分”か、どっち寄り?」
「出来事」
「うん」
出来事なら、線が引ける。境界が作れる。
「質問3。今、僕にしてほしいのは“聞く”と“待つ”どっち?」
千紗は即答した。
「聞く。でも当てない」
「了解。Tell meのルールで聞く」
ここで僕は、いつもの癖を封じるために、紙を一枚持ってきた。
一本線を引く。線。
その線に小さな切れ目を入れる。スリット。通気口。
完全に閉めない。ゼロか百かにしない。
「左が現実通り、右が気持ち。スリットは通気口」
僕が言うと、千紗は頷いた。
「うん、その形、好き」
「じゃあ、現実通りをTell me」
僕は言った。
千紗はマグを置いて、指先でテーブルの木目をなぞった。
言葉を探している仕草。
僕は待つ。待つのは苦手だけど、今日は“待つも受信”だ。
「…昼にね、上司から言われた」
「うん」
「“最近ちょっと、余裕ない顔してる”って」
「…うん」
「それ、正しいんだけど」
千紗は苦笑した。
「正しいって言われると、逃げ場なくなるんだよね」
正しいの圧。
分かる。
正しいは刃物になりやすい。
でも僕はここで、上司を悪者にしない。
僕は千紗の味方の仕方を選ぶ。
「気持ち側も、Tell me」
僕は言った。
千紗は少し息を吐いてから続けた。
「…私、余裕ない顔してる自分が嫌で、でも余裕作るために何か削ろうとすると、削る場所が分からなくて」
「うん」
「で、あなたの前だと、余裕作ろうとして“ちゃんとしよう”が出る」
「…それで黙ってた?」
「うん。黙ると、当てられないから」
千紗は視線を上げて言った。
「あなた、優しさで当てるでしょ。先回りで守るでしょ。私はそれ、嬉しいんだけど…今日は、先に自分で言いたかった」
胸の奥が、すこし痛んだ。
でもこれは責めじゃない。運用の更新だ。CHANGE。
変わるときは音がしない。だから言葉で音を付ける。
僕は一回、鈴を鳴らした。ちん。
さぁ、を自分に向ける。
「ありがとう。言ってくれて」
「うん」
「ここから先、僕が“当てない”ための一手、決めたい」
千紗が頷く。
「うん。手順、好き」
手順。
僕らの生活の救命具。
「錨、打とう」
僕が言う。
錨の一語+理由一行+鈴。風に飛ばされない発言手順。
「錨:現実通り」
「理由:千紗は余裕がない。“ちゃんと”を増やすと逆に減る」
千紗が鈴をちん、と鳴らした。
「固定」
固定されると、僕の中の“頑張って解決したい”が少し落ち着く。
解決は百になりがちだ。
今日は段で受ける。
「段、どれがいい?20/50/80」
僕が聞くと、千紗は少し考えて言った。
「50」
「50で何する?」
「削る場所、二つだけ探す」
「二つだけ」
「うん。三つだと欲張る」
「了解。二つ」
千紗は紙の右側、気持ちの欄に小さく書いた。
『削りたい:1)返信の即レス 2)完璧な家事』
僕は笑ってしまった。
「完璧な家事、最初から存在してない」
「うるさい」
千紗が軽く睨む。ギャグ寄せすぎない温度の睨み。
「でも、存在してないって言ってくれるのは助かる」
存在してないものはない。
ない、でいい。
それも現実通り。
「じゃあ、具体」
僕はコーヒー役の声で言った。
「即レスを削るなら、スリットを作ろう」
「スリット?」
「通気口。閉めないけど、常時開けない」
僕は紙に小さな四角を描いて書いた。
『返信窓:昼と夕方だけ』
「それ以外は、コップ」
「コップ?」
「空っぽでも器は器。返信しない時間も器。罪悪感を入れない」
千紗は頷いて、少しだけ笑った。
「それ、いい」
「家事の完璧を削るなら、ピース」
僕は続けた。
「一日3ピースまで。ちりつもを責めにしない」
「3ピース…洗濯、皿、猫」
「猫は家事なの?」
「猫は…生活の議長」
千紗がアンを見て言う。
アンは椅子の上で「当然」という顔をした。
ここで僕は、今日の主題を忘れないように、最後にもう一回言った。
「Tell me」
千紗が目を瞬いて、少し照れて、でも言った。
「…今、抱きしめてほしい。でも、ぎゅーは嫌」
痛くない握り方。
僕は立ち上がって、近づいて、指先から始める。
引っ張らない。つぶさない。
肩に軽く手を置いて、腕を回す。
ぎゅーじゃなく、ひとつの輪。
椅子みたいに、寄りかかれる形。
「これなら?」
「うん。これなら“ちゃんと”しなくていい」
千紗の声が、少しだけ柔らかくなる。
抱きしめながら、僕は言った。
「当てない練習、続ける。合図が欲しいときは?」
「Tell me」
「うん。Tell meが来たら、質問は三つまで」
「答えは欠片でいい」
「最後にシャク」
「それは毎回入れるの?」
「入れる」
僕は真顔で言って、千紗が笑った。
笑いは炭酸。圧抜き。
でも議長は白湯のまま。ちょうどいい。
昼、千紗はスマホの通知を“昼の窓”にまとめて確認して、返信を二件だけして、置いた。
置く。置けるのが大事。
僕はその横で、皿を洗った。完璧じゃなく、ピース。
夕方、千紗はベランダに出て、風に当たった。
タユタウじゃなく、呼吸。
戻る場所があると、外の空気は怖くない。
「今日、どう?」
僕が聞くと、千紗は小さく肩を回して答えた。
「青が薄くなった」
「黄、出た?」
「ちょっと」
「そっか○」
「○。受け取った」
千紗が言って、鍵の鈴をちん、と鳴らした。
「さぁ、終わりを作ろ」
終わりを作る。
終わりがあると、心が大会にならない。
僕らはキッチンでりんごを切った。
最後にシャク。
食感で割る。
シャク。
噛む音が、今日の“言えた”を身体に落とす。
言葉は、言っただけだと風に飛ぶ。
噛むと、錨になる。
アンが椅子から降りてきて、皿の端の欠片を狙ったので、ほんの少しだけ置く。
欠片はピース。
ピースは完成側へ戻る。
アンはぺろりと舐めて、満足そうに椅子へ戻った。
「ねえ」
千紗が言う。
「Tell meって、ずるいね」
「ずるい?」
「言って、って言えるの、強い。強いのに優しい」
「誰がなんと言っても?」
「そこまで強くない」
千紗が笑って、でも続けた。
「でも…誰がなんと言っても、当てられない方が助かる日がある」
「うん」
「そういう日は、Tell me」
「了解。受信機、整備しておく」
僕はもう一口、りんごを噛んだ。
シャク。
今日の合図が、ちゃんと生活の中で鳴る。
当てない。
訊ねていい。
欠片でいい。
そして、暗く沈ませずに、明日へ渡せる。




