昨日と今日のスリット
変化は、音がしない顔をしてやってくる。
ドアのノックも、チャイムも鳴らさずに、当たり前みたいに部屋へ入ってくる。
朝、スマホの通知が一つ増えていた。
会社のチャット。
短い文面で、妙に丁寧で、やけに軽い。
『組織変更に伴い、来月から担当が一部変わります。詳細は追って共有します。』
……変わる。
理由も、範囲も、まだ曖昧なまま。
胸の奥で「チッ」が鳴った。
舌打ちじゃない。ブザー。
“まだ分からない”の音。
チッ=ブザー→凹凸→一手。
凹凸。刺さったときの手すり。
「……来た」
僕が白湯を飲みながら言うと、キッチンから千紗がひょいと顔を出した。受信機が早い。
「来た?」
「来た。変わる、ってやつ」
「凹凸」
「凹凸」
合言葉を返すだけで、落下速度が少し遅くなる。
でも止まらない。
変化って、僕の中で勝手に“ゼロか百か”になるからだ。
変わる=全部ダメ、みたいな乱暴な変換。冗談じゃない。
アンが椅子の上で丸くなっている。椅子。第三の動き。
猫は変化を怖がらない。
いや、怖がるのかもしれないけど、怖がり方が潔い。
嫌なら避けて、良ければ寄る。
人間は嫌でも寄ってしまう。勝手に責任が絡む。
「見せて」
千紗が手を伸ばす。
僕はスマホの画面を渡した。
千紗は一読して、ふう、と息を吐いた。吐くのが先。クロール。
「うん。これは“CHANGEの匂い”」
「言い方」
「匂いって、先に来るでしょ。確定より前に」
千紗はさらっと言って、冷蔵庫に貼り紙を一枚増やした。貼り紙の忍者。
『変化=線とスリット
ゼロ/百禁止
段で受ける(20/50/80)
錨:現実通り
ピース化
最後にシャク』
「段で受ける……」
僕が読み上げると、千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らした。
「さぁ。今日はそれ」
鈴。背中を押す合図。刃物じゃない武器。
でも僕の中の炭酸が観客席で騒ぐ。
『変わるって何!?最悪のケースを全部想定しろ!今すぐ!』
うるさい。
だけど、うるさいのが悪いんじゃない。
議長にしないのが大事だ。
「内なる五人、呼ぶ?」
千紗が聞く。
「呼ぶ……」
僕は頷いた。
「白湯:落ち着け」
「紅茶:礼儀を守れ」
「ほうじ茶:温めながら」
「コーヒー:具体に落とせ」
「炭酸:走れ!結論を出せ!今すぐ!」
千紗が指を立てる。
「議長は白湯。炭酸は観客席」
「はい……」
「で、段」
千紗は貼り紙を指差す。
「今のあなた、20/50/80でどれ?」
僕は胸の中を探った。
まだ倒れてない。
でも硬い。
「50」
「よし。50なら“情報が足りない”を言っていい」
「言っていい?」
「うん。分からないものは分からない。今日は現実通り」
現実通り。
その言葉で、僕の中の大会が少し静まる。
大会って、現実通りを嫌う。
現実通りは、いまこの瞬間の情報だけで決める。
「一手」
千紗が言う。
「線を引く」
千紗は紙を出し、一本線を引いた。線。
さらに、その線に小さな切れ目。スリット。
「左が“今わかってる”、右が“想像”。スリットは通気口。閉めないけど、混ぜない」
「混ぜない」
「混ぜると暗く沈む」
僕は紙の左側に書く。
『来月から担当が一部変わる。詳細は追って。』
右側には、炭酸が叫びたがる最悪予想が山ほどある。
でも今日は書かない。
書くとしても、スリットの向こうに薄く置く。手袋で触るみたいに。
「右はどうする?」
千紗が聞く。
「……薄く、一個だけ」
「いい。ひとつだけ」
僕は右に小さく書いた。
『不安(理由:見えない)』
それだけでいい。
不安を“全部のドラマ”にしない。
欠片にする。ピースにする。
「ピース」
千紗が言った。
「欠片→ピース化/完成側へ戻る」
「不安がピース?」
「うん。不安は“守れ”の合図。刃物じゃない武器にする」
千紗は鈴をちん、と鳴らす。
「さぁ。次、現実側の一手」
「現実側の一手?」
「問い合わせる」
「え、いきなり」
「いきなりじゃない。短く。礼儀の紅茶が得意なやつ」
千紗がにやりとする。
「紅茶、出番」
僕はチャットを開いて、上司に短く送った。
『変更の概要だけでも先に把握したいです。いつ頃共有予定か教えていただけますか。』
送信。
“聞く”って、変化の渦に手すりを立てる行為だ。
聞けたら、少しだけ岸ができる。
送った瞬間、胸の奥のブザーが一段小さくなった。
不思議だ。答えが来てないのに。
でも“行動した”が、心の中の椅子になる。椅子。第三の動き。
「えらい」
千紗が言いかけて、すぐ言い換えた。
「現実通り」
「褒めたいなら褒めて」
「褒めると大会になるから」
「なんで」
「あなた、褒められると百へ走る」
「……当たってる」
アンが椅子から降りてきて、僕の足に頭をこすりつけた。
猫は褒めない。
でも肯定はする。
それが丁度いい温度。
午前の空気が落ち着いたところで、千紗が言った。
「ついでに、家も小さくCHANGEしよ」
「え」
僕のブザーがまた鳴りかける。
変化の重ねがけ。
でも千紗の目が明るい。暗く沈ませないやつ。
「大改装じゃない」
千紗が先に釘を刺す。
「ピースだけ。欠片だけ。完成側へ戻るタイプ」
「具体」
「椅子を変える」
「椅子?」
「うん。あなた、最近ソファで固まりやすい。第三の動きが固定化してる」
「固定化……」
「変化に弱い人ほど、同じ場所で固まる。だから椅子を一個だけ入れ替える」
椅子の交換。
それは家の中に新しい線を引く行為でもある。
大げさじゃない。
でも生活の肌触りが変わる。
「行く?」
千紗が鈴をちん、と鳴らす。
「さぁ」
僕は笑って、頷いた。
50の日のCHANGEは、こういうのがいい。
転職じゃなく椅子。
革命じゃなく背もたれ。
近所のリサイクルショップは、変化がたくさん並んでいる場所だった。
古いものと新しいものの境界が曖昧で、でもちゃんと線がある。値札という現実通りの線。
千紗は椅子コーナーの前で立ち止まり、指を差した。
木の椅子。背もたれに細いスリットが入っている。
空気が通る形。
「これ」
「スリット好きだな」
「スリットはゼロか百かにしない穴」
「穴って言うと怖い」
「通気口って言いなさい」
「通気口」
僕は椅子に座ってみた。
少し硬い。
でも硬いのがいい時もある。
柔らかいと沈んで、暗くなりやすい。
硬いと姿勢が起きる。正座のリセットに近い。
「どう?」
千紗が聞く。
「……悪くない」
「“悪くない”は最高」
「最高なの?」
「うん。ゼロか百かじゃない言葉」
千紗は満足そうに頷いた。
買い物を終えて家に戻ると、アンが新しい椅子を見て、遠巻きに観察した。
猫は変化を審査する。
審査はするけど、結論が早い。
数分後には、椅子の脚に頬をこすりつけて「合格」を出していた。猫裁判の判決はいつも現実通り。
リビングのレイアウトを少し変える。
ソファを壁から少し離して線を作る。
新しい椅子は窓際。
光の方へ置く。暗く沈まない配置。
こういう小さなCHANGEは、部屋の呼吸を変える。
「ねえ」
千紗が言う。
「“変化”って、敵だと思う?」
僕は少し考えた。
「敵というか……嵐」
「嵐は来る」
「来る」
「じゃあ嵐のとき、何する?」
「錨」
僕が言うと、千紗が鈴をちん、と鳴らす。
「さぁ。今日の錨、打って」
錨の一語+理由一行+鈴。
風に飛ばされない発言手順。
僕は新しい椅子に座り、白湯を一口飲んでから言った。
「錨:現実通り」
「理由:まだ詳細は来てない。今できるのは聞いたことと、今日を回すこと」
千紗がちん、と鳴らす。
「固定」
固定された。
胸の奥に、重しじゃなく、足場ができる。
錨は沈めるものじゃなく、流されないためのものだ。
午後、上司から返信が来た。
『共有は来週の月曜。あなたの業務は大枠変わらないが、窓口が一部変わる。心配なら先に口頭で話すよ。』
大枠変わらない。
窓口が一部変わる。
……想像してた百の崩壊じゃない。
20くらいのCHANGEだ。
胸の奥が、すうっと軽くなる。
でもその軽さに油断すると、僕はまた百へ走る。
だから段で受ける。
「千紗」
僕は画面を見せた。
「来週月曜。大枠は変わらないって」
千紗は頷いて、即座に言う。
「そっか○」
「受け取った、の○ね」
「うん。で、段」
千紗は貼り紙を指差す。
「今のあなた、何%?」
僕は笑った。
「20」
「よし。じゃあ今日は20で終わる」
「終わるって?」
「変化を“今日の全部”にしない。今日の残りは生活」
「生活」
「最後にシャク」
夕方、僕は新しい椅子に座って、10分だけ仕事のメモを整理した。
強火は10分。
タイマー。
ピピピで止める。CALLED GAME。
止めるのは敗北じゃない。焦がさないための笛。
10分経って、ちゃんと止められた。
それだけで、変化は敵じゃなくなる。
扱えるサイズになる。
「できた?」
千紗が聞く。
「できた。止められた」
「ピース」
千紗が言って、鈴をちん、と鳴らす。
「欠片→ピース化/完成側へ戻る」
夜、りんごを切った。
最後にシャク。
僕が一口噛むと、音が部屋に明るく響く。
シャク。
食感で割る。
今日のCHANGEを、頭の中から身体の中へ落とし込む。
考えすぎを、噛んで終わらせる。
アンが椅子の上に飛び乗り、新しい背もたれのスリットに鼻先を突っ込んでいた。
通気口の確認。猫は几帳面だ。
「ねえ」
僕が言う。
「変化ってさ、怖いけど……全部じゃないんだね」
「うん」
千紗が頷く。
「変化は欠片。欠片はピース。ピースは完成側へ戻る」
「完成側って、どこ」
「“生活が回ってる”側」
「それ、いい」
「でしょ」
千紗が最後に鈴をちん、と鳴らした。
「さぁ。明日も、段でいこ」
変化は、音がしない顔をしてやってくる。
でも僕らには、音がある。
ブザーのチッ、手すりの凹凸、錨の一語、鈴の「さぁ」、そしてシャク。
その小さな音たちが、昨日と今日の間にスリットを作ってくれる。
暗く沈まずに、現実通りの速度で、ちゃんと前へ。




