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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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声にしていい虹

 虹って、ずるい。

 空に出るだけで「きれい」で、「よかった」が勝手に付いてくる。

 しかも、雨が降ったあとにだけ出る。

 しんどい時間を通ったご褒美みたいな顔をして、さらっと現れる。


 でも僕は、虹を見ても、すぐに素直になれない。

 「きれいだね」って言えばいいのに、喉の手前で言葉が引っかかる。

 素直って、案外、勇気がいる。


 朝、千紗がカーテンを開けて言った。


「雨、上がったよ」

 窓の外はまだ薄暗いけど、雲の端がほどけている。

 道路のアスファルトが濡れて、光を少しだけ返している。現実通り。


 冷蔵庫には、新しい貼り紙。


「素直=虹

 色で分ける

 言えないなら記号

 チッ→凹凸→一手

 最後にシャク」


「色で分けるって何」

 僕が白湯を飲みながら言うと、千紗はマグを二つ並べて頷いた。

「素直って、丸ごとだと重いでしょ。だから分ける。赤、青、黄、みたいに」

「感情を七色に?」

「七色まではしなくていい。あなたは十まで数える人だけど、素直は三色でいい」


 アンが椅子の上で丸くなって、しっぽの先でカーテンの影を追いかけていた。椅子。第三の動き。

 猫は素直だ。欲しい時は寄るし、いらない時は去る。

 人間は、寄りたいのに寄れない時がある。そこが面倒だ。


 僕の胸の奥で、最近よく鳴る「チッ」が小さく鳴った。

 ブザー。

 理由は分かっている。

 今日、千紗に言いたいことがあるのに、言いづらい。


 昨日の夜、僕は寝る前に、ふと不安になった。

 「もしも」のノートを見て、急に怖くなって、千紗に黙ったままスマホを握りしめた。

 彼女は気づいていたのに、何も言わず、鈴だけ鳴らして「さぁ、寝よ」と言った。

 優しすぎて、逆に刺さった。凹凸。


「来た?」

 千紗が聞く。受信機が早い。

「……来た」

「凹凸」

「凹凸」


 合言葉を口にすると、手すりが出る。

 凸は、「言いたい」。

 凹は、「重くしたくない」。

 素直に言うと、相手を濡らしそうな気がする。

 でも、虹は雨のあとに出る。

 濡れたままでも、きれいなものはある。


「一手」

 千紗が言う。

「色で分けよ」

「色?」

「うん。今日の素直を三色にして。言葉じゃなく、色名で言ってもいい」


 千紗は冷蔵庫から、三つのマグネットを外してきた。

 赤い丸。青い四角。黄色い星。

 子どもみたいで、ちょっと笑える。

 笑えると、喉がほぐれる。炭酸の圧抜き。


「赤:ありがとう」

「青:こわかった」

「黄:うれしい」

 千紗が淡々と言う。

「今日はどれ?」

「……全部」

「欲張り」

「虹だし」

「虹は欲張りでいい。でも、順番。ゼロか百かにしない」


 順番。

 僕らの武器。刃物じゃない。


 僕は赤い丸を指で触った。

「赤」

 それだけ言うと、千紗が頷いた。

「ありがとう?」

「うん」

「理由一行」

 錨の手順が混ざる。自然に。


 僕は息を吐いて、言った。

「昨日、何も言わずに鈴だけ鳴らしてくれて、助かった」

 千紗が少しだけ目を細めた。笑いじゃなく、受信機の合図。

 そして鍵の鈴をちん、と鳴らした。

「固定」


 次に、青い四角。

 僕は指を置いて、言った。

「青」

「こわかった?」

「うん」

「理由一行」

 喉が詰まりそうになる。

 ここで大げさに言うと、空気が沈む気がする。

 でも、貼り紙に“暗くしない”って書いてあるわけじゃない。

 だから自分で運用する。


「こわかった、は短く」

 千紗が言う。

「素直は短い方が明るい」

「……なるほど」


 僕は短く言った。

「もしも、って考えたら、急に怖くなった」

 千紗は頷いて、青いマグネットを軽く叩いた。

 トン。鈴の代わり。

「現実通り」


 現実通り。

 その言葉は、怖さを“怖さのまま”置いてくれる。

 押しつぶさない。盛らない。

 だから沈まない。


 最後に、黄色い星。

 僕は星を指でなぞって、言った。

「黄」

「うれしい?」

「うん」

「理由一行」

 ここは言える。

 言えるやつは、言った方がいい。素直の燃料になる。


「こういう話を、ちゃんと手順にできるのが、うれしい」

 千紗が笑って、鈴を鳴らした。ちん。

「さぁ」


 言えた。

 三色に分けたら、言えた。

 虹って、こういうことかもしれない。

 全部を一枚で見せるんじゃなくて、色として出す。

 色なら、受け取る側も眩しすぎない。


 窓の外が少し明るくなった。

 雲の隙間から光が差して、濡れた電線が細い線になって光っている。

 線。

 スリット。

 世界はゼロか百かじゃない、と外側も言っている。


「虹、出るかな」

 僕が言うと、千紗は肩をすくめた。

「出なくてもいい」

「え」

「虹が出るかどうかは、天気の都合。私たちは、今もう虹やったでしょ」

「……確かに」

「素直の虹。声にしていい虹」


 アンが椅子から降りて、僕の足元に来た。

 猫は言葉がないから、全身が虹だ。触れれば分かる。


「じゃ、締め」

 千紗が言う。

「最後にシャク」

 冷蔵庫の貼り紙が命令するみたいに、でも優しく。

 武器は刃物じゃない。りんごだ。


 千紗がりんごを切って、僕に一切れくれた。

 僕は噛んだ。

 シャク。

 音が、赤と青と黄をまとめて、生活の中に落としてくれる。


「ねえ」

 僕はりんごをもう一口噛んで、言った。

「きれいだね」

「なにが?」

 千紗がとぼける。

 僕は窓の外を指差した。

 雲の端がほどけて、光が出てる。虹はまだ見えない。

 でも、濡れた街が少しだけ明るい。


「これ」

 僕が言うと、千紗が笑った。

「うん。きれい」

 そして鈴をちん、と鳴らす。

「さぁ」


 虹は出てない。

 でも、素直は出た。

 それで十分な朝がある。

 雨上がりの空気の中で、僕らは暗く沈まずに、ちゃんと生活の色を取り戻していく。

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