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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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こぼれた白の扱い方

 やらかした、って音は、だいたい軽い。

 なのに、胸の奥に落ちる重さは重い。

 しかも、落ちたものが“牛乳”みたいに白いと、汚れがやたら目立つ。

 白は正直だ。現実通りに“失敗”を映す。


 朝、僕はコップを倒した。

 正確には、アンがテーブルの端を歩いて、しっぽでちょい、とやった。

 そして僕は反射で手を伸ばして、逆にコップを押してしまった。

 コン、と音がして、白が広がった。

 まるで、床に小さな雲が落ちたみたいに。


「うわ」

 僕の口から出たのは、それだけ。

 次の瞬間、胸の奥で「チッ」が鳴った。

 舌打ちじゃない。ブザー。

 チッ=ブザー→凹凸→一手。


 凸は、「自分にイラッ」。

 凹は、「朝から台無し感」。

 一手は……雑巾、じゃない。

 まず手すり。凹凸。

 刺さったときの合言葉。


「凹凸」

 僕が小さく言うと、キッチンから千紗の声が飛んできた。

「凹凸」

 返ってくるだけで、床の白が“終わり”じゃなくなる。

 こぼれたのは牛乳。

 生活は、まだこぼれてない。


 アンはというと、すん、とした顔で椅子に飛び乗っている。椅子。第三の動き。

 猫は反省をしない。

 でも反省をしないのが、たまに救いになる。


 千紗がキッチンから現れた。

 手には、白湯のマグと、キッチンペーパー。

 完璧に手順の人だ。


「spilt milk?」

 千紗が英語っぽく言って、眉を上げた。

「こぼれた白」

「……冗談みたいに言うな」

「冗談じゃないけど、冗談の形にしておくと焦げない」

 彼女は真顔で言う。

「まず、コップ」


 コップ。

 空っぽでも器は器。

 こぼした瞬間、僕の中で“全部終わった”みたいな感覚が走る。

 でも、器は残ってる。

 残ってるものを見れば、沈まないで済む。


 千紗は倒れたコップを起こして、シンクに置いた。

「器、回収」

「……助かる」

「次、ピース」

 千紗が床の白を指差す。

「欠片→ピース化」

「牛乳がピース?」

「うん。全部を“失敗”にしない。ピースは“処理する欠片”」


 彼女はキッチンペーパーを二枚、僕に渡した。

「ひとつだけ」

「ひとつだけ?」

「あなた、掃除を罰ゲームにするから。今日は“二枚だけ”で第一段階」

「二枚は、ひとつじゃない」

「“ひとつだけ”の意味は、気持ちの話。やるのは第一段階だけ」


 なるほど。

 スイッチを段にするやつ。0/100は禁止。

 今日は20でいい。


 僕は床にしゃがんで、白を吸わせた。

 じわ、と牛乳が紙に染みていく。

 この“じわ”が嫌いだ。

 失敗が移る感じがする。

 でも、移るってことは、床から離れるってことでもある。


 胸の奥のブザーが、少し静かになる。


「チッ、まだ鳴る?」

 千紗が聞く。受信機が早い。

「……鳴る。自分に」

「じゃ、運用」

 千紗は冷蔵庫の貼り紙を指差した。

 いつの間に貼ったんだ。

 千紗は貼り紙の忍者だ。


「こぼれた白=戻る

 拭く前に錨

 “やらかし”は合図

 最後にシャク」


「錨?」

「うん。一語+理由一行+鈴」

 千紗は鍵の鈴を指で弾いた。ちん。

「さぁ、錨」


 僕は息を吐いた。吐くのが先。クロール。

 短く言う。


「錨:現実通り」

「理由:こぼれただけ。生活は終わってない」

 千紗がもう一回鈴を鳴らす。ちん。

「固定」


 固定されると、頭の中の“台無しドラマ”が止まる。

 現実通りは、ドラマを嫌う。

 現実通りは、白い水たまりを白い水たまりとして扱う。


「次」

 千紗が言う。

「拭く。第二段階」

「まだ終わってないの?」

「牛乳は匂いが残る。ここで雑に終わらせると、夜に“冗談じゃないんだよ”が来る」

「夜に刃物が出るのは避けたい」

「だから今、やさしくやる」


 千紗は濡らした布巾を持ってきた。

 布巾で拭く。

 僕はそれを受け取って、床をゆっくり拭いた。

 焦らない。

 強火にしない。

 中火で、丁寧に。


 アンはその様子を椅子の上から見ている。

 犯人なのに、裁判官みたいな顔。

 僕は思わず笑った。

 笑えると、失敗が“人生の終わり”じゃなく“生活の一幕”になる。


「ほら、線」

 千紗が床を指差す。

「拭いたところと、まだのところ。境界が見える」

「線」

「線があると、終わりが作れる」

「確かに」

「ゼロか百かじゃなく、線で進む」


 全部拭き終えると、床は少しだけ湿っている。

 でも白は消えた。

 消えたけど、僕の胸の中の“やらかした”はまだ少し残っている。

 牛乳は消えても、自分に貼ったラベルは残りやすい。


 千紗が言う。

「ラベル剥がす?」

「剥がす」

「じゃ、記号」

 千紗は冷蔵庫の横のメモに、○|△を書いた。

「今どれ?」

 僕は胸を探った。

 △ほど危なくない。

 でも○でもない。

「|」

「止まる」

「うん」

「止まるなら椅子」

 千紗がソファを指差す。

「座って、白湯」


 僕はソファに座った。

 椅子。第三の動き。

 白湯を一口飲む。

 温度が戻る。

 “戻る”って、こういうことだ。


「ねえ」

 僕は言った。

「spilt milkってさ、“こぼれたミルクを嘆くな”みたいな言い回しあるよね」

「うん。過去は戻らない、ってやつ」

「でもさ、嘆かないって、難しい」

「嘆いてもいいよ」

 千紗は即答した。

「ただ、嘆き方を選ぶ。刃物にしない。合図にする」


 合図。

 武器は刃物じゃない。

 鈴だ。

 “やらかし”を、生活の運用に変える鈴。


「今日の“やらかし”は、何の合図?」

 千紗が聞く。

 僕は少し考えて、答えた。

「急ぎすぎの合図。朝、手が早すぎた」

「いい」

「あと、アンのしっぽは意外と長い」

「それは学び」

 千紗が笑う。

「ピース化、完了」


 夕方。

 僕らはスーパーで牛乳を買い直した。

 同じ銘柄。

 同じじゃないのに、同じみたいな顔をしてる。

 でも“同じじゃない”のが現実通り。

 それでいい。


 家に帰って、千紗が冷蔵庫に新しい貼り紙を足した。


「spilt milk → コップ → ピース → 線 → 椅子 → 白湯 → さぁ」


「長い」

「あなたのための短縮コードもある」

「何」

 千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らした。

「凹凸」


 僕は笑って、頷いた。

 最後に、りんご。

 シャク。

 音が、朝の白い水たまりを、ちゃんと“終わった話”にしてくれる。


 こぼれた白は戻らない。

 でも、器は残る。

 残った器で、もう一回注げる。

 僕らは今日も、こぼれたものに泣き叫ぶ代わりに、手すりを握って、鈴を鳴らして、暗く沈まないまま生活を続ける。


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