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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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つま先だけ、線へ

 スタートラインって、言葉が強い。

 言った瞬間に、空気が「よーい」になる。

 そして僕は、「よーい」になると、すぐ百まで走ろうとする。

 走れない日は、ゼロに落ちる。

 その落差が、いちばん怖い。


 朝、冷蔵庫に貼られた紙を見て、僕は息を吐いた。

 千紗の字。


「スタートライン=線

 “立て”は全身じゃなく“つま先”

 チッ→凹凸→一手

 最後にシャク」


「つま先だけって、ずるくない?」

 白湯を飲みながら言うと、千紗はフライパンを返しながら首を振った。

「ずるくない。現実通り」

「現実通り」

「あなたの全身は、いきなり線に乗ると固まる。だからつま先」


 アンが椅子の上で丸くなっている。椅子。第三の動き。

 猫はスタートラインが嫌いだ。猫はいつもスタートしていて、いつもゴールしている。

 段で生きてる。


 僕はスマホを開いた。

 画面に、放置していた“自分の企画”のノートがある。

 書きたい。

 形にしたい。

 でも、スタートラインに立つと、急に「全部やらなきゃ」になって、動けなくなる。


 胸の奥で「チッ」。

 ブザー。

 チッ=ブザー→凹凸→一手。


「来た?」

 千紗が言う。受信機が早い。

「来た。スタートのチッ」

「凹凸」

「凹凸」


 凹凸は手すり。

 凸は、「やりたい」。

 凹は、「失敗が怖い」。

 やりたいのに怖い。

 それがスタートラインの手触りだ。


「一手」

 千紗が言う。

「つま先、どれにする?」

「どれって」

「線に触れる最小単位。ひとつだけ」


 ひとつだけ。

 僕らの呪文。

 全部をやらないで済む、救命胴衣。


 千紗はテーブルの上にマスキングテープを一本置いた。

 白いテープ。

 それを床に、まっすぐ貼った。

 線。

 スタートライン。


「ここ」

 千紗が指差す。

「立て、じゃなくて、触れろ。つま先で」

「物理的にやるの?」

「物理が一番効く。あなた、頭の中で盛るから」


 確かに。

 頭の中のスタートラインは、いつも大会の入場行進みたいになる。

 観客がいて、審査員がいて、失敗したら終わりみたいな顔してる。

 冗談じゃない。

 でも床のテープは、ただのテープだ。現実通り。


 僕は立ち上がって、テープの前に立った。

 全身は乗らない。

 つま先だけ。

 右足の先を、少しだけ前に出す。


 触れた。

 それだけで、背中の筋肉が少し緩む。


「どう?」

 千紗が聞く。

「……怖いのが、ちょっと小さくなった」

「いいね」

 千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らす。

「さぁ。次は“椅子”」


「椅子?」

「座る。線に触れたまま、座る。第三の動き」

 千紗はソファを指差した。

「立ってると、走りたくなる。座ると、始められる」


 僕はソファに座った。

 つま先はテープに触れたまま。

 不思議な姿勢。

 でも、これが“スタートの形”として優しい。


「ここで錨」

 千紗が言う。

「一語+理由一行+鈴」


 錨。風に飛ばされない発言手順。

 僕は短く言った。


「錨:現実通り」

「理由:今日はつま先だけで十分」

 千紗が鈴を鳴らした。ちん。

「固定」


 固定されると、心が勝手に“大会”を始められない。

 いい意味で。


「じゃ、つま先の次」

 千紗が言う。

「企画のノート、何を一個やる?」

 ひとつだけ。

 僕は考えて、言った。

「タイトルの仮を一行」

「最高。ピース化できる」

「ピース」

「欠片→ピース化/完成側へ戻る」


 僕はスマホを開き、ノートの一番上にカーソルを置いた。

 ここが本当のスタートライン。

 でもさっき床の線に触れたおかげで、ここが“大会”に見えない。

 ただの一行。

 ただのつま先。


 指が止まりそうになる。

 胸の奥で「チッ」。

 ブザー。

 凹凸。

 一手。


 一手は、呼吸。吐く。

 吐くのが先。クロールの呼吸。

 吐いて、書く。

 書いた。


『つま先だけのスタートライン』


 ……自分で書いて、笑ってしまった。

 メタすぎる。

 でも、笑えたのが大事だ。

 笑いは炭酸。圧抜き。

 暗く沈ませないスイッチ。


「書けた?」

 千紗が聞く。

「書けた」

「じゃあ終わり」

「え、もう?」

「うん。今日は“立て”じゃなく“触れろ”。触れたら合格」

 千紗は真顔で言う。

「スタートラインは、スタートする場所じゃない。戻ってこれる場所」


 戻ってこれる。

 それは、救いだ。

 一回触れたら、次も触れられる。

 触れられるなら、続く。

 続くなら、暗く沈まない。


 昼。

 僕は家事をして、アンを撫でて、白湯を飲んで、普通に過ごした。

 でもスマホのノートに、さっきの一行が残っている。

 残っているだけで、心が少し温かい。

 火は小さいけど、消えてない。情熱マイソウルの中火みたいに。


 夕方、千紗がスーパーから帰ってきて言った。

「今日のスタート、どうだった?」

「つま先だけで良かった」

「でしょ」

 千紗が鈴をちん、と鳴らす。

「さぁ。最後にシャク」


 りんごを一口噛む。

 シャク。

 音が、今日のスタートラインを“生活の中”に置き直してくれる。

 大会じゃない。

 僕らのたまり場式の線。


 アンが椅子の上で丸くなって、目を細めた。

 猫のスタートはいつも静かだ。

 僕もそれを真似する。

 全身じゃなく、つま先。

 線に触れるだけでいい日が、ちゃんとある。


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