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二本の糸の間の椅子

 ジレンマって、音だけ聞くと洒落た飴みたいなのに、実物は歯に挟まる。

 どっちを噛んでも痛い。どっちを噛まなくても気持ち悪い。

 僕は朝から、そんな歯に挟まった感じを抱えたまま、冷蔵庫を開けた。


 貼り紙が増えている。千紗の字。


「ジレンマ=二本の糸

 引っ張られたら椅子

 チッ→凹凸→一手

 最後にシャク」


「糸?」

 僕が白湯を飲みながら言うと、千紗はフライパンの前で頷いた。

「うん。片方引くと、片方も引っ張られるやつ。どっちも大事な時ほど、糸になる」

「今の僕がそう」

「知ってる」

 受信機が優秀すぎて、怖い。


 アンが椅子の上で丸くなって、尻尾の先を一回だけ揺らした。椅子。第三の動き。

 猫はいつも、“どっち”を選ばない。暖かい方へ行って、飽きたら戻って、気が向けば膝にも来る。

 ゼロか百かじゃない。猫の辞書には段とスリットしかない。


 僕のスマホが震えた。

 通知は、二本の糸だった。


 一本目は、仕事関係の先輩から。

『急だけど、今日の午後、短いトークお願いできない?前に話してた件。君の現場感、欲しいって。』


 二本目は、千紗から、昨夜決めた予定。

「午後、映画行こ。途中でクレープ。帰りにスーパーでりんご。シャク。」


 映画もクレープもりんごも、僕はちゃんと楽しみにしていた。

 楽しみにしていたのに、先輩のメッセージを見た瞬間、胸の奥で「チッ」が鳴る。

 舌打ちじゃない、ブザー。

 チッ=ブザー→凹凸→一手。


「来た?」

 千紗が卵を皿に乗せながら言う。

「来た……」

「凹凸」

「凹凸」


 合言葉を口にすると、手すりが出る。

 凸は、「頼られる嬉しさ」。

 凹は、「約束を壊したくない怖さ」。

 どっちも本物で、どっちも僕の中にある。

 だからジレンマは“性格の悪さ”じゃなくて、“容量の問題”だ。


 一手。

 今日の一手は、千紗の貼り紙に書いてある。

 椅子。


「椅子って、どうするの」

 僕が言うと、千紗はトーストを半分に切って、僕の皿に置いた。

「座る。あと、椅子を増やす。第三の動き」

「第三の動き」

「うん。二択で詰むなら、椅子を置いて“間”を作る」


 千紗はテーブルの上に、小さな紙を一枚置いた。

 真ん中に一本線を引く。線。

 さらに、その線に小さな切れ目。スリット。

「これが“間”」

「紙だけで?」

「紙は道具。あなた、道具にすると強い」


 千紗がペンを差し出す。

「まず、二本の糸に名前」

 僕は書いた。


左:トーク(先輩)

右:映画(千紗)


 書いた瞬間、胸の中の霧が少し薄くなった。

 名前がつくと、怖さが勝手に巨大化しない。

 現実通りのサイズになる。


「次」

 千紗が言う。

「内なる五人、呼ぶ?」

 こういう時は必須だ。僕の頭は、情熱と不安が同じ蛇口から出る。


「白湯:落ち着け」

「紅茶:礼儀を守れ」

「ほうじ茶:温めろ」

「コーヒー:条件を整理しろ」

「炭酸:どっちも行け!走れ!」


 最後だけ声がでかい。

 千紗が炭酸の真似をして肩を揺らすので、僕は笑ってしまった。

 笑いは圧抜き。炭酸の仕事は“爆発しないで済む形で出す”だ。


「議長は白湯」

 千紗が即決する。

「炭酸を議長にすると、あなた、午後が四つに分裂する」

「分裂は無理」

「だから、椅子」


 千紗は紙の真ん中のスリットを指でトントン叩く。鈴の代わりの合図。

「ここに“第三の選択肢”を置く」

「第三?」

「うん。トークも映画も“ゼロか百か”にしない」

 千紗は鍵の鈴をちん、と鳴らした。

「さぁ。第三の動き、出して」


 第三の動き。

 僕は考える。

 トークは、午後の短い枠と言っていた。

 映画も、時間は固定だけど、ずらせる可能性はある。

 ただ、ずらすのは千紗の時間を勝手に削ることになる。

 それは嫌だ。

 僕の胸の奥がまた「チッ」。

 ブザー。


「凹凸」

「凹凸」


 一手は、錨。

 風に飛ばされない発言手順。

 一語+理由一行+鈴。


 僕は言った。

「錨:順番」

「理由:大事な方を選ぶんじゃなく、大事な順に置く」

 千紗が鈴を鳴らす。ちん。

「固定。いいね。じゃ、順番で“第三”を作る」


 僕はペンを走らせた。


第三案:トークは“参加形”じゃなく“録画/資料で協力”にする

第三案:トークは“最初の10分だけ”顔出し、映画は予定通り

第三案:映画を別日にして、今日は“ご褒美を別形で補填”


 書きながら、胸の圧が下がっていく。

 どっちかを失う話じゃなく、両方を“割る”話になる。

 食感で割る、の別バージョンだ。


「どれが現実通り?」

 千紗が聞く。

 “現実通り”は、僕らの道の名前。盛らない、嘘をつかない、背伸びしない。


 僕は二本の糸を見て、答えた。

「最初の10分だけ顔出しが……現実通り」

「理由」

「頼まれた気持ちは受け取る。でも午後を全部奪われたくない。映画は約束として守りたい」

「いい。コップ」

 千紗が言う。

「空っぽでも器は器。器を削らない」

「うん」


 ここで大事なのは、先輩のメッセージを“無視”しないこと。

 無視は刃物になりやすい。

 でも全部引き受けるのも刃物になる。自分に対して。

 だから線を引く。

 線は冷たいんじゃなく、守るための屋根だ。△。


 僕は先輩に返信した。

『お声がけありがとうございます。今日は先約があり、フル参加は難しいです。

ただ、最初の10分だけなら顔出しできます。もしくは資料共有での協力でも大丈夫です。どちらが助かりますか?』


 送信した瞬間、胸の奥で「冗談じゃない」が「言えた」に変わった。

 怒りじゃない。怖さでもない。

 ちゃんと線を引けた手応え。


 千紗が僕の顔を見て、軽く親指を立てた。

「ピース」

 ピース。欠片→ピース化。完成側へ戻る。

 “最初の10分だけ”は、今日のピースだ。


「ご褒美、減った?」

 千紗が聞く。

「減ってない」

 僕は言った。

「増えてもいない。現実通り」

「最高」

 千紗は笑って、もう一回鈴を鳴らした。ちん。

「さぁ。午後の順番、決定」


 午後。

 僕は先輩のオンラインに、最初の10分だけ入った。

 画面の向こうで先輩が「助かる!」と手を振る。

 僕は短く話して、現場の“温度”だけ渡して、すぐ退出した。

 中断は敗北じゃない。止める笛。CALLED GAME。

 危なくなる前に止めるのは、礼儀でもある。


 退出ボタンを押す瞬間、胸の奥で小さく「チッ」が鳴った。

 もっとやれたんじゃないか、のブザー。

 でも今日は手順がある。


 チッ=ブザー→凹凸→一手。

 凹凸。

 一手は、椅子に座る。

 僕はソファに座って、深く息を吐いた。吐くのが先。

 そして、千紗にメッセージを送った。

『10分で切った。今から出る。』


 返信はすぐ。

『了解。映画の前にクレープの味、選んどいて。受信機。』


 受信機。

 相手の小さな叫びを拾う姿勢。

 “味を選ぶ”は小さいけど、生活の合図として強い。

 僕はクレープ屋のメニューを開いて、真剣に悩んだ。

 こういう悩みは、ジレンマじゃなく幸福だ。


 映画館のロビーで千紗と合流すると、彼女は僕の顔を見て一言。


「椅子、置けた?」

「置けた」

「凹凸」

「凹凸」


 アンはいないけど、アンの“椅子”は家に残ってる。

 戻る場所があるって、こういう日の背中を押す。


 映画は、妙に明るい作品だった。

 泣かせに来ない。暗く沈ませない。

 僕らの生活と同じ温度。

 終わって外に出ると、空が少しだけ夕方に寄っていて、風が冷たい。現実通り。


「ジレンマ、どうだった?」

 千紗がクレープを頬張りながら言う。

「二本の糸だった」

「うん」

「でも、椅子を置いたら“糸と糸の間”に座れた」

「それ。そこがあなたの上」

「マイ上へ」

「そう。自分の上り方」


 帰りにスーパーでりんごを買った。

 家に着くと、アンが玄関で伸びをして出迎えた。

 猫は、二本の糸を知らない顔で、僕らを“今”に引っ張り戻す。

 その力がすごい。


「最後にシャク」

 千紗が言う。

 僕はりんごを一口噛んだ。


 シャク。

 食感が、今日の二本の糸を、ちゃんと一本の生活に編み直してくれる。

 トークも映画も、失わなかった。

 どちらも“十割”じゃないけど、“ピース”として残った。

 ジレンマは解けない日もあるけど、椅子を置けば、暗く沈まずに座っていられる。


 千紗が鈴をちん、と鳴らした。

「さぁ。明日も、二択の間に椅子」

 僕は頷いた。

 僕らの武器は刃物じゃない。

 鈴と、凹凸と、線と、椅子。

 そして最後に、シャク。


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