冗談じゃない、の手すり
「冗談じゃないんだよ」
その一言が、口の中で硬い。
言った瞬間に空気が変わる種類の言葉だ。
冗談の反対は真面目じゃなくて、たぶん“痛み”だと思う。刺さるやつ。
僕はその言葉を、昼休みの自席で飲み込んだまま、モニターの前に座っていた。
画面には、今朝からのチャットが残っている。
“これ、今日中にいけますか?”
“急ぎで”
“すぐで”
“いつも通りで”
いつも通り。
その四文字が、今日は刃物みたいに鋭い。
いつも通りって、誰のいつも通りだ。
こっちの器の残量は見てないくせに。
胸の奥で「チッ」が鳴る。
舌打ちじゃない、ブザー。
チッ=ブザー→凹凸→一手。
凹凸。刺さったときの手すり。
凸は、「怒り」。
凹は、「言えない癖」。
一手は……今日は、言う。
でも、刃物で言わない。
武器は鈴。背中を押す合図。
怒りを“合図”に変える運用。
スマホが震えた。
千紗からだ。
『今、鳴ってる?』
受信機が遠隔で動いてる。怖いくらい。
僕は短く返した。
『冗談じゃない、が出そう。』
返信がすぐ来る。
『いいよ。出して。
ただし手順。
チッ→凹凸→一手。
一語+理由一行+鈴。
“ひとつだけ”。』
彼女のメッセージは、冷蔵庫の貼り紙みたいだ。
腹は立ってるのに、笑いそうになる。
炭酸が圧抜きした。
僕は席を立って、給湯室の前の小さなベンチに座った。
椅子。第三の動き。
立ったままだと戦う。座ると、言葉が整う。
白湯はない。
代わりに、水を一口飲んで、吐く。
吐くのが先。クロールの呼吸。
怒りは吸うと増える。吐くと輪郭になる。
僕は心の中で錨を打った。
一語+理由一行+鈴。
風に飛ばされない発言手順。
「錨:現実通り」
「理由:今日中は無理。無理は無理」
鈴は鳴らせないから、指で机を軽くトンと叩いた。ちん、の代わり。
現実通り。
この言葉は、怒りの熱をちょうどいい温度にしてくれる。
怒りを殺さない。
でも燃やしもしない。
扱えるようにする。
席に戻ると、依頼元からさらに追撃が来ていた。
“あとこれも追加で”
“できれば前倒しで”
“簡単ですよね?”
簡単。
簡単って言葉は、冗談みたいに軽いのに、受ける側の肋骨を折る。
冗談じゃない。ほんとに。
胸の奥でまた「チッ」。ブザー。
凹凸。
一手。
一手は、“ひとつだけ”返信する。
長文で説教しない。
皮肉を書かない。
怒りを刃物にしない。
でも、線は引く。スリットを作る。ゼロか百かを避ける。
僕はキーボードに指を置いて、書いた。
『現状、今日中対応は難しいです。
対応可能な範囲は「A(元依頼)」までで、追加のBは明日以降になります。
急ぎの場合は優先順位を決めていただけますか。』
短い。
現実通り。
優先順位。順番。
これが僕の武器。刃物じゃない。背中を押す鈴みたいな文章。
送信した瞬間、胸の奥の「冗談じゃない」が少しだけ柔らかくなった。
言えた。
言うべきことを、言葉の温度を落として言えた。
……と思ったのに、すぐ返信が来る。
『え、今日中じゃないと困ります。今までできてたのに。』
今まで。
過去の実績を鎖にするやつ。
これも冗談じゃない。
むしろ、真剣にきつい。
怒りがまた上がる。
僕の中の炭酸が暴れ始める。
ここで炭酸を議長にすると、爆発して終わる。
議長は白湯。
白湯は“止める”ができる。
僕は椅子を引いた。
もう一度、給湯室のベンチへ。
椅子。第三の動き。
戦場から距離を取る動き。
千紗に送る。
『返しが来た。今まで鎖。』
すぐ返信。
『CALLED GAME。
笛。止める権利。
あと“コップ”。空っぽでも器は器。
空っぽにさせられる前に止めて。』
止める権利。
笛。
中断は敗北じゃない。
僕は深く息を吐いて、次の錨を打った。
「錨:戻る」
「理由:怒りのまま返すと刃物になる」
鈴の代わりに、ポケットの鍵を指で弾く。ちん。
戻る。
たまり場式の錨。
戻るって、撤退じゃない。
自分の速度と温度に戻る。
戻った上で、線を引く。
線は冷たいけど、優しい。
切るんじゃなく、分ける。
僕は席に戻り、二通目の返信を書く。
今度は、さらに短く。
“冗談じゃない”を、言わなくても伝わる形。
『これまで対応できていたのは、その時点の工数だったためです。
今回は追加があり、今日中に収まる量ではありません。
「Aのみ今日」「A+Bは明日以降」のどちらかで選択してください。』
送信。
選択肢を置く。椅子を置く。第三の動き。
ゼロか百かじゃない。
相手に“順番”を渡す。
こちらだけが背負わない。
しばらくして、返信が来た。
『わかりました。Aだけ今日でお願いします。Bは明日で。すみません、焦ってました。』
……すみません。
その一言で、僕の肋骨のあたりが少し楽になる。
怒りが“役目を終えた合図”みたいに、退いていく。
冗談じゃない、って言葉は、言わなくてよかったのかもしれない。
言葉を出さなくても、運用はできた。
怒りはブザーで、凹凸で、手順で、鈴で。
刃物にならずに済んだ。
定時を少し過ぎて退社した。
外の空気は冷たい。
でも冷たさは正直だ。現実通り。
僕は歩きながら、千紗にメッセージを送った。
『言えた。刃物にしなかった。Aだけにした。』
返信はすぐ。
『偉い。
でも“偉い”は頑張りを増やすから、言い換える。
現実通り。
帰ったらシャク。』
シャク。
食感で割る。
怒りの残りカスを、りんごで割って小さくする。
それが僕らの締め。
家に帰ると、アンが玄関で待っていた。
猫は“冗談じゃない”を知らない。
その代わり、世界を“今”に戻す圧を持っている。
「ただいま」
僕が言うと、千紗がキッチンから顔を出した。
「おかえり。冗談じゃない、出た?」
「出そうになった」
「出さなくて済んだ?」
「手順でね」
千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らした。
「さぁ。最後にシャク」
まな板の上のりんごが、すでに切られている。
彼女の段取りは、いつも背中を押す。
僕は一口噛んだ。
シャク。
音が、胸の中のブザーを「よく気づいた」に変える。
怒りは悪者じゃない。
冗談じゃないんだよ、は、心が自分を守ろうとしたサインだ。
そのサインを、刃物にせず、手すりに変える。
僕らは今日も、そうやって暗く沈まずに生きていく。
アンが皿の端の欠片を狙っているので、ほんの少しだけ置いた。
欠片はピース。
ピースは完成側へ戻る。
千紗が小さく言う。
「凹凸」
「凹凸」
僕が返す。
そして最後に、鈴。
「さぁ」
それは戦いの号令じゃない。
冗談じゃない日を、ちゃんと生活に戻すための、優しい合図だった。




