窓までの十歩
冷蔵庫に、でかい「十」が書かれていた。
漢数字の「十」。一本線に、一本線。
それだけで、なんだか落ち着くの、ずるい。
「何これ」
僕が白湯を飲みながら言うと、千紗は包丁でりんごを半分にしながら、さらっと答えた。
「十」
「見れば分かる」
「分かるでしょ。今日は“十”で割る日」
包丁がまな板に当たる音が、こつ、こつ、と短いリズムで続く。
「あなた、全部まとめて抱えるから。十に切る」
アンが椅子の上で伸びた。椅子。第三の動き。
猫の伸びは、心の分割に似ている。一本ずつ伸ばす。全部を一気に伸ばさない。猫は天才だ。
「十に切るって、りんごじゃないんだから」
「りんごも十にできるよ」
千紗が言って、笑う。
「でも今日は、気持ちを十にする」
僕はスマホを手に取った。
休日の朝なのに、通知がすでに数件ある。
仕事、家族、友人、通販、あと……SNSのどうでもいいやつ。
全部が一枚の板に乗って、同時に押してくる感じ。
胸の奥で「チッ」が鳴る。舌打ちじゃない、ブザー。
チッ=ブザー→凹凸→一手。
凹凸。刺さったときの手すり。
「来た?」
千紗が受信機の目で僕を見る。
「来た」
「凹凸」
「凹凸」
僕はスマホを伏せた。
一手は、まだ返信しない。
椅子を引く。第三の動き。
いきなり立って走らない。座って“十”を出す。
千紗は冷蔵庫からマグネットを十個、まとめて取ってきた。
丸いの、四角いの、猫の形のやつまである。
「十個。これが今日の“十”」
「雑」
「雑でいい。雑じゃないと、あなたは完璧を始めて崩れる」
千紗はホワイトボード用の小さい紙を一枚貼って、そこに「十」を真ん中に書いた。
その周りに、数字の1から10をぐるっと並べる。
まるで時計みたいに。
「ルール」
千紗が言う。
「今あなたの中にある“全部”を、十個の“欠片”に分ける」
「十個も?」
「十個がちょうどいい。少なすぎると重い。多すぎると数えるのが嫌になる」
「現実通りだな」
「現実通り」
僕は息を吐いた。
吐くのが先。クロールの呼吸。
吐くと、数えられる。
「じゃ、1」
千紗が指を立てた。
「いま一番刺さってるやつ」
「……仕事」
「具体」
「月曜の資料」
「よし。1は“月曜資料”。マグネット」
千紗が丸いマグネットを「1」の横に置いた。
目に見えるだけで、少し軽くなる。
板の上に出せるものは、胸の中で暴れにくい。
「2」
「……家の掃除」
「あなたの掃除は罰ゲーム化しがち」
「う」
「じゃ、2は“罰ゲーム掃除禁止”。守るために書く」
「掃除じゃなくて禁止が欠片?」
「うん。禁止は手すり。凹凸」
千紗が「2」に四角いマグネットを置く。
守りの欠片。悪くない。
「3」
千紗が言う。
「人間関係」
僕は少し黙ってから言った。
「……返事してない友達」
「3は“友達返信”。今日やる?」
「……保留」
「保留も欠片。スリット」
千紗が「3」の横に猫の形のマグネットを置いて、横に小さく“|”を書いた。
止まるの記号。シンプルシンボルが混ざるの、僕らの生活っぽい。
「4」
「……体」
「体?」
「肩がこってる」
「いい。4は“肩”。欠片として正しい」
欠片として正しい、という言い方が可笑しくて、僕はちょっと笑った。
炭酸が圧抜きした。
「5」
千紗が言う。
「家の温度」
「……白湯」
「いいね。5は“白湯”。今日の議長」
マグネットが増える。
1から5まで並ぶと、半分。
半分って、ちょうどいい。
完成じゃないけど、欠片でもない。ピース。
ここで、スマホがまた震えた。
心が反射で取りに行こうとして、胸の奥で「チッ」。
ブザー。
千紗がすぐに言う。
「凹凸」
「凹凸」
僕は手すりを握って、次の一手を選ぶ。
一手は、“十”を先に埋める。
通知は後。順番。
「6」
千紗が指を立てる。
「楽しみ」
楽しみ。
僕は一瞬、空白になった。
楽しみって、忙しいときに一番消えるやつだ。
空っぽ。
でも空っぽでも器は器。コップ。
「……りんご」
僕が言うと、千紗が笑った。
「シャク担当」
「食感で割る」
「じゃ、6は“シャク”。最後に入れたかったけど、今日は前倒し」
「7」
「アン」
僕が即答すると、千紗は満足そうに頷いた。
「猫は大事。7は“アン”。器の番人」
アンがちょうど欠伸をした。
本人は知らないところで、欠片にされている。
「8」
千紗が言う。
「あなたの“上”」
昨日の階段を思い出す。マイ上へ。
上は、誰かに勝つことじゃない。
自分の上り方。
「……三呼吸してからスクロール」
「いい。8は“受信機つまみ”。あなたが握る」
千紗が「8」の横に小さな鈴の絵を描いた。
背中押す合図。
「9」
「……連絡先ノート」
「もしものノートね」
「うん。あれ、地味に安心した」
「9は“現実通りノート”。保険」
千紗は「9」の横に小さく“錨”を書いた。
錨の一語+理由一行+鈴。風に飛ばされない。
「10」
千紗が最後の指を立てる。
「締め」
締め。
締めって、始めるより難しい。
僕はよく、締められない。
終わりを作れない。
終わりを作れないと、ずっと走り続ける。
だから、10はこれにした。
「……CALLED GAME」
「止める笛」
「うん。危ない時は止める。中断は敗北じゃない」
千紗が頷いて、最後のマグネットを置いた。
「十、完成。ピース化、完了」
ホワイトボードの“十”の周りに、欠片が十個並んだ。
見ているだけで、胸の中の“全部”が静かになる。
全部は、全部のままだと刃物になる。
十にすると、道具になる。
「さぁ」
千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らす。
「次は順番。1からやる?それとも、6からご褒美で回す?」
「ご褒美で回すと、罰ゲーム化しない」
「学んだね」
「学んだ。今日は“受け取る”も欠片に入ってる」
僕は立ち上がって、窓まで歩いた。
窓まで、たぶん十歩。
数えてみる。
一歩。
二歩。
三歩。
四歩。
五歩。
六歩。
七歩。
八歩。
九歩。
十歩。
十歩目で、カーテンの隙間から光が入る。スリット。
床に線が引かれる。
線は途中で止まっていい。
線は曲がっていい。
線は、今日の僕の“現実通り”の形。
僕は振り返って、千紗に言った。
「十って、ちょうどいいね」
「でしょ」
千紗はコーヒーを一口飲んで、笑った。
「あなた、十までなら数えられる。百まで行くと、途端に世界を背負う」
「百は重い」
「十は軽い。軽いと続く」
アンが椅子から降りて、僕の足元にすり寄った。
僕はアンを一回だけ撫でた。ひとつだけ。
それが今日の小さいイエス。
十個の欠片の中で、一番温度があるやつ。
「最後にシャク」
千紗が言う。
「6、実行」
僕らはりんごを切って、噛んだ。シャク。
音が、十個の欠片をまとめて“よし”にしてくれる。
スマホの通知はまだある。
でも今は、十の中のどれかにしかならない。
全部じゃない。
十にできる。
だから暗く沈まない。
千紗が鈴をちん、と鳴らした。
「さぁ。十の次は、ひとつだけ」
僕は頷いた。
十で整えて、ひとつで動く。
それが、今日の僕らの“十”の使い方だった。




