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冷蔵庫の三つの印

 冷蔵庫の扉って、家の掲示板だ。

 僕らはそこに、買い物リストも、メモも、くだらない落書きも貼る。

 そして今日、そこに“記号”が増えていた。


 ○

 |

 △


 ……以上。

 説明、なし。

 千紗の字ですらない。たぶん、油性ペンで一発描き。


「え、なにこれ」

 僕が白湯を飲みながら言うと、千紗はフライパンを温めつつ、背中だけで笑った。


「シンプルシンボル」

「そのまま言った」

「今日は概念の話」

「概念って言うと難しくなる」

「だから記号。難しくしない」


 アンが椅子の上で丸くなって、尻尾の先だけ動かした。椅子。第三の動き。

 猫は記号の達人だ。ごはん皿は○、トイレは△、膝は|。たぶん。


「ルール」

 千紗が言う。

「今日、あなたが迷子になったら、言葉じゃなく記号で返していい」

「迷子の予告、やめて」

「予告じゃない。保険。現実通り」


 現実通り。

 最近、彼女はその言葉を“道の名前”として使っている。切り拓いた道。余計な妄想が生えないように。


 フライパンからいい匂いがして、卵が焼ける音がする。

 僕の胸の奥の“受信機”が拾う。

 安心の音。

 ……でも、同時にスマホの通知が鳴る。

 別の音。

 焦りの音。


 胸の奥で「チッ」が鳴りかける。舌打ちじゃない、ブザー。

 チッ=ブザー→凹凸→一手。

 凹凸。刺さったときの手すり。


「来た?」

 千紗が振り向かずに言う。受信機が優秀すぎる。

「来た」

「凹凸」

「凹凸」


 手すりを握って、僕はスマホを見た。

 仕事のグループチャット。

 “今からオンラインで5分だけ確認できますか?”

 朝。しかも休日寄りの朝。

 五分って言い方が、ずるい。

 五分なら…って、器を削るやつ。


 僕は息を吐いて、冷蔵庫の記号を見た。

 ○|△

 これ、どういう意味だ。


「説明して」

 僕が言うと、千紗が卵を皿に移しながら言った。

「説明は後。まず記号で返して」

「え」

「あなたの気持ち、今どれ?」

 千紗はペンを持ち、冷蔵庫の前に立った。

「○は“いける”」

「|は“いったん止まる”」

「△は“危ない”」


 シンプルすぎる。

 でも、シンプルって、こういう時に刺さる。

 僕は自分の胸を探った。


 ○じゃない。

 △ほどでもない。

 今は……|。止まる。


「……|」

 僕が言うと、千紗が頷いた。

「よし。止まる。止まったら次は“一手”」

「一手」

「今日の一手は、記号で作る」


 千紗は紙を一枚ちぎって、テーブルに置いた。

 そこに、小さく“手順”を書き始める。


「|の時の手順」

1)吐く

2)錨

3)鈴

4)ひとつだけ


 ……完全にたまり場式だ。

 なのに、記号が入るだけで、急に軽くなる。


「錨」

 千紗が言う。

「一語+理由一行+鈴」

「錨の一語……」

 僕は考えて、短く言った。

「現実通り」

「理由」

「今は休日で、僕の器は削りたくない」

 千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らした。

「固定。はい、“ひとつだけ”」


 ひとつだけ。

 僕がやるのは、返信。

 そして内容は、線を引く。

 スリットを作る。ゼロか百かにしない。


 僕はチャットに打った。


『今はすぐ入れません。11時なら5分だけ可能です。緊急なら要点だけテキストでください。』


 送信して、スマホを伏せた。

 これが“ひとつだけ”。

 それ以上はやらない。

 やると罰ゲーム化する。


「よし」

 千紗が満足そうに言う。

「今、○に近づいた?」

 僕は胸を確かめた。

 |は少し薄まって、○寄りになっている。

「……○寄り」

「じゃ、朝ごはん」

「記号で会話するの、楽だな」

「でしょ。あなた、言葉で盛るから」

「盛る」

「怖さも、責任も、予定も、全部大盛りにする」

「大盛りは美徳じゃないの?」

「牛丼だけ。感情は並でいい」


 アンが「並って何」とでも言いたげに鳴いた。

 僕は笑った。炭酸が圧抜きしたみたいに。


 朝ごはんを食べ終えると、千紗は冷蔵庫の記号の横に、小さく追記した。


「○:できる」

「|:止まる」

「△:守る」


「△、守る?」

 僕が聞くと、千紗は真顔で頷いた。

「危ない時は守る。攻めない。止める笛。CALLED GAME」

「確かに。△は屋根みたいだし」

「そう。屋根。雨を受ける。暗くしないための屋根」


 昼前、また通知が来た。

『了解です。11時にお願いします。』

 短く、優しい。

 僕の中の疑いの羽が一枚、洗われる。現実通り。


 11時。

 僕は5分だけオンラインに入って、要点だけ確認して、終わらせた。

 終わらせるのが大事。

 “終わり”を作るのは、椅子を引くことに似ている。第三の動き。


 通話を切ったあと、胸の奥で小さく「チッ」が鳴りそうになった。

 でも今日は、チッが鳴る前に記号が見えた。

 |。

 止まる。

 吐く。

 錨。

 鈴。

 ひとつだけ。

 手順が自動で起動する。便利すぎて怖い。


「終わった?」

 千紗がリビングのソファで訊く。

 彼女の膝の上にはアン。猫は今日も椅子の役目をしている。


「終わった。|から○に戻った」

「良かった」

 千紗が鈴をちん、と鳴らした。

「さぁ。ご褒美、シャク」


 僕らはりんごを切って、噛んだ。

 シャク。

 音が、記号よりもシンプルに“今ここ”へ戻してくれる。

 ○でも|でも△でもない、ただの「おいしい」。


 僕はふと思って言った。

「シンプルな記号って、結局、言葉より優しいかも」

「うん。言葉は時々、刃物になる」

「記号は?」

「記号は、手すり。凹凸の目印」

 千紗は笑って、冷蔵庫の前で指を一本立てた。

「今日の結論。迷子の時は、まず記号。次に言葉」


 アンが小さく鳴いた。

 たぶん「まず撫でろ」。猫のシンプルシンボルはいつもそれだ。


 僕はアンの頭を一回撫でて、終わりにした。

 ひとつだけ。

 ○|△の世界で、僕らは今日も暗く沈まずに暮らしていける。


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