普通の日に結ぶ約束
冷蔵庫に、新しい紙が貼られていた。千紗の字は今日も丸いのに、内容がやけに実務的だ。
「もしものノート(暗くしない)
・連絡先
・合言葉
・やってほしいこと3つ
・やってほしくないこと3つ
最後にシャク」
「……終活?」
僕が白湯を飲みながら言うと、千紗はトースターの前で肩をすくめた。
「終活じゃない。生活の“保険”」
「保険って言い方は現実通りだけど」
「現実通りにしておくと、怖さが刃物にならないでしょ」
アンが椅子の上で丸くなって、尻尾の先だけ揺らした。椅子。第三の動き。
猫は、こういう話の時ほど落ち着いてる。たぶん「人間だけが勝手に先のことを盛る」と知っている。
「でも、もしもってさ」
僕はマグを置いた。
「“死”とか、急に連想してさ、胸が……」
胸の奥で、鳴りかける。
チッ。舌打ちじゃない、ブザー。
千紗がすぐに言う。
「凹凸」
「凹凸」
合言葉を口にすると、手すりが出る。
刺さったら握る。握ったら落ちない。落ちないから、暗く沈ませなくて済む。
「チッ=ブザー→凹凸→一手、だよね」
千紗が、トーストを皿に乗せながら言う。
「一手、何にする?」
「……一手は、メモの一行目を読む」
僕は冷蔵庫の紙を指でトンと叩いた。
「“暗くしない”」
「いい。錨にしよ」
千紗は鍵の鈴を指先でつまんで、ちん、と鳴らした。
武器。刃物じゃない、背中を押す合図。
「さぁ」
千紗が言う。
「“もしも”を、怖い物語にしないで、手順にする」
机の上にノートが置かれた。まっさらなページ。
まっさらって、希望がある反面、怖い。
白紙は“ゼロか百か”を呼びやすい。
千紗が鉛筆で、ページに一本線を引いた。
スリットみたいな、細い線。
「線で割る。これでゼロか百かじゃなくなる」
「線、便利すぎる」
「線は道具。あなたは道具にすると強い」
そして千紗は、ページの左に「現実通り」、右に「たまり場式」と書いた。
現実通りは事実。
たまり場式は、僕らの型。
「内なる五人、呼ぶ?」
千紗が当然みたいに言う。
僕も当然みたいに頷いた。
「白湯:落ち着け」
「紅茶:礼儀と段取り」
「ほうじ茶:温めながら」
「コーヒー:具体に」
「炭酸:重くするな、笑え!」
炭酸が騒ぐ。
僕はちょっと笑って、胸の圧が抜けた。よし、炭酸は仕事をした。
「議長は白湯」
千紗が即決する。
「今日、炭酸が議長だと、“もしもパーティ”になる」
「それもそれで楽しそう」
「楽しそうだけど、アンが引く」
アンは欠伸をした。引いてるのか眠いのか分からない。猫は便利だ。
「まず、現実通りから」
千紗がノートの左側を指でトントン叩く。鈴の代わりの合図。
「連絡先。緊急連絡先」
「会社は?」
「会社はもちろん。あと、あなたの親しい人」
「……そうだね」
僕はペンを持った。
書き始めると、なんだか拍子抜けする。
“死が二人を分かつまで”みたいな大げさな言葉じゃなくて、ただの電話番号だ。
だけど、電話番号って、生活の最小の約束だ。
千紗が続ける。
「次、合言葉」
「凹凸?」
「それも入れる。でも、もう一個。外で使う用」
「外で?」
「病院とか、説明が長い場所で、あなたが固くなったら言うやつ」
僕は少し考えた。
合言葉は、手すり。
刺さった時に掴める、短い音。
「……“コップ”」
僕が言うと、千紗は目を細めた。
「空っぽでも器は器」
「うん。あの場で空っぽになっても、器は残ってるって思える」
「いいね。じゃ、合言葉は“凹凸”と“コップ”」
千紗はノートに書き込んで、鈴をちん、と鳴らした。
「さぁ。次、やってほしいこと3つ」
やってほしいこと。
この手の話って、ここから急に暗くなるイメージがある。
でも千紗の顔は暗くない。
朝の光みたいに、ちゃんと明るい。
「“やってほしい”は、死んだ時の話じゃなくていい」
千紗が言う。
「熱出して寝込んだとか、骨折とか、そういう現実通りでいい」
「現実通り」
「うん。生活の延長」
僕は書いた。
1)「無理に元気づけない(静かに白湯)」
2)「必要なら“CALLED GAME”して止める(休む権利)」
3)「アンのごはんは、いつも通り(量を勝手に増やさない)」
「三つ目、アンが主役だな」
「アンは家の主だし」
僕が言うと、千紗が笑った。
「分かる。アンは“現実通り”の番人」
千紗も書く。
彼女の“やってほしい”は、細い字で、でも芯がある。
1)「困ったら“戻る”と言って、いったん座る(椅子)」
2)「心配の先回りをしない(勝手に決めない)」
3)「迷ったら“錨”を打つ(一語+理由一行+鈴)」
僕はペンを止めて、見た。
錨の手順。
僕らの会話の型。
これを紙に落とすと、怖さが急に“地図”になる。
地図は刃物じゃない。背中を押す鈴に近い。
「次、やってほしくないこと3つ」
千紗が言った。
「ここ、あなたが暴走しがち」
「ご褒美の日みたいに?」
「そう。ご褒美でも暴走する人が、もしもでも暴走しないわけがない」
僕は苦笑いして、胸の奥で小さくチッが鳴った。
すぐ凹凸。
すぐ一手。
一手は、深呼吸じゃなくて吐く。
吐いたら、書ける。
「やってほしくない」
僕は書いた。
1)「一人で全部背負う(窓口ひとり体制禁止)」
2)「“大丈夫”を連打して嘘をつく(受信機が壊れる)」
3)「不安で夜中に掃除しない(罰ゲーム化禁止)」
千紗が吹き出した。
「夜中の掃除、ほんとやるもんね」
「やる。心が焦ると、床を磨きたくなる」
「床に謝らせないで」
「床は悪くない」
「あなたも悪くない。だから禁止にする」
千紗も書いた。
1)「私の代わりに答えない(私の口を奪わない)」
2)「ゼロか百かで決めない(スリットと線)」
3)「“優しさ”で急かさない(背中押すのは鈴だけ)」
ペンの音が止まった瞬間、部屋が少し静かになった。
静かだけど、暗くない。
静かって、安心の形でもある。
アンがテーブルの下から出てきて、僕の足に頭をこすりつけた。
猫の合図は鈴じゃなくて、毛の圧だ。
「ねえ」
僕は言った。
「こういうの、書いたら……“もしも”が近づく気がして怖いって、昔思ってた」
「分かる」
千紗は頷く。
「でもね、逆。書くと遠ざかる。怖さが勝手に育たなくなる」
「つぼみの話みたいだ」
「そう。怖さのつぼみを、勝手に開かせない。手袋で守る」
手袋。触れないで守る。
僕らは“もしも”に素手で触れない。
型で触る。言葉で触る。
だから、怪我をしにくい。
「最後に、たまり場式」
千紗がノートの右側を指差した。
「一番大事なやつ。二人の“約束”を、でかい言葉にしないで書く」
「でかい言葉にしない」
「うん。『永遠』とか『死ぬまで』とか、重い。あなた、重いと崩れる」
「崩れる」
「だから軽く。軽いけど飛ばされないように錨」
僕は頷いて、提案した。
「錨、やる?」
「やる」
僕らは同時に言った。
「錨:現実通り」
「理由:今日の体温と呼吸を優先する」
千紗が鈴を鳴らす。ちん。
「固定」
それから、右側に短く書いた。
でかい言葉じゃない、普通の日の約束。
『刺さったら凹凸。』
『空っぽでもコップ。』
『止める笛は恥じゃない。』
『一人にしない。窓口は二つ。』
『迷ったら戻る。椅子に座る。』
『最後に、シャク。』
書き終えると、僕は思わず笑った。
「最後にシャクって、約束として強いのか弱いのか分からない」
「強いよ」
千紗は真顔で言う。
「あなたの心は、食感で割れる。割れると軽くなる。軽いと続く」
続く。
その言葉が、今日の主題の芯だった。
“二人を分けるもの”の話じゃない。
“二人が続くための手順”の話。
「さぁ」
千紗が小さく言って、鈴を鳴らした。ちん。
「締め。シャク、しよ」
僕らはりんごを切った。
包丁の刃は、傷を作る刃じゃない。割るための刃。
りんごを二つに、さらに四つに。欠片をピースにしていく。
シャク。
音が、部屋に明るく響いた。
アンが皿の端の欠片を狙っているので、ほんの小さく置く。
アンがぺろりと舐めて、満足そうに目を細めた。
「ねえ」
僕が言う。
「こういうノート、名前つける?」
「つける」
千紗が即答する。
「“現実通りノート”。別名“たまり場式の取扱説明書”」
「長い」
「長いのが嫌なら、短いのもある」
「何」
千紗は鈴を指で弾いて、ちん、と鳴らした。
「“凹凸”」
僕は笑って、もう一口りんごを噛んだ。シャク。
怖さはゼロにならない。
でも百にもならない。
線で割って、椅子で休んで、錨を打って、鈴で始めて、シャクで終わる。
その手順がある限り、僕らの約束は、暗く沈まないまま続いていく。




