表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
105/111

普通の日に結ぶ約束

 冷蔵庫に、新しい紙が貼られていた。千紗の字は今日も丸いのに、内容がやけに実務的だ。


「もしものノート(暗くしない)

・連絡先

・合言葉

・やってほしいこと3つ

・やってほしくないこと3つ

最後にシャク」


「……終活?」

 僕が白湯を飲みながら言うと、千紗はトースターの前で肩をすくめた。


「終活じゃない。生活の“保険”」

「保険って言い方は現実通りだけど」

「現実通りにしておくと、怖さが刃物にならないでしょ」


 アンが椅子の上で丸くなって、尻尾の先だけ揺らした。椅子。第三の動き。

 猫は、こういう話の時ほど落ち着いてる。たぶん「人間だけが勝手に先のことを盛る」と知っている。


「でも、もしもってさ」

 僕はマグを置いた。

「“死”とか、急に連想してさ、胸が……」

 胸の奥で、鳴りかける。

 チッ。舌打ちじゃない、ブザー。


 千紗がすぐに言う。

「凹凸」

「凹凸」


 合言葉を口にすると、手すりが出る。

 刺さったら握る。握ったら落ちない。落ちないから、暗く沈ませなくて済む。


「チッ=ブザー→凹凸→一手、だよね」

 千紗が、トーストを皿に乗せながら言う。

「一手、何にする?」

「……一手は、メモの一行目を読む」

 僕は冷蔵庫の紙を指でトンと叩いた。

「“暗くしない”」

「いい。錨にしよ」


 千紗は鍵の鈴を指先でつまんで、ちん、と鳴らした。

 武器。刃物じゃない、背中を押す合図。


「さぁ」

 千紗が言う。

「“もしも”を、怖い物語にしないで、手順にする」


 机の上にノートが置かれた。まっさらなページ。

 まっさらって、希望がある反面、怖い。

 白紙は“ゼロか百か”を呼びやすい。


 千紗が鉛筆で、ページに一本線を引いた。

 スリットみたいな、細い線。

「線で割る。これでゼロか百かじゃなくなる」

「線、便利すぎる」

「線は道具。あなたは道具にすると強い」


 そして千紗は、ページの左に「現実通り」、右に「たまり場式」と書いた。

 現実通りは事実。

 たまり場式は、僕らの型。


「内なる五人、呼ぶ?」

 千紗が当然みたいに言う。

 僕も当然みたいに頷いた。


「白湯:落ち着け」

「紅茶:礼儀と段取り」

「ほうじ茶:温めながら」

「コーヒー:具体に」

「炭酸:重くするな、笑え!」


 炭酸が騒ぐ。

 僕はちょっと笑って、胸の圧が抜けた。よし、炭酸は仕事をした。


「議長は白湯」

 千紗が即決する。

「今日、炭酸が議長だと、“もしもパーティ”になる」

「それもそれで楽しそう」

「楽しそうだけど、アンが引く」


 アンは欠伸をした。引いてるのか眠いのか分からない。猫は便利だ。


「まず、現実通りから」

 千紗がノートの左側を指でトントン叩く。鈴の代わりの合図。

「連絡先。緊急連絡先」

「会社は?」

「会社はもちろん。あと、あなたの親しい人」

「……そうだね」


 僕はペンを持った。

 書き始めると、なんだか拍子抜けする。

 “死が二人を分かつまで”みたいな大げさな言葉じゃなくて、ただの電話番号だ。

 だけど、電話番号って、生活の最小の約束だ。


 千紗が続ける。

「次、合言葉」

「凹凸?」

「それも入れる。でも、もう一個。外で使う用」

「外で?」

「病院とか、説明が長い場所で、あなたが固くなったら言うやつ」


 僕は少し考えた。

 合言葉は、手すり。

 刺さった時に掴める、短い音。


「……“コップ”」

 僕が言うと、千紗は目を細めた。

「空っぽでも器は器」

「うん。あの場で空っぽになっても、器は残ってるって思える」

「いいね。じゃ、合言葉は“凹凸”と“コップ”」


 千紗はノートに書き込んで、鈴をちん、と鳴らした。

「さぁ。次、やってほしいこと3つ」


 やってほしいこと。

 この手の話って、ここから急に暗くなるイメージがある。

 でも千紗の顔は暗くない。

 朝の光みたいに、ちゃんと明るい。


「“やってほしい”は、死んだ時の話じゃなくていい」

 千紗が言う。

「熱出して寝込んだとか、骨折とか、そういう現実通りでいい」

「現実通り」

「うん。生活の延長」


 僕は書いた。


1)「無理に元気づけない(静かに白湯)」

2)「必要なら“CALLED GAME”して止める(休む権利)」

3)「アンのごはんは、いつも通り(量を勝手に増やさない)」


「三つ目、アンが主役だな」

「アンは家の主だし」

 僕が言うと、千紗が笑った。

「分かる。アンは“現実通り”の番人」


 千紗も書く。

 彼女の“やってほしい”は、細い字で、でも芯がある。


1)「困ったら“戻る”と言って、いったん座る(椅子)」

2)「心配の先回りをしない(勝手に決めない)」

3)「迷ったら“錨”を打つ(一語+理由一行+鈴)」


 僕はペンを止めて、見た。

 錨の手順。

 僕らの会話の型。

 これを紙に落とすと、怖さが急に“地図”になる。

 地図は刃物じゃない。背中を押す鈴に近い。


「次、やってほしくないこと3つ」

 千紗が言った。

「ここ、あなたが暴走しがち」

「ご褒美の日みたいに?」

「そう。ご褒美でも暴走する人が、もしもでも暴走しないわけがない」


 僕は苦笑いして、胸の奥で小さくチッが鳴った。

 すぐ凹凸。

 すぐ一手。

 一手は、深呼吸じゃなくて吐く。

 吐いたら、書ける。


「やってほしくない」

 僕は書いた。


1)「一人で全部背負う(窓口ひとり体制禁止)」

2)「“大丈夫”を連打して嘘をつく(受信機が壊れる)」

3)「不安で夜中に掃除しない(罰ゲーム化禁止)」


 千紗が吹き出した。

「夜中の掃除、ほんとやるもんね」

「やる。心が焦ると、床を磨きたくなる」

「床に謝らせないで」

「床は悪くない」

「あなたも悪くない。だから禁止にする」


 千紗も書いた。


1)「私の代わりに答えない(私の口を奪わない)」

2)「ゼロか百かで決めない(スリットと線)」

3)「“優しさ”で急かさない(背中押すのは鈴だけ)」


 ペンの音が止まった瞬間、部屋が少し静かになった。

 静かだけど、暗くない。

 静かって、安心の形でもある。


 アンがテーブルの下から出てきて、僕の足に頭をこすりつけた。

 猫の合図は鈴じゃなくて、毛の圧だ。


「ねえ」

 僕は言った。

「こういうの、書いたら……“もしも”が近づく気がして怖いって、昔思ってた」

「分かる」

 千紗は頷く。

「でもね、逆。書くと遠ざかる。怖さが勝手に育たなくなる」

「つぼみの話みたいだ」

「そう。怖さのつぼみを、勝手に開かせない。手袋で守る」


 手袋。触れないで守る。

 僕らは“もしも”に素手で触れない。

 型で触る。言葉で触る。

 だから、怪我をしにくい。


「最後に、たまり場式」

 千紗がノートの右側を指差した。

「一番大事なやつ。二人の“約束”を、でかい言葉にしないで書く」

「でかい言葉にしない」

「うん。『永遠』とか『死ぬまで』とか、重い。あなた、重いと崩れる」

「崩れる」

「だから軽く。軽いけど飛ばされないように錨」


 僕は頷いて、提案した。

「錨、やる?」

「やる」


 僕らは同時に言った。


「錨:現実通り」

「理由:今日の体温と呼吸を優先する」

 千紗が鈴を鳴らす。ちん。

「固定」


 それから、右側に短く書いた。

 でかい言葉じゃない、普通の日の約束。


『刺さったら凹凸。』

『空っぽでもコップ。』

『止める笛は恥じゃない。』

『一人にしない。窓口は二つ。』

『迷ったら戻る。椅子に座る。』

『最後に、シャク。』


 書き終えると、僕は思わず笑った。

「最後にシャクって、約束として強いのか弱いのか分からない」

「強いよ」

 千紗は真顔で言う。

「あなたの心は、食感で割れる。割れると軽くなる。軽いと続く」


 続く。

 その言葉が、今日の主題の芯だった。

 “二人を分けるもの”の話じゃない。

 “二人が続くための手順”の話。


「さぁ」

 千紗が小さく言って、鈴を鳴らした。ちん。

「締め。シャク、しよ」


 僕らはりんごを切った。

 包丁の刃は、傷を作る刃じゃない。割るための刃。

 りんごを二つに、さらに四つに。欠片をピースにしていく。


 シャク。

 音が、部屋に明るく響いた。

 アンが皿の端の欠片を狙っているので、ほんの小さく置く。

 アンがぺろりと舐めて、満足そうに目を細めた。


「ねえ」

 僕が言う。

「こういうノート、名前つける?」

「つける」

 千紗が即答する。

「“現実通りノート”。別名“たまり場式の取扱説明書”」

「長い」

「長いのが嫌なら、短いのもある」

「何」

 千紗は鈴を指で弾いて、ちん、と鳴らした。

「“凹凸”」


 僕は笑って、もう一口りんごを噛んだ。シャク。

 怖さはゼロにならない。

 でも百にもならない。

 線で割って、椅子で休んで、錨を打って、鈴で始めて、シャクで終わる。

 その手順がある限り、僕らの約束は、暗く沈まないまま続いていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ