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独眼竜覇道録―早く生まれた龍は、天下を望む―  作者: レイン
第二節 青年期

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第二話 尾張のうつけ

第二話 尾張のうつけ


 天文二十年(一五五一年)、夏。


 父の部屋へ向かう途中で、遠藤基信(えんどう もとのぶ)と行き合った。


 脇へ寄ろうとすると、先に足を止め、頭を下げられる。


「藤次郎様も、殿のところへ」

「うむ。基信もか」

「はい。商人から聞いた話を、少々」


 手には文箱を持っていた。


 こちらが目を向けると、基信は持ち直し、廊下の先へ顔を向けた。


「殿は、お部屋でございますか」


 後ろにいた小十郎が頷く。


「先ほど、お戻りになりました」


 基信と並んで歩く。


 父に呼ばれたわけではなかった。昨日、父の前で書いた返書を清書したので、見てもらおうと思っていた。


 紙の角をそろえていると、基信が戸口で声をかけた。


「基信にございます」


 中から返事がある。


 戸が開くと、父は家臣と向かい合っていた。脇へ積まれた紙の間に、絵図の端が見えている。


「政宗も来たか」

「返書を、お持ちしました」

「そこへ置け。後で見る」


 示されたところへ紙を置いた。


 基信が父の前へ座るので、その脇へ膝を進める。


 小十郎は戸口に控えた。


「何かあったか」

「尾張の織田信秀(のぶひで)が、亡くなったとのことでございます」


 父の手が、紙の上で止まった。


「信秀が」

「はい。三月のことと。尾張から戻った商人が、先日、こちらへ参りまして」


 向かいの家臣も顔を上げていた。


 織田信秀。


 聞き覚えはある。西の国々について先生から教わったとき、今川と戦っている者として、その名が出た。


 父は紙を畳み、脇へ置いた。


「病か」

「そのように聞いております」

「今川と争っておる折に、痛いことだな」


 家臣が膝へ手を置いた。


「尾張の虎とまで呼ばれた男も、病には勝てませなんだか」


 父は答えず、基信を見た。


「跡は、誰が継ぐ」

「三郎(さぶろう)信長という息子でございます。ただ、その信長について、妙な話が」


 基信の声が少し低くなった。


「父の葬儀へ、ひどく乱れた身なりで出てきたそうでございます」


 顔を上げる。


 葬儀に、乱れた身なりで。


 着替えが間に合わなかったのだろうか。


「それだけではございませぬ。焼香(しょうこう)の折に抹香(まっこう)をつかみ、父の位牌(いはい)へ投げつけたと」


「何と」


 声が出た。


 父がこちらを向く。


「父親の、位牌へですか」

「さようにございます」


 基信の返事を聞き、父へ目を戻した。


 父は眉を寄せているが、何も言わない。


 位牌へ抹香を投げるところを思い浮かべようとしても、うまく形にならなかった。


 寺で位牌へ手を合わせる姿なら知っている。


 その位牌へ、抹香を投げつけるのか。


「その商人が、見たのですか」


 父が聞くより先に尋ねると、基信はこちらへ向き直った。


「葬儀に出たわけではございませぬ。尾張に滞在していた折、土地の者から聞いた話だそうです」


 向かいの家臣が鼻から息を吐いた。


「身内の葬儀で、そのような真似を。家臣どもも、止めませなんだのか」

「商人には、そこまでは分からぬようで」

「信秀の跡を継ぐ者が、それではな」


 家臣の目が父へ向く。


「尾張も、先が案じられまする」


 父は膝へ手を置いたまま、しばらく黙っていた。


「信長は、まだ若かろう」

「十八と聞いております」

「十八であれば、父の葬儀で何をするべきかくらい、分かりましょう」


 家臣が言った。


 十八。


 俺より六つ上だ。


 時宗丸よりも、ずっと大きい。


「前から、そのような者なのですか」


 尋ねると、基信は少し首を傾けた。


「尾張では、うつけと呼ばれておるとか」

「うつけ」

「普段の身なりや振る舞いから、そう申す者がおるそうです」


 向かいの家臣が頷いた。


「では、あの葬儀だけのことではないのですな。信秀も、さぞ気を揉んでおったでしょうな」


 父が、指先で畳を軽く叩いた。


「噂だけでは、分からぬこともあろう」

「されど、殿」

「信秀が死んだことと、信長の振る舞いの話は、分けて聞いておこう」


 家臣は口を閉じ、頭を下げた。


 基信も頷く。


「次に商人が参りましたら、ほかに何を聞いておるか、確かめまする」


 父は脇へ置いた紙を開いた。


 向かいの家臣が身体の向きを戻す。


 話は、領内の境へ移った。


 隣の村が使っている山道について、去年と今年で申し立てが違うという。家臣が紙へ指を置くので、こちらも目を落とした。


 だが、字を追っていると、途中へ別の名が入ってくる。


 織田信長。


 うつけと呼ばれるほどなら、父にも何度も叱られたのだろうか。


 それなのに、最後に顔を合わせる席で、そのようなことをするのか。


「政宗」


 父の声に顔を上げた。


 家臣の指が、紙の同じところへ置かれていた。


「この道は、覚えておるか」

「……はい。去年、父上と通りました」

「川へ下りる手前だ。こちらの枝道ではないぞ」


 指された先を見る。


 覚えている道より、一つ下を見ていた。


「失礼いたしました」


 父の手元へ紙が戻される。


 膝を寄せ直し、今度は家臣の話へ耳を向けた。


     *


 部屋を出ると、基信も後から来た。


 父は別の者を呼び、小十郎は戸の脇で待っている。


 基信が文箱を抱え直したところへ、声をかけた。


「信秀は、父上より年上だったのか」

「はい。上でございます」

「信長に、兄弟はおるのか」

「はい。腹違いの兄と、弟がおりまする」


 その兄弟も、同じ席にいたのだろうか。


 竺丸がそんな真似をしたら、俺は腕をつかんで止める。


 信長の兄は、どうしていたのだろう。


「藤次郎様」


 基信がこちらを見ていた。


「まだ、あの話をお考えで」

「父の葬儀で、あのようなことをする者がおるとは思わなかった」

「私も、初めは聞き返しました」


 基信は一度、父の部屋へ目を向けた。


「もっとも、殿の仰せのとおり、私どもはその場を見ておりませぬ」

「うむ」


 基信が頭を下げ、廊下を歩いていく。


 戸の脇へ戻ると、小十郎がこちらへ顔を向けた。


「お部屋へお戻りになりますか」

「まだだ。返書を見ていただいておらぬ」


 持ってきた紙は、父の脇へ置いたままだった。


 開いた戸の奥を見る。


 父は家臣の話を聞きながら、こちらの書いた紙を手に取った。


 折り目を開き、目を落とす。


 昨日、書き直したところで指が止まった。


 そこは、字を間違えたのではない。


 先に何を伝えるかで、父から直すよう言われたところだ。


 呼ばれたらすぐに入れるよう、戸口の脇へ座った。


 部屋の中から、紙を返す音が聞こえた。


「政宗。入れ」


 戸口で膝をそろえ直してから、部屋へ入った。


 先ほどの家臣は、紙を片づけている。脇を通ると、父が返書をこちらへ差し出した。


「これでよい。基信へ渡せ」

「このままで、よろしいのですか」

「直せと言ってほしいのか」

「いえ」


 両手で受け取った。


 父が指を止めていたところを見る。


 荷を通してよいと、先に答えを書いた。その後に、いつ、どの道を使うのかを確かめたいと続けてある。


 昨日の紙では、その順が逆だった。


「通ってよいかと聞いておる相手に、道の話から始めては、返事を探させることになる」

「はい」

「次に同じ用の文を書くときも、考えて書け」


 折り目に沿って畳む。


 父が次の紙を取る前に、顔を上げた。


「基信は、もう城を出たでしょうか」

「まだ、おるだろう。使いの者が来るまでに渡しておけ」

「承知いたしました」


 立つと、父の目が腰へ向いた。


「刀は、置いてきてもよいぞ。城の中を行ったり来たりするたび、押さえておる」

「当てぬようにしておるだけです」

「うむ。そのまま走らぬようにな」


 戸口まで歩き、父へ頭を下げた。


 廊下へ出てから、少し歩幅を広げる。


 隣へ来た小十郎が、こちらの手元を見た。


「お直しは」

「ない」

「左様でございましたか」


 紙を少し持ち上げた。


「このまま基信へ渡せと」

「では、こちらへ。使いの者と会う部屋へ向かわれたようでございます」


 小十郎の後へ続いた。


     *


 基信は、文箱を開いていた。


 返書を渡すと、その場で広げ、初めから終わりまで目を通す。


 書き直したところで、こちらの指も止まりそうになった。


「承りました。殿にも、ご覧いただいておりますな」

「うむ。これでよいと」

「では、お預かりいたします」


 紙が文箱へ収められた。


 蓋が閉まり、基信の手がその上へ置かれる。


 もう、自分で開いて確かめるものではない。


 膝へ両手を戻した。


「使いの者は、いつ来る」

「昼を過ぎてからと聞いております」

「なら、間に合ったな」

「はい。お持ちくださり、ありがとうございます」


 基信が頭を下げた。


 こちらも頷いて立つ。


 部屋を出たところで、小十郎へ声をかけた。


「先生のところへ行く」

「手習いは、午後でございますが」

「絵図を見たい。尾張がどこか、確かめる」


 小十郎は一度こちらを見てから、歩く向きを変えた。


「今、お手が空いておられるか、伺いましょう」


     *


 先生は、窓際で書物を読んでいた。


 小十郎が用向きを伝えると、閉じた本の上へ指を置き、こちらへ顔を向ける。


「尾張でございますか」

「うむ。国の場所が分かるものは、あるか」

「ございます。ただ、細かな道までは載っておりませぬ」

「場所だけでよい」


 先生が棚の前へ立った。


 紐でまとめた紙を一つ取り出し、机の上へ広げる。


 端が巻き戻ろうとするので、手を添えた。


「こちらを押さえていてくださいませ」


 小十郎も反対側へ手を置く。


 国の名が、幾つも並んでいた。


 山や川の線より、字の方が目につく。普段見る領内の絵図とは、まるで違った。


「出羽(でわ)は、これか」

「はい。こちらにございます」


 自分の指より先を示され、少し紙を回した。


 先生が書き添えたらしい小さな印がある。


「米沢も、ここに入るのだな」

「さようでございます」


 その下へ目を移す。


 読める名を口の中で追い、信濃(しなの)のところで止まった。


 尾張(おわり)は、まだ見つからない。


「こちらです」


 先生の指が、さらに先へ置かれた。


 顔を近づける。


 尾張。


 すぐ脇には、美濃(みの)と書かれている。海へ向いたところにも、別の国の名があった。


「三河(みかわ)」

「はい。その東が遠江(とおとうみ)、さらに駿河(するが)でございます」


 駿河の字へ指を移した。


「今川の国か」

「ええ」


 尾張へ戻り、その間を目でたどる。


 父は、今川と争っている折に信秀を失ったのは痛いと言った。


 この絵図では、指を少し動かせば届く。


「尾張まで行くには、幾日かかる」


 小十郎を見ると、すぐには返事がなかった。


「通る道にも、天候にもよりましょう。私も、尾張まで参ったことはございませぬ」

「父上は」

「そこまでは、存じませぬ」


 米沢の印から、尾張まで指を滑らせた。


「紙では、このくらいなのにな」

「この一枚へ収めておりますからな」


 先生が、脇へもう一枚広げる。


 こちらは見慣れた川の形だった。


「同じところを、大きく描けば、こうなります」


 城から蔵へ続く道が見える。


 指を置けば隠れる橋も、こちらの紙には、はっきり描いてあった。


「ここを歩くだけでも、すぐには着かぬか」

「はい」


 国の絵図へ戻る。


 尾張の字は、小さい。


 その中に城も寺も道もあり、信長という男がいる。


 紙の端を押さえ直した。


「尾張は、織田の国なのだろうか」

「織田を名乗る家が、幾つもあると聞いております」


 先生が尾張の字を見た。


「詳しいことは、私よりも殿や、諸国を行き来する者にお尋ねになるのがよろしゅうございましょう」


 信秀の跡を継いでも、この小さな一か所を全部もらえるわけではないのか。


 指を離し、膝へ戻した。


「もう少し、見ていてよいか」

「ええ。私は、こちらを読んでおります」


 先生が書物を取り上げた。


 小十郎は紙の端へ重しを置き、手を離す。


 尾張の周りの字を、一つずつ読んだ。


     *


 絵図を畳んで礼を言うと、先生が窓の外へ目を向けた。


「午後も、お待ちしております」

「忘れてはおらぬぞ」


 小十郎と廊下へ出る。


 庭の葉が揺れ、窓から入る風に、衣の裾が膨らんだ。


 振り返ると、先生はもう書物へ顔を戻していた。


「小十郎。父上のお供で、遠くまで行くこともあるのか」

「はい。幾日もかけて参ることもございます」


 返事を聞きながら、先へ歩く。


 父の部屋へ通じる廊下が見えた。


 さっき受け取った返書は、もう手にない。


 昼を過ぎれば、使いの者が持って城を出る。


「文なら、人が行くところまで届くのだな」


 小十郎が隣へ来た。


「受け取る者がおり、届ける者がおれば」


 基信に話をした商人も、その遠い尾張から戻ってきた。


 絵図の国々を、一つずつ越えてきたのだ。


「次にあの商人が来たら、通ってきた道も聞いてみたい」

「基信殿へ、お伝えしておきましょう」

「うむ」


 窓の向こうには、見慣れた山が続いていた。


 翌日、朝の稽古を終えると、小十郎が手拭いを差し出した。


「基信殿より、お伝えするようにと」

「商人か」

「はい。明日には城下を発つそうでございます。本日、基信殿へ挨拶に参る折でしたら、お話もできると」


 首筋をぬぐいながら、部屋へ向かう。


「いつ来る」

「朝餉の後でございます」

「では、着替える」


 戸口まで来て振り返ると、小十郎は二本の木剣をまとめているところだった。


 汗のついた衣をつまみ、背から離す。


 風が入ると、少し冷たかった。


     *


 基信の部屋には、男が一人座っていた。


 日に焼けた頬へ、短い髭が伸びている。脇に置かれた包みは紐で固く結ばれ、その下へ敷いた布の角が擦り切れていた。


「こちらが、藤次郎様でございます」


 基信の言葉に、男が両手をついた。


「お目にかかれて、恐悦(きょうえつ)に存じます」


 前へ座り、挨拶を返す。


 基信は昨日の噂の話をせず、こちらへ顔を向けた。


「通ってきた道をお聞きになりたいと、伺っております」

「うむ。尾張の絵図を見たのだが、道が載っておらなんだ」


 商人が頭を上げた。


「尾張には、どれほどいた」

「ひと月ばかりでございます」

「そこから、どう来たのだ」


 商人は、美濃を通り、信濃へ入ったと話した。


 昨日見た字を思い出す。


 それから先にも、国や宿の名が続いた。知っているものもあったが、聞いたことのない名の方が多い。


「待て。今のところを、もう一度申せ」


 男の口が止まる。


 基信が脇の紙を寄せ、筆を取った。


「名を書きましょうか」

「頼む」


 書かれた字を見ながら聞く。


 それでも、昨日の絵図のどこへ置けばよいか分からないところがあった。


「ずっと歩くのか」

「荷を馬へ載せることもございますが、私は歩きます」

「疲れぬか」

「疲れまする。宿へ着きましたら、まずは足を休ませます」


 商人の手が、膝へ置かれた。


 指の節が太く、爪の端が欠けている。


「道で雨になったら」

「笠をかぶり、歩けるうちは進みます。川の水が増えましたら、止むまで待つことも」

「では、思った日に着かぬな」

「はい。こちらの都合ばかりでは、参れませぬ」


 基信の筆が動く。


 その先を見ると、宿の名の脇へ、小さく何か書き添えていた。


「何を書いた」

「川を渡るところでございます。道を聞くだけでは、どこで日がかかるか分かりませぬので」


 紙をこちらへ回してくれた。


 国の名を追うだけなら、昨日の絵図でもできる。


 だが、この紙には、そこで何をするのかまで増えていく。


 商人が身じろぎし、少し脚を引いた。


「痛むのか」

「いえ。長く座っておりますと、膝が固まりまして」


「崩してよいぞ」


 男が基信を見る。


 基信が頷くと、一礼して片膝を緩めた。


「歩いておるときの方が、楽なのか」

「時には、そのようなこともございます」


 それほど歩いてきた男が、座って足に困るのか。


 こちらも膝を動かしかけ、やめた。


「明日は、どこへ行く」

「まずは宿へ戻り、荷をまとめまして――」

「いや。城下を発ってからだ」


 男が口を閉じ、改めて次の行き先を答えた。


 基信の筆が、その名を書き足す。


 尾張から来た道の続きが、紙の下へ伸びた。


     *


 商人を見送ってから、書いてもらった紙を受け取った。


「これを、先生の絵図と見比べてもよいか」

「はい。お持ちくださいませ」


 折り目をつける前に、もう一度広げる。


 下の方には、商人が明日向かう場所がある。


 尾張の名は、上に残っていた。


「基信は、この者と前から知り合いなのか」

「何度か、取引をしております」

「いつも、あのように国々の話をする?」

「荷の話のついでに、聞くことがございます。道が通れねば品も届きませぬし、戦があれば商いも変わりますゆえ」


 戦。


 紙の上へ目を落とした。


 昨日は、信秀が死んだ話から、葬儀での信長の振る舞いへ話が移った。


 こちらが驚いている間にも、この男は別の道を歩き、品を売ったり買ったりしていたのだ。


「信長が家を継いだ後も、尾張へ行くのか」


 基信は、商人の去った戸口を見た。


「商いができるうちは、参りましょう」

「うつけと呼ばれていてもか」

「その者の評判だけで、商いをやめるわけにもまいりませぬ」


 基信が文箱を開ける。


 昨日、こちらが届けた返書は、もう入っていなかった。


「道を通れるか。荷を届けられるか。まずは、そちらを確かめねばなりませぬ」


 商人にとっては、そちらの方が先なのか。


 紙を畳み、両手で持った。


「また来たら、話を聞きたい」

「その折には、お知らせいたします」


 礼を言い、小十郎と部屋を出た。


     *


 午後、先生の前へ二枚の紙を並べた。


 一枚は、国々の絵図。


 もう一枚は、基信に書いてもらった道筋だった。


 宿の名を読み、絵図の中を探す。


 載っていないものもあるので、国の名の下へ指を置き、ここを通ったのだと確かめた。


「この川では、水が引くまで待ったそうだ」


 先生が手元の紙をのぞく。


「そのようなことまで、お聞きになったのですな」

「歩くだけでは着かぬからな。川が渡れねば、そこで止まる」


 自分で言ってから、絵図の尾張へ目を向けた。


 小さな字の周りに、川の線がある。


 この一本を渡るにも、待つ日があるのだ。


 紙を引き寄せかけると、先生が別の紙を前へ置いた。


「では、今日はこちらを」

「もうか」

「手習いのお時間でございます」


 小十郎が脇で硯を寄せる。


 道筋の紙を畳み、絵図の端へ置いた。


 筆を取る。


 先生の手本を見て書き始めたが、一画目で墨が多く出た。


 筆先を硯の縁へ戻し、整える。


「急がずとも、紙は逃げませぬ」

「急いではおらぬぞ」


 次の字は、少し細くなった。


 手本と見比べ、もう一つ書く。


 書き終える頃には、窓から差す光が机の端へ移っていた。


「道の紙は、お持ちになりますか」

「うむ。部屋でも、もう一度見る」


 受け取り、書いた字と別に畳んだ。


 先生が絵図をしまい始める。


「尾張は、覚えましたかな」

「覚えた」


 紙の端が重なり、国の名が隠れていく。


 尾張。


 そこにいる、織田三郎信長。


 父の跡を継いだ十八の男は、今、何をしているのだろう。


 訊ねても、ここに答えられる者はいない。


 手元の紙を持ち直し、先生へ頭を下げた。

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