第一話 政宗の名
第一話 政宗の名
天文十九年(一五五〇年)。
畳へ広げられた衣の前で、両腕を上げた。
袖へ手を通すと、小十郎が背へ回る。肩から布を引かれ、襟が首の脇へ収まった。
「苦しくはございませぬか」
「大丈夫だ」
腕を下ろす。
袖の模様が、光を受けて浮いた。仕立てる前に触った布だが、身につけると、見ていたときより色が濃く感じられる。
小十郎が前へ戻り、腰の辺りを整えた。
その手が離れるのを待ち、畳へ置かれた刀を見る。
「刀も、今から差すのか」
「はい。お手伝いいたします」
小十郎の手を借り、刀を帯へ差した。
立とうとすると、鞘の先が畳へ触れる。腰を浮かせたまま止まり、小十郎を見た。
「左の膝を、少し外へお開きくださいませ」
言われたとおりに膝を動かし、立ち上がる。
脇へ添えた手に、柄が当たった。
小十郎の刀を膝へ載せたときとは違う。歩けば、これも一緒についてくる。
二歩進み、振り返った。
「曲がってはおらぬか」
「よろしゅうございます」
小十郎は座ったまま、こちらを見ていた。
もう一度確かめたくなったが、戸の向こうから声がした。
「殿がお越しでございます」
足を戻し、座る。
入ってきた父は、戸口でこちらを見た。
「支度はできたか」
「はい」
父が近づくので、膝へ両手をそろえた。
刀の柄が袖へ触れる。手を動かすと、父の目もそこへ下りた。
「慣れるまでは、気をつけよ」
「はい」
父が向かいへ座った。
小十郎は脇へ退き、戸口近くへ控える。
「名の話をしておこう」
背が伸びた。
こちらを見たまま、父は言った。
「藤次郎政宗と名乗れ」
口の中で、二つを繰り返した。
藤次郎。
政宗。
知っている名だった。
「政宗とは……ご先祖の」
「うむ。九代の政宗公だ」
先生の前で読んだ系図を思い出す。
父の名から、いくつも前へたどったところにあった。聞かされた話も、一つや二つではない。
「伊達を大きくした方の名だ。お前にも、あやかってもらいたい」
膝へ置いた指を、そっと曲げた。
父が考えているというので、自分でも幾つかの名を思い浮かべたことはあった。
だが、その名ではなかった。
「俺には、まだ早いのではございませぬか」
父の眉が動いた。
「元服がか」
「名です。政宗公と同じでは」
父はすぐには答えなかった。
廊下を人が歩く音がして、戸の前を過ぎていった。
「お前は、政宗公のなされたことを知っておるな」
「はい」
「では、その名を聞くたびに、思い出せよう」
父の声は、いつもと変わらなかった。
「同じ名を名乗っても、お前はお前だ。今日から、先祖と同じ働きができるとは思っておらぬ」
少し顔を上げた。
「しかし、名は継いでもらう。わしが、お前に選んだ名だ」
膝の上から手を離し、畳へついた。
「……承知いたしました」
頭を下げると、刀が腰で動いた。
衣も刀も、今朝から変わった。
名まで変わるのだ。
顔を上げたときには、父が立つところだった。
「参るぞ」
立ち上がり、鞘を確かめてから後へ続く。
戸口を出たところで、小十郎が隣へ来た。
「若」
顔を向けると、袖口を示された。
片方だけ、内へ折れていた。指で引き出そうとすると、小十郎が布の端を整えてくれる。
「これで、よろしゅうございます」
手が離れた。
礼を言おうとして、先を歩く父との間が開いていることに気づく。
足を速めかけ、腰の刀を押さえた。
*
部屋へ入る前から、家臣たちの声が聞こえていた。
父が姿を見せると、それが収まる。
開いた戸の向こうには、幾人もの男が座っていた。見慣れた顔もあるが、今日は衣が違う。
父に続いて進むと、脇へ控えた者が手で場所を示した。
座る位置は、前にも聞いている。
それでも、示された畳を見てから膝をついた。
袖を寄せ、手を置く。
向かいの家臣と目が合い、顎を引いた。
声をかけてくる者はいない。
父のそばで皆の話を聞いたときには、年寄りの家臣が笑ってくれた。今日はその家臣も、口を結んでこちらを見ている。
戸の閉まる音がした。
始まりを告げる声に、背を正した。
呼ばれて頭を下げる。
顔を上げるよう促され、前を向くと、黒い烏帽子が見えた。
烏帽子を手にした者が、目の前へ膝を進めた。
頭へ触れられると、首まで動かしそうになった。
膝の上で、指をそろえる。
烏帽子が据えられ、紐が整えられた。額の辺りに、先ほどまではなかった感触が残る。
顔を動かさず、目だけを上げかけたが、何も見えなかった。
手順を教わったときには、もっと短く思えた。
父の声が聞こえる。
「藤次郎政宗」
自分のことだと分かっていても、返事をするまでに一息かかった。
「はっ」
声が、思ったより部屋へ響いた。
「今日より、その名を名乗れ」
教わったとおりに頭を下げ、ゆっくりと身を起こした。
父が家臣たちへ顔を向ける。
「いずれ、わしの跡を継ぐ者だ。皆も、力を貸してやってくれ」
家臣たちが一斉に頭を下げた。
こちらを向いていた顔が、見えなくなる。
膝へ戻した掌に、汗がにじんでいた。
*
儀式を終えて廊下へ出ると、ようやく息を長く吐けた。
額へ手をやりかけ、途中で下ろす。
紐に触れて、緩めてしまっては困る。
「藤次郎様」
後ろから呼ばれた。
振り返ると、先ほどまで部屋にいた家臣が膝をついている。
いつもなら、若様と呼ぶ男だった。
「本日は、まことにおめでとうございます」
「……うむ。ありがとう」
顔を上げた家臣へ、もう一つ言葉を添えた。
「これからも、よろしく頼む」
「はっ」
家臣が改めて頭を下げた。
父のいる方へ歩き出すと、今度は別の者が脇へ寄って頭を下げる。
その前を、背を伸ばして通った。
「政宗」
父に呼ばれ、足が止まる。
今度は、すぐに顔を上げた。
「はい」
父がこちらを待っていた。
そばまで行くと、開いた戸の奥へ目を向ける。先ほどの家臣たちが、席を移しているところだった。
「お前も、こちらへ座れ」
示されたのは、父の隣だった。
戸口で袖を整え、一歩入る。
腰の刀が柱へ当たらぬよう、身体の向きを少し変えた。
父の隣へ座ると、家臣たちがこちらへ向き直った。
いつもより近い。
正面に座った家臣の膝に、衣の折り目まで見えた。
「本日は、まことにおめでとうございます」
両手をつかれ、こちらも頭を下げる。
「ありがとう」
身を起こす間に、隣の男が口を開いた。
また頭を下げかけると、父が脇から声をかける。
「皆の祝いを受けよ。そう何度も下げていては、顔を見せられぬぞ」
手を膝へ戻した。
前を向くと、家臣の目元が少し緩んでいる。
「ご立派になられましたな」
「まだ、背は伸びる」
「それは、頼もしゅうございます」
父がこちらを見たので、口を閉じた。
外から膳が運ばれてくる。
置かれる場所を空けようと膝を引くと、父の膳より先に、こちらの前へ一つ置かれた。
器も、盛られたものも、いつもの昼餉とは違っていた。
小十郎は戸口の近くへ座った。
目を向けると、その向こうに時宗丸が見える。父親のそばで膝をそろえ、こちらを見ていた。
顔を向けた途端、背筋を伸ばして顎を引く。
俺の真似か。
にらむと、時宗丸は何事もなかったように正面へ向き直った。
「政宗」
父に呼ばれ、顔を戻す。
「はい」
「これからは、こうして皆の話を聞く席も増える」
「はい」
正面の家臣が頷いた。
「何なりと、お申しつけくださいませ」
言われて、すぐには返せなかった。
今、頼むことは何もない。
父は器へ手を伸ばしている。代わりに答えるつもりはないらしい。
「……分からぬことは、聞く」
「はい。お尋ねくださいませ」
家臣が頭を下げた。
その向こうでも、別の者がこちらを見ている。
膝へ置いた手を開き、もう一度そろえた。
*
祝いの席を終え、部屋へ戻る途中で呼び止められた。
「藤次郎殿」
振り返ると、時宗丸が後ろに立っていた。
こちらへ近づき、両手をつく真似をする。
「何なりと、お申しつけくださいませ」
「では、そこを掃け」
「なぜ俺が」
「何なりと申しただろう」
時宗丸が顔を上げる。
小十郎が脇へ寄ると、その先へ回って並んできた。
「何度も頭を下げておったな」
「見ておったのか」
「皆が見ておったぞ」
言い返そうとして、やめた。
それは、そうだ。
「刀は、もう持っておるのだな」
時宗丸の目が腰へ下りる。
袖から手を出し、柄の手前へ添えた。
「お前には渡さぬぞ」
「取ろうとはしておらぬ」
顔を寄せて鞘を見た後、今度は烏帽子へ目を上げる。
「梵――」
そこで止まり、口元を曲げた。
「政宗、だったな」
新しい名が、時宗丸の声で聞こえた。
父に呼ばれたときより、妙にくすぐったい。
「何だ」
「いや。呼んでみただけだ」
肩を小突いてきたので、押し返す。
時宗丸が腰の刀を見て、一歩離れた。
「それがあると、組みつけぬな」
「稽古のときは、外す」
「なら、それまでは勘弁してやる」
小十郎が先に戸を開けた。
時宗丸を先へ入れ、こちらも続く。
座ると、鞘が畳へ当たった。手を添えて直している間、時宗丸は向かいで待っていた。
「外さぬのか」
「今、外す」
小十郎へ顔を向けると、すでに刀を置く場所を整えていた。
*
数日後、父の部屋へ呼ばれた。
今度は祝いの衣ではない。
戸口で声をかけると、中から入るように言われた。
父の前には、家臣が二人座っている。脇へ紙を広げていた方が、こちらへ場所を空けた。
頭を下げ、その隣へ座る。
「橋の修繕の話だ」
父が紙をこちらへ向けた。
川を渡る線のそばに、幾つかの数字が書かれている。
家臣が指を置いた。
「橋板の傷んだところが増えております。今は、荷を載せた車を渡らせぬようにしておりますが」
「人は渡れるのか」
「はい。ただ、雨が続く前には直しておきたく存じます」
父は別の紙へ目を落とした。
「何日かかる」
「今、回せる者だけでは十日ほど。材を運ぶ者も要りますゆえ」
十日。
その間、荷車は別の道を行くのか。
地図の川上へ目を移す。もう一つの橋までは、道が大きく曲がっていた。
「政宗。お前なら、どうする」
父の声に顔を上げた。
二人の家臣も、こちらを見ている。
「人を増やせば、早く済むのではございませぬか」
父が紙の上へ手を置いた。
「どこから増やす」
「ほかの普請をしておる者を、こちらへ」
答えると、父は隣の家臣へ目を向けた。
「今、どこへ出しておる」
「川下の堤と、蔵の塀でございます」
父の指が、地図の下へ動いた。
「堤から人を抜けば、そちらが遅れる。蔵の塀も、崩れたままにはできぬ」
「では、人を雇っては」
「その銭は、どこから出す」
口が止まった。
紙には数字がある。
だが、それだけ見ても、幾ら足せるのか分からない。
父は先を促さず、こちらを待っていた。
「……今の人数で直すには、どれだけ銭が要るのですか」
紙を持っていた家臣が、父を見る。
父が頷くと、一枚をこちらへ寄せた。
「こちらが、今回の見積もりでございます」
指された数字を見る。
材の分と、人の分。その下にも、細かく書きつけてある。
「これは」
「運ぶ車と、その者への支払いでございます」
人を増やせば、その者の分も増える。
材を早く運ばせれば、車も余計に要るのだろうか。
上からもう一度読み、分からぬ字へ指を置いた。
「ここも、教えてくれ」
家臣が膝を寄せる。
父は脇の紙を取り、その間もこちらの前の見積もりを片づけなかった。
橋の絵図と数字を、交互に見る。
紙の端を押さえ、家臣の説明を聞き直した。
「材の代は、この額で決まっておるのか」
指を置くと、家臣が頷いた。
「はい。必要な板の数をそろえた額でございます」
「人を増やしても、板は増えぬな」
「それは、変わりませぬ。ただ、一度に大勢を集めても、橋の上へは乗れませぬゆえ」
紙から顔を上げた。
「乗れぬのか」
「狭うございます。板を外す者の後ろへ、次の板を持った者が詰めては、動けなくなります」
絵図の橋は、指の先より細い。
そこへ何人も並ぶところを思い浮かべた。
「では、運ぶ方へ増やせば」
「材が早く届くのは、助かります」
父がこちらを見る。
「それで、何日縮まる」
「……どれくらいだ」
家臣へ尋ね直すと、男は見積もりの端へ指を添えた。
「今の十日というのは、途中、材の届くのを待つ日も入れております。板を先にそろえられれば、八日ほどには」
二日。
人を倍にすれば、半分になるかと思っていた。
そのまま口へ出しかけ、絵図へ目を戻す。
「堤の者は、その間も抜けぬのですか」
父はもう一人の家臣へ顔を向けた。
「どうだ」
「堤を固めるところへ、人を集めております。今は、離せませぬ」
「蔵の塀は」
「明日には、崩れたところの片づけが済みます。その後は、壁を直す職人と、手元へ材を渡す者がおれば」
さっきは、塀にも人が要ると言っていた。
だが、ずっと同じ人数ではないのか。
「片づけの済んだ者を、橋板を運ぶ方へ回せませぬか」
父ではなく、家臣へ顔を向けた。
「塀の仕事に差し支えぬ人数だけでよい」
「人数を確かめねばなりませぬが……何人かは、回せるかと存じます」
父が紙を引き寄せた。
「では、まず塀の方へ聞け。橋の板も、いつ運べるか確かめよ」
「承知いたしました」
「足りぬ分を雇うかは、その返事を聞いてから決める」
家臣が見積もりへ書きつける。
父の前から、橋の絵図が畳まれた。
こちらは、まだ紙のあったところを見ていた。
「政宗」
顔を上げる。
「明日、返事が来る。お前も聞きに来い」
「はい」
膝へ置いた手を握り、すぐに開く。
「何人回せるか、俺から尋ねてもよろしいですか」
「うむ。返事を聞いて、どうするか考えてみよ」
父は次の紙を取った。
家臣も座り直す。
まだ話が続くらしい。
膝を少し動かし、父の手元へ目を向けた。
*
部屋を出ると、小十郎が廊下に控えていた。
隣へ来るのを待って歩き出す。
「橋を直す話だった。板を替えるだけだと思っておったのだが」
廊下の先を、紙を抱えた家臣が曲がっていく。
こちらより先に父の部屋を出たのに、もう別の者へ声をかけていた。
「小十郎。明日、朝餉の後は何がある」
「手習いでございます」
「父上のところへも行く。橋の返事を聞くのだ」
「では、先生へお伝えしておきましょう」
「先に父上のところでよいか、聞いてくれ」
小十郎が頷いた。
「承知いたしました」
部屋へ戻ると、机の前に竺丸がいた。
こちらを見るなり立ちかけたが、膝へ手を置き直す。
「お帰りなさいませ」
いつもより、改まった声だった。
戸口で足を止める。
「どうした」
「藤次郎様のお帰りを、お待ちしておりました」
竺丸の目が、後ろの小十郎へ動いた。
教わったのかと思ったが、小十郎も竺丸を見ている。
「誰に聞いた」
「皆、そう呼んでいたから」
時宗丸とは違い、笑ってはいない。
こちらを見上げたまま、返事を待っていた。
「お前まで、そのように呼ばずともよい」
「兄上で?」
「そう申しただろう」
竺丸の肩が下りた。
「では、兄上」
座る場所を空け、机の上へ手を伸ばす。
「これを、見てほしかった」
開かれた紙へ目を落とすと、見覚えのある道が描かれていた。
以前のものより、線が増えている。
「また、絵図を書いたのか」
「橋のところを、直した」
隣へ座り、紙を寄せた。
川を渡る線の脇に、小さな四角がある。
「これは」
「橋のそばの店。前は、書いてなかった」
指で道をたどる。
犬のいた店の印も残っていたが、脇へ描かれた犬は、前より足が長くなっていた。
「犬も、直したのか」
「これは、僕が書いた」
耳を見る。
猫には見えぬ。
「俺のは」
「裏にある」
紙を返すと、見覚えのある犬がいた。
竺丸が笑う。
「そちらは、残しておいた」
「こちらにも、何か書いてやろうか」
「こっちは、もうよい」
紙を引かれ、手を離す。
小十郎が脇へ座り、こちらの顔を見た。
「先生から、こちらが届いております」
差し出されたのは、昨日の手習いだった。
竺丸が場所を空けようとしたので、その袖をつかむ。
「まだ、見ておる」
「でも、お勉強では」
「これは、後でよい」
竺丸の紙へ顔を戻した。
「お前の橋も、荷車が通れるくらい広く書け」
「ここ?」
「うむ。これでは、二人で並んでも落ちるぞ」
竺丸が橋の線をのぞき込む。
「兄上が書いた川が、広すぎるのかもしれない」
「今のは、お前が書いたのだろう」
竺丸が紙を押さえて笑った。
*
翌朝、手習いの前に父の部屋へ向かった。
先生には、小十郎から話を通してもらっている。
戸口には、昨日の家臣がいた。
こちらに気づくと、脇へ寄って頭を下げる。
「藤次郎様。ちょうど、お返事を申し上げるところでございます」
抱えていた紙が、膝の前へ下ろされた。
父の声が中からした。
「政宗も来たか。入れ」
「はい」
家臣に続いて戸をくぐる。
父の隣へ座り、向かいへ広げられる紙を待った。
今度は、どの数字を見るのか分かる。
「塀の片づけを終えた者は、何人回せる」
家臣が顔を上げた。
「四人でございます」
「板を運ぶ車は」
答えを聞こうと身を寄せると、父の手が紙の端へ置かれた。
「先に、材を運ぶ日を聞こう。人も車も、その日にそろえねばならぬ」
紙へ目を戻し、座り直した。
家臣は紙をこちらへも見えるように回す。
「はい。まず、材を運ぶ日についてでございます」
筆で書かれた数字へ、指が置かれた。
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