第五話 兄を慕う
第五話 兄を慕う
物入れの奥から、鞠が一つ出てきた。
梵天丸は両手で挟み、くるりと回した。縫い目の脇が黒ずみ、一か所だけ、革の色が違う。
膝へ置いて押してみると、思っていたより硬かった。
「それは、まだ使えるのでしょうか」
小十郎が傍らへしゃがむ。
「使える。破れてはおらぬぞ」
「では、しまわずに置いておきましょう」
差し出された手へ渡しかけ、戸口の影に気づいた。
竺丸が立っていた。
柱へ手を添え、口を開きかけては閉じている。
「何をしておる」
「何もしてない」
「用があるのではないのか」
竺丸の目が鞠へ下りる。
持ち上げてみせると、またこちらを見た。
「これか」
小さく頷いた。
「鞠だぞ。見たことはあるだろう」
「あります」
その後ろで、母付きの女が頭を下げた。
「お邪魔をいたします」
「入れ。そこでは、見えぬだろう」
竺丸は敷居の前で一度止まり、そっと部屋へ入ってきた。
近くまで来た竺丸の目が、手元へ下りた。
「手は?」
昨日、ようやく布を外してもらった掌を開く。
「もう、治ったぞ」
竺丸が膝を寄せる。
赤い跡へ指を伸ばしかけ、引っ込めた。
「痛くない?」
「握っても、痛まぬ」
指を曲げてみせると、竺丸も自分の手を握った。
「お前の手を確かめても、分からぬぞ」
竺丸の口元が少し緩む。
鞠を膝から持ち上げ、その前へ置いた。
「持ってみろ」
両手が伸びる。
竺丸は受け取った鞠を胸へ抱えた。
「重いか」
「少し」
顔を近づけ、色の違うところを見ている。
「そこは、前に直してもらったのだ」
「兄上が破いたの?」
「俺だけではない」
小十郎が、出したものを物入れへ戻していた。
「お前も使ったな」
「ええ。何度か」
「ほらな」
竺丸が小十郎を見る。
「片倉さんも?」
「若にお相手を頼まれましてな」
竺丸は鞠へ顔を戻した。
片方の手で持とうとして、膝へ落とす。
「両手で持て。足へ落ちたら痛いぞ」
抱え直すと、今度は指の腹で縫い目をなぞった。
小十郎が物入れの戸を閉める。
「お庭へ、お持ちになりますか」
「うむ」
立ち上がると、竺丸も腰を浮かせた。
鞠を抱えたまま、こちらを見ている。
「お前が庭まで持っていくか」
返事の前に、女へ顔を向けた。
「御前様へ、お伺いしてまいります。少々お待ちくださいませ」
女が部屋を出る。
竺丸は鞠を抱えたまま、戸口を見ていた。
しばらくして戻ってきた女が、膝をつく。
「お許しをいただきました。私もお供いたします」
竺丸が立つ。
戸口まで来ても鞠を渡さなかったので、そのまま先へ出た。
*
庭へ下りると、竺丸は段の上で立ち止まった。
足元を見て、鞠を見る。
「渡せ。下りてから返す」
両手が差し出された。
受け取って待つと、竺丸は片足ずつ段を下りた。女がその脇へつく。
土へ足がつくなり、手が伸びてきた。
「分かっておる」
鞠を返す。
竺丸は胸へ抱え、庭の真ん中を見た。
こちらも見回す。
植え込みへ入ると、取るのが面倒だ。廊下の下へ転がるのも困る。
小十郎が庭の端へ回り、落ちていた枝を拾った。
「こちらなら、広く使えます」
その前へ進み、竺丸から少し離れて向かい合う。
「ここへ転がしてみろ」
竺丸は鞠を持ち上げた。
投げるつもりか。
「下へ置いて、押せばよい」
膝を曲げてみせると、竺丸もしゃがんだ。
鞠を土へ置き、両手を添える。
押すと、鞠は半分ほどまで転がって止まった。
「届かない」
歩いて拾い、竺丸の前へ転がして返す。
両手が鞠を挟んだ。
「今度は、もっと強くな」
竺丸が勢いをつけて押した。
鞠が近づく。片手で止めようとしたが、指に当たって脇へ抜けた。
慌てて振り返り、転がる鞠へ手を伸ばす。
「兄上、取れなかった」
抱え上げて戻ると、竺丸が口元を押さえていた。
「片手だったからだ。両手なら取れる」
今度は低くしゃがみ、両手で転がして返す。
竺丸も同じように手を広げ、鞠を胸へ抱き込んだ。そのまま尻が土へつく。
「取れたか」
鞠の向こうで頷いた。
「では、俺にもよこせ。今度は両手だ」
両腕を広げて待つ。
竺丸が鞠を置いて押したが、今度は大きく横へそれた。
「あっ」
鞠を追って身体を向けると、竺丸もついてきた。
二人で手を伸ばし、指がぶつかる。
「俺が取る」
「僕が――」
竺丸の手が引っ込んだ。
鞠はすぐ前で止まっている。
拾わずに待った。
「お前が、何だ」
竺丸がこちらを見る。
「……僕が、取る」
「では、取れ」
竺丸がしゃがみ、両手で持ち上げた。
こちらへ差し出しかけたので、首を振る。
「戻ってから、また転がせ」
竺丸は鞠を抱えたまま、元の場所へ歩いていった。
こちらも戻り、向かいへ立つ。
今度は小十郎が、竺丸の後ろへ回っていた。
鞠がそれると止め、足元へ返してくれる。
何度か往復するうち、竺丸はしゃがむ前にこちらを見るようになった。
まだ手を広げていないと、鞠を押さえたまま待っている。
「よいぞ」
声をかけると、転がってくる。
片手で止め、今度は少しだけ横へ返した。
竺丸が身体を動かす。
指がかかり、鞠が止まった。
こちらを見た。
「取れたぞ」
言ってやると、口元が上がる。
「もう一回」
竺丸が鞠を膝の前へ置き、両手を添えた。
「兄上、見てて」
手を広げ、腰を落とした。
鞠が転がってきた。
両手で止めて持ち上げると、竺丸がこちらへ駆けてくる。
「今のは、真っすぐだった」
「うむ。俺のところまで来たぞ」
竺丸が笑った。
鞠を差し出すと、受け取ろうとして手を止める。掌が土で黒くなっていた。
「鞠も、汚れた」
「土の上へ転がしたからな」
革についた土を払う。
なかなか落ちないので、袖でぬぐいかけた。
「若。布をお持ちします」
小十郎に言われ、袖を戻す。
隣では、竺丸が自分の衣を見下ろしていた。尻のところへ手を回し、届かずに身体をひねる。
「お前も、ついておるぞ」
背へ回って払ってやると、じっと立った。
土が落ちてからも、まだ待っている。
「もうよい」
「後ろは?」
「今、払っただろう」
竺丸が振り返る。
こちらの衣へ目を向け、手を伸ばした。
膝の辺りを、ぱたぱたと叩く。
「兄上も」
「俺は、座っておらぬぞ」
「ここ」
見下ろすと、膝の脇が白くなっていた。
鞠を拾ったときについたのか。
小さな掌が何度も同じところを払う。
「取れたか」
「少し、残ってる」
顔を近づけているので、鞠を脇へ抱え直して待つ。
最後に一度強く叩かれ、思わず膝を引いた。
「痛いぞ」
「ごめんなさい」
「土だけ払えばよい。俺の足まで叩くな」
竺丸が手を背へ隠した。
そこへ小十郎が布を持って戻ってくる。
「鞠は、私が」
「俺が持つ。拭いてくれ」
差し出すと、布が革の上を滑った。
竺丸も脇からのぞく。
土が取れたところを指で触り、すぐに引っ込めた。
「またついた」
「お前の手も、土だらけだからな」
指先の跡を見ていると、小十郎が布を畳んだ。
「残りは、お手を洗われてからにいたしましょう」
竺丸が両手をこちらへ見せた。
「兄上も?」
鞠を抱えていない方の掌を開く。
指の間まで黒かった。
*
手を洗って廊下へ戻ると、竺丸は女に手を拭かれていた。
こちらは先に部屋へ入り、鞠を置く場所を探す。
物入れの奥へ押し込もうとしたところで、竺丸が戸口へ来た。
「あそこへ、戻すの?」
手が止まった。
「しまっておかねば、転がるだろう」
竺丸は物入れを見ていた。
奥には箱や畳んだ布が積まれている。鞠を入れれば、また見えなくなる。
「次も、出せる?」
「俺がしまうのだぞ。分からなくなるものか」
言ってから、今朝、ここを探していたことを思い出す。
鞠を引き戻した。
「……こっちへ置くか」
手前の箱を少しずらす。
できた隙間へ鞠を置くと、竺丸が近づいてきた。
「ここなら、見える」
「ならば、ここへ置いておくぞ」
竺丸の手が鞠へ伸びる。
触れる前に止まり、こちらを見た。
「勝手に、出してもよい?」
「俺がおるときなら、よいぞ」
竺丸は頷いたが、その場を動かなかった。
「何だ」
「兄上が、いないときは」
「待つか、あとで来い」
鞠を置き直し、物入れの戸を閉める。
竺丸はまだ、そばに立っていた。
「あとで来ても、よい?」
「何度も言わせるな。よいぞ」
小十郎が膝をつき、床へ落ちた土を布で拾っていた。
竺丸はその手元をしばらく見てから、ようやく戸口へ戻る。
女が手を差し伸べた。
「では、御前様のところへ参りましょう」
竺丸が手を取る。
廊下へ出ていく背を見送り、こちらも立った。
「若、お出かけになりますか」
「父上へ、この前の話を聞きに行く」
蔵から戻って以来、そのままになっていた。
小十郎が布を畳み、ついてくる。
廊下の先に、まだ竺丸の姿があった。
女と並び、ゆっくり歩いている。追いつくと、こちらへ顔を向けた。
「兄上も?」
「俺は父上のところだ」
分かれ道まで一緒に歩く。
竺丸は女の手を握っていたが、もう片方の手は空いていた。
こちらへ寄りかけては、また離れる。
その手を取ろうかと思ったところで、向こうから母が来た。
「竺丸」
女が足を止め、頭を下げる。
こちらも脇へ寄って礼をした。
「母上」
母は竺丸のそばへ来て、頬へかかった髪を払った。
「庭にいたそうですね」
「はい」
竺丸がこちらを見た。
「兄上と、鞠で遊んだ」
母の指が髪から離れる。
「そうですか。手は洗いましたか」
「洗いました」
竺丸が両手を上げてみせた。
母は指先を確かめ、手を下ろさせる。
「では、戻りましょう」
女の手から、母の手へ替わった。
竺丸が一歩進む。
「兄上」
呼ばれ、顔を向けた。
その先が続かない。
母を見上げ、またこちらを見る。
「鞠なら、しまっておいたぞ」
竺丸が頷く。
母が歩き出そうとしたとき、その袖が引かれた。
「母上」
「何です」
「明日も、兄上のところへ行ってよい?」
母は竺丸を見ていた。
「朝の手習いが済んでからですよ」
竺丸はすぐに返事をしなかった。
握った手を見て、それから母の顔を見上げる。
「済んだら、よい?」
「ええ。ただし、兄上のお邪魔をしないように」
「はい」
母がこちらへ向き直った。
「梵天丸にも、勉学や稽古があるでしょう」
「はい。済んでおれば、遊べます」
竺丸がこちらを見る。
頷いてやった。
「来る前に、片づけておけ」
「何を?」
「手習いの道具だ。俺も、そうする」
竺丸が頷く。
母と歩き始めてからも、一度だけ振り返った。
こちらへ上げかけた手が、胸の前で小さく揺れた。
空いた手を上げて返すと、今度は前を向いて歩いていった。
父の部屋には、この前、父の昔話をしていた家臣がいた。
小十郎を戸口に残して頭を下げると、家臣が顔を上げた。
「若様。お手は、もうよろしいので」
「うむ。布も取れたぞ」
掌を開いてみせ、父の前へ座った。
「今日は、鞠で遊んだそうだな」
「はい。竺丸と一緒に」
「そうか。二人で遊んでおったか」
父が脇へ紙を寄せる。
家臣も筆を置いた。
「父上。昔、蔵の工事を見に行っておられた話を聞かせてください」
家臣が顔を上げ、父を見た。
「蔵を建て直しておりましたとき、殿は毎日のように見に来られましてな」
「日ごとに形が変わるので、面白かったのだ」
「それで、ただ見ておられるより、お手伝いを願おうと。板を運んでいただきました」
父を見た。
「父上も、手伝ったのですか」
「板を一本、運んだだけだ」
「戻って来られたので、次の板もお願いしました」
「……運んだ板は、二本だけだぞ」
「左様でございましたか。では、二本ということで」
家臣の口元が緩んだ。
本当は、もっと運んだのだろうか。
思わず父の手を見る。
俺の手より、ずっと大きい。
「重かったですか」
「長いものを一人で持とうとして、端を地面へ引っかけた」
「それで?」
「後ろを持つ者が来た。二人で運んだ」
家臣が頷く。
「次を運ぶ頃には、ご自分から人を呼んでおいででした」
「お前も、見に来るばかりでは済まぬぞ」
「持てるものなら、運びます」
「うむ。その折は頼もう」
家臣が膝の上で手を重ねた。
「先ほど、お庭では竺丸様とご一緒でしたな」
顔を戻す。
「見ておったのか」
「こちらへ参る途中に。お二人で、同じ鞠を追っておいででした」
庭で鞠を拾おうとしたとき、小さな指がぶつかったのを思い出す。
あの後、竺丸は自分で鞠を拾っていた。
「また来ると言っておった」
「それは、楽しみでございますな」
父がこちらを見る。
「来たら、遊んでやれ」
「はい。明日も来ると、約束しました」
「そうか」
父の口元が緩んだ。
頷いて立つ。
戸口では、小十郎が待っていた。
隣へ来るのを待ち、声を落とす。
「父上も、初めはうまく運べなかったそうだ」
「殿にも、そのような頃がおありだったのですな」
「二本より、もっと運んだらしいぞ」
小十郎が部屋の方を見る。
中から、父が家臣を呼ぶ声がした。
聞こえたか。
先に廊下を曲がると、小十郎も足を速めてついてきた。
*
翌日、手習いを終えて部屋へ戻ると、戸口の脇に竺丸が座っていた。
女も、少し離れて控えている。
顔を見るなり立とうとしたので、手を出した。
「そこでよい。今、戻った」
竺丸は腰を浮かせたまま止まった。
「まだ、入っておらぬのか」
「兄上が、いなかったから」
小十郎が戸を開ける。
先に入り、持っていた紙を机へ置いた。
竺丸は敷居の外で待っている。
「入れと言っただろう」
「まだ、言ってない」
振り返ると、竺丸が真っすぐこちらを見ていた。
そうだったか。
「では、入れ」
竺丸が部屋へ入る。
小十郎が女へ座るよう勧めると、二人も戸口近くへ腰を下ろした。
机の筆を脇へ寄せ、紙を重ねる。
竺丸はその脇へ座ったが、机には手を触れなかった。
「お前の手習いは、済んだのか」
「済んだ」
「道具は」
「しまった」
返事が早い。
母上に言われる前に、済ませたのだろうか。
紙の端をそろえていると、物入れへ向いていた竺丸の顔が戻ってきた。
「今日は、鞠は」
「少し待て。これを置く」
竺丸の手が膝へ戻る。
畳んだ紙を文箱へ入れ、蓋を閉めた。
「よし」
立つと、竺丸も立った。
物入れを開け、脇へ寄る。
「出してよいぞ」
竺丸がしゃがみ、手前の鞠を両手で持ち上げた。
胸へ抱え、こちらを見上げる。
「ここに、あった」
「昨日、置いたからな」
小十郎が庭へ続く戸を開けた。
竺丸は先に向かいかけ、足を止める。
「兄上も、来る?」
「そのつもりで出したのだろう」
竺丸が頷いた。
竺丸の脇を通り、先に廊下へ出る。
「落とすなよ」
「落とさない」
言い終わらぬうちに鞠が腕からずれ、慌てて抱え直した。
「今、落ちそうだったぞ」
「まだ、落としてない」
口元が緩んだ。
竺丸も笑っている。
庭へ下りる前に手を差し出すと、今度はすぐに鞠を渡してきた。
段を下りた足が、土を踏む。
後ろで女が竺丸へ声をかけた。
「お足元を」
「はい」
待っていると、竺丸が両手を伸ばした。
鞠を返す。
抱えたまま、昨日遊んだところへ向かっていった。
こちらも後を追う。
「兄上は、そこ」
振り返った竺丸が、少し先を指した。
「昨日より、遠くないか」
「今日は、届く」
小十郎を見ると、何も言わずに竺丸の後ろへ回っていた。
女は廊下へ腰を下ろし、こちらを見ている。
指されたところへ立ち、両手を広げた。
「よいぞ」
竺丸が鞠を置く。
強く押された鞠は、少し横へ向かってきた。
足を動かして止め、抱え上げる。
「届いた!」
「俺が動いたのだぞ」
「でも、届いた」
竺丸が笑う。
鞠を返そうとすると、今度は後ろへ一歩下がった。
「兄上も、ここまで」
さっきより遠い。
その小さな両手へ向け、鞠を転がした。
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