第四話 弟の危機
第四話 弟の危機
「蔵を見に行く。お前も来い」
父の声に、廊下を曲がりかけた足を止めた。
「屋根板を替えたところですか」
「うむ。ようやく済んだそうだ」
「では、あの話も聞けますね」
「あの話とは何だ」
「父上が、仕事が済む前から見に行っておられた話です」
父がこちらを見た。
「その話をする者は、今日は来ぬぞ」
「帰ったら聞きます」
「よく覚えておるな」
父の口元が緩んだ。
その脇を通ろうとすると、開いた戸の向こうに弟がいた。母のそばへ座り、こちらを見ている。
父も気づき、部屋へ足を向けた。
「竺丸も来るか」
弟が母を見上げる。
「どちらへお連れになるのです」
「城下の蔵だ。たまには外へ連れていってやろう」
母は弟の肩へ手を置いた。
「人も多うございます。まだ、この子には」
「小十郎もおる。ほかにも供をつけるゆえ、案ずるな」
廊下の後ろで、小十郎が膝をついた。
「私どもがお供いたします」
母はしばらく父を見ていたが、やがて弟へ向き直った。
「竺丸。父上のおそばを離れてはなりませんよ」
弟の背が伸びる。
「はい」
「勝手に走ってもなりません」
「走りません」
父が手を差し出した。
「では、支度をして来い」
弟が立つ。
こちらへ来るのかと思ったが、傍らの女に呼ばれ、部屋の奥へ向かった。
父の後について廊下を歩きながら、小十郎を振り返る。
「俺も、着替えた方がよいか」
「そのままでよろしゅうございます」
「なら、先に門へ行く」
*
門へ着くと、供の者が二人、父を待っていた。
一人は腰の刀を直し、もう一人は門の外へ出て道を見ている。
小十郎に続いて立つと、ほどなく父が来た。
弟も女に連れられている。
髪はきれいになでつけられ、帯の結び目も、先ほどより整っていた。
「参るぞ」
父が先に立つ。
弟はそのすぐ後ろへついた。こちらが並ぶと、ちらりと顔を向けたが、何も言わなかった。
坂を下り、城下へ入る。
荷を背負った男が脇へ寄り、店先の女が頭を下げた。父は声をかけながら進み、ときおり後ろを確かめている。
弟は女の手を握っていた。
暖簾の下から犬が顔を出すと、足が遅くなる。
「犬か」
声をかけると、頷いた。
「あの店のだ。前に来たときもおったぞ」
犬はこちらを見たまま、店先へ腹をつけた。
弟が振り返りながら歩く。
「踏むなよ」
足元の石を指すと、慌ててまたいだ。
父が少し先で待っていた。
「何を見ておった」
「犬です」
弟が答える。
「帰りにもおるだろう。今は前を向いて歩け」
父へ追いつくと、弟は女の手を握り直した。
橋を渡った先で、通りが細くなる。
店先へ張り出した庇の下に、籠や桶が並んでいた。男が一人、荷を載せた車を引いてくる。
供の者が声をかけると、男は車を道の端へ寄せた。
脇を抜ける間、車輪のそばを見た。
太い軸に、泥が乾いてこびりついている。
「若」
小十郎に呼ばれ、前へ顔を戻した。
蔵の白い壁が、家並みの向こうに見えていた。
*
蔵の前では、男たちが待っていた。
父が近づくと、一斉に頭を下げる。
「お待ち申し上げておりました」
「うむ。屋根を見せてくれ」
軒の下へ入ると、新しい板の匂いがした。
見上げた先には、色の違う木が並んでいる。古いところは黒ずんでいたが、替えた板はまだ白かった。
「あそこへ上ったのか」
厩で見かける男へ尋ねると、軒先を指してくれた。
「はい。あちらから梯子をかけまして」
「板は、どう運んだ」
「縄で吊り上げました。下で結ぶ者と、上で受け取る者に分かれましてな」
屋根の上を見た。
あの高さまで、板が上がっていったのか。
首を反らすと、隣でも弟が同じように見上げていた。
「お前には、もっと高く見えるだろう」
弟がこちらを見上げる。
「……兄上にも、高く見える」
「俺は、お前より背がある」
弟はもう一度、屋根を見上げた。
父が蔵の男を呼んだ。
「中も見よう」
「こちらへ」
戸が開く。
父に続こうとしたが、男たちが板を運び出してきたので、脇へ退いた。
取り替えた古い板だった。
端が黒くなり、触れれば崩れそうなところもある。
「そこは、お触りになりませぬよう」
小十郎に言われ、伸ばしかけた手を引く。
父は供の一人と蔵へ入り、残る一人は戸口へ立った。
「ここで待っておれ。すぐに戻る」
頷いて見送る。
弟は女の隣へ戻り、通りの方を見ていた。
蔵と隣の店の間に、細い路地があった。奥に干された布の端が、風に揺れている。
「腹は減ったか」
弟がこちらを見る。
「まだです」
「俺もだ」
今度は腹も鳴らなかった。
それが少しおかしくて、弟の口元も緩む。
通りで、大きな音がした。
木が石へぶつかったような音だった。
「待て! 誰ぞ、そいつを止めてくれ!」
店の中から声が上がる。
男が一人、包みを抱えて店先へ飛び出した。
後を追う店の男が、通りへ手を伸ばす。
「物取りだ!」
小十郎が通りへ出た。蔵の戸口にいた供の者も駆け寄り、男の行く手へ回る。
男が足を止めた。
「その荷を置け」
小十郎が近づく。
男は包みを懐へ押し込み、脇に並んでいた籠をつかんで投げた。
供の者が腕を上げる。
続けて店先の品が払い落とされ、籠や桶が二人の足元へ転がった。
小十郎がそれをまたぐ間に、男が蔵の方へ駆ける。
弟がいた。
女が腕を引くより早く、男の手が伸びる。
「竺丸様!」
女の身体がよろめいた。
男の腕が、弟の胸へ回る。
小さな足が地面を離れた。
小十郎が向き直る。
男の手が腰へ動いた。
抜いたものが光る。
刀だ。
息が止まった。
「寄るな!」
刃が弟の前へ出され、小十郎が足を止める。
弟は声を出さなかった。
男の腕を両手でつかみ、こちらを見ていた。
「竺丸!」
男が弟を抱えたまま後ずさる。
店先の小さな荷車へ身体をぶつけ、押し倒した。籠が転がり、道を塞ぐ。
男は路地へ走り込んだ。
小十郎が荷車の端へ回る。供の者も駆け寄り、倒れた車へ手をかけた。
壁との間に、隙間があった。
そこへ駆け込む。
「若! お待ちを!」
背後から小十郎の声がした。
肩をすぼめて車輪の脇を抜けると、弟の姿が路地の奥へ消えた。
路地を曲がると、男が足を止めていた。
先は塀と建物の間で細くなっている。男は弟を抱えたまま身体を横へ向けたが、すぐにこちらを振り返った。
「竺丸を離せ!」
「何だ、餓鬼か」
足元に棒が転がっていた。拾い上げると、乾いた木の皮が掌へ引っかかる。
両手で握った。
男はそれを見ると、弟を壁際へ突き飛ばした。
小さな身体が倒れる。
「竺丸!」
駆け寄ろうとしたところへ、刀が向いた。
「来るな!」
足が止まる。
男が路地の入口へ目をやった。後ろから、小十郎の呼ぶ声と足音が迫っている。
刀を握る手に筋が浮いた。
「ちっ……!」
男が踏み込んでくる。
棒を突き出すと、横から刀が当たった。先が壁へぶつかり、手がしびれる。
小十郎の木剣とは違う。
目の前に、刃がある。
喉が詰まった。
男の腕が上がり、刀の先が壁をこすった。その手が引かれる。
突き出された刃を、棒で横へ払おうとした。
嫌な音とともに衝撃が走り、先が折れて落ちる。
短くなった棒を握り直す。
男が、壁際の弟をまたいで奥へ向かおうとした。
竺丸が。
棒を捨て、その帯へ手を伸ばした。
もう片方の手で衣を握り、身体を押しつける。
「放せ!」
襟を引かれ、首が締まる。
腰を落とした。足を踏み直しても、身体ごと引きずられる。
時宗丸とは違う。
指がほどけそうになり、帯を握り直した。
「この餓鬼!」
襟をつかむ手がねじれる。
腕を振り払われ、壁へ肩をぶつけた。握っていた衣が指から抜ける。
男の足が止まった。
路地の入口で、小十郎が刀を抜いていた。
「刀を捨てよ!」
男が身をひねる。
空いた手が、壁際へ伸びた。
弟が両腕を上げる。
「触るな!」
その前へ飛び込み、弟を抱え込んだ。
肩へ男の指が食い込む。
引き離されまいと背を丸めると、顔のすぐ脇で刃が光った。
「若!」
硬い音が耳元で鳴った。
小十郎の刀が、男の刃を横へ弾いていた。
続いて供の者が男へ組みつき、壁へ押さえ込む。
刀が石へ落ちた。
その音に、身体が跳ねた。
「動くな!」
男の腕が背へ回される。
まだ足をばたつかせていたが、小十郎が膝を押さえると、身体が下へ沈んだ。
息を吸った。
うまく入らない。
口を開け、もう一度吸う。
喉が痛かった。
「若」
小十郎がこちらへ膝をついた。
「お怪我は。斬られてはおりませぬか」
手が肩から腕へ下りる。
袖を持ち上げられ、初めて掌が痛いと気づいた。
木の皮がこすれたところに、血がにじんでいる。
「竺丸は」
声がかすれた。
抱えていた弟へ目を落とす。
両手を胸へ寄せ、こちらを見上げていた。
「竺丸」
そっと腕を緩め、壁へ背を預けさせた。身体を起こそうとすると膝が震え、小十郎に支えられる。
弟の隣へ座り直した。
「お前、どこか――」
腕へ触れると、弟がびくりとした。
手を止める。
弟の目が、その手へ下りた。
「兄上……」
小さな指が伸びてきた。
血のにじんだ掌の前で止まる。
「こっちは、少しだ」
反対の手を出すと、弟がその袖をつかんだ。
そのまま身を寄せてくる。
「若様!」
女が路地へ駆け込んできた。弟の前へしゃがみ、顔や腕を確かめる。
「竺丸様、お痛みはございませぬか。お顔をお見せくださいませ」
弟は女を見なかった。
こちらの袖を握り、唇を動かしている。
何も聞こえない。
顔を寄せると、短い息が頬へかかった。
「もう、あいつは来ぬ」
男の方を見ようとして、やめた。
小十郎が、こちらと男の間へ立っていた。
「ここにおれ」
弟の背へ手を回す。
衣の下で、身体が細かく震えていた。
こちらの腕も、止まらなかった。
*
路地から出ると、光がまぶしかった。
父が待っていた。
「梵天丸」
声を聞いた途端、足が止まる。
父の目が、土のついた衣から手へ動いた。
小十郎が膝をつく。
「申し訳ございませぬ。若様方を危険に――」
「あとで聞く。まず、二人を中へ」
蔵の男が戸を大きく開けた。
女が弟へ近づいたので脇へ退こうとすると、袖が引かれる。
「竺丸様、こちらへおいでくださいませ」
女が手を差し出しても、指が離れない。
父がこちらを見た。
「一緒に入れ」
頷き、弟と並んで戸をくぐる。
腰掛けを出されて座ると、小十郎が水を頼んだ。
父は弟の前へしゃがむ。
「竺丸。わしが分かるか」
弟が、わずかに頷いた。
「どこか痛むか」
返事はなかった。
女がそばから腕を示す。
「おつかまれになったところが、赤うございます。ほかは、まだ」
父が袖を上げる。
弟の腕に、指の形に赤い跡がついていた。
あれほど強く、つかまれていたのか。
父の手が背や肩を確かめても、弟は黙っていた。
袖を握る弟の方へ、少し身体を寄せた。
父が顔を上げた。
「お前は、どうだ」
「竺丸が、突き飛ばされて」
「お前の怪我を聞いておる」
掌を開く。
赤い線の間へ、土が入っていた。
父は手を取り、裏返す。
指を曲げるよう言われ、そのとおりにした。
「痛むか」
「……少し」
小十郎が水を持ってきた。
掌へかけられる。
「っ」
手を引きかけると、父が手首を支えた。
「土を落とさねばならぬ。少しこらえよ」
唇を結ぶ。
水が傷へ触れるたび、指が縮んだ。
父は急かさず、手を支えていた。
「殿」
供の者が戸口へ来た。
腰に、男の刀を差している。
「男は縛り上げました」
「番の者へ引き渡せ。店の者からも話を聞かせよ」
「はっ」
刀が見えなくなるまで、戸口を見ていた。
さっきは、あれが目の前にあった。
棒が折れた音を思い出す。
何も持っていない指へ、力が入った。
「若。こちらを」
小十郎が白い布を当てる。
その端を目で追っていると、隣から肩がぶつかった。
弟がこちらへ寄りかかっていた。
「竺丸?」
袖を握る手が、いっそう強くなる。
「兄上……」
声が震えた。
次の息が、泣き声になった。
顔が胸へ押しつけられる。
背へ手を回したが、何と言えばよいのか分からなかった。
父の手が、こちらの肩へ載る。
温かかった。
弟を抱えたまま、父の袖をつかんだ。
帰り道でも、弟は袖を離さなかった。
父は二人の脇を歩き、小十郎が少し前にいる。
道の端で男が荷を持ち上げると、弟の足が止まった。
袖が引かれる。
「荷を運んでおるだけだ」
声をかけても、動かなかった。
父が弟の前へしゃがむ。
「竺丸。抱いていこう」
腕が差し出されると、弟はようやく袖を離した。
父の肩へ顔を伏せ、両腕を首へ回す。
その下から、小さな足が揺れていた。
先ほど、男に抱えられたときも。
目をそらし、父の隣へついた。
城の門が見える頃には、掌の布が少しずれていた。
直そうと端を引く。
「若。あとで巻き直します」
小十郎の声に、手を下ろした。
*
母が廊下へ出てきた。
「竺丸!」
父へ駆け寄り、弟の顔へ手を添える。
「こちらへおいで。母ですよ」
父から受け取ろうとすると、弟が顔を上げた。
「母上……」
母の袖へ手が伸びる。
抱き移されると、その胸へしがみついた。
母は背を撫でながら、部屋へ入っていく。
父に促され、その後へ続いた。
母が弟を畳へ下ろすと、衣を握ったまま、また泣き始めた。
母が背を撫でても、弟は顔を上げなかった。泣き声の合間に息を吸い、母の衣を何度も握り直す。
「竺丸。どうしたのです」
返事の代わりに、弟の顔がいっそう深く胸へ埋まった。
母が父へ顔を向ける。
「何があったのです」
「城下で物取りに襲われた。詳しくはあとで話す。まず、二人を医師に診せる」
女が水を運び、別の女が着替えを広げた。
父は戸口で小十郎へ何か命じ、こちらへ戻ってきた。
「お前も、そこへ座れ」
母から少し離れたところへ腰を下ろす。
膝へ手を置こうとして、布を巻いた掌が衣へ引っかかった。
指を開く。
父がその隣へ座った。
ほどなく医師が入り、まず弟の身体を確かめた。
診察の間、父は母へ、梵天丸が男を追い、弟をかばっていたところへ小十郎たちが駆けつけたと伝えていた。
母は腕についた赤い跡を見るたび、眉を寄せた。
「腕だけでなく、ほかもよく診ておくれ」
「はい。順に拝見いたします」
弟は袖を脱がされるのを嫌がったが、母が声をかけ続けると、少しずつ腕を動かした。
こちらは何も言わず、待つ。
次に、医師が前へ来た。
「お手を」
巻いていた布が外される。
父に言われ、路地で肩をぶつけたことも話した。
衣をずらされ、肩や首へ触れられる。痛いところを尋ねられ、指を置くと、そこも確かめられた。
「しばらくは、稽古をお控えくださいませ」
掌へ薬が触れた。
思わず息を吸う。
弟がこちらを向いた。
「何でもない」
空いた手で衣を握り、掌を医師へ向け直した。
白い布が当てられる。
結ばれた端を眺めていると、母の声がした。
「梵天丸」
顔を上げる。
母はこちらを見ていた。
「竺丸を助けてくれたこと、礼を申します」
膝の上で、指がほどけた。
「いえ、俺は――」
「しかし、お前は伊達の跡取りなのです。危ないことは、供の者に任せなさい」
開きかけた口を閉じる。
「相手を逆上させて、竺丸まで傷つくことになったら、どうするのです」
弟は母の隣に座っていた。
腕へ布が当てられ、衣の襟も直されている。
「……はい」
巻かれた手を膝へ戻した。
「御前様」
小十郎が両手をつく。
「私どもの手が届かなかったためでございます。若は――」
「小十郎」
父が片手を上げ、こちらへ向き直った。
「供の者の制止を振り切ったことは、叱らねばならぬ。お前まで捕らわれたら、どうする」
膝の上の布を見つめる。
「……はい」
頭へ、父の手が載った。
「しかし、お前がすぐに追ったおかげで、竺丸が助かったことも確かだ」
顔を上げる。
「誇れ。お前は、弟を守ったのだぞ」
「父上……」
「これなら、伊達の先も明るいな!」
父が声を上げて笑い、頭をくしゃっと撫でた。
髪が額へ落ちてくる。
直そうと手を上げかけたが、父の手はまだ載っていた。
「……髪が乱れまする」
「殿……」
母が父を見ていた。
父は笑いを収め、頭から手を下ろす。
「うむ。まずは、休ませよう」
母は弟を抱き寄せ直す。
「竺丸も、少し横になりなさい」
弟の目がこちらへ向いた。
立とうとして、衣の裾を膝の下から引き出す。
「梵天丸」
父に呼ばれ、動きを止めた。
「お前も着替えてからだ。小十郎、頼む」
「はっ」
母へ頭を下げ、小十郎と部屋を出る。
戸口を越えると、弟の泣き声はもう聞こえなかった。
*
部屋で衣を脱ぐと、小十郎が肩のところで手を止めた。
布がこすれて痛い。
「こちらの腕から、抜きましょう」
言われるままに身体を傾ける。
新しい衣へ腕を通す間、壁へぶつかったときの音を思い出した。
弟も、あの壁へ倒れた。
「竺丸は、頭を打っておらぬか」
「医師が確かめてくださいました。今のところ、変わったご様子はないとのことでございます」
小十郎が襟を合わせる。
「あとで、もう一度診ていただきます」
頷き、帯へ手を伸ばした。
握りかけると、掌が引きつる。
「私がいたします」
帯を渡す。
いつもなら、端を持っていられる。
今日は両手を膝へ置き、結び終わるのを待った。
「若」
小十郎が前へ座り、頭を下げた。
「お守りできず、申し訳ございませぬ」
結び目から目を上げる。
「来たではないか」
「ですが――」
「刀を、止めてくれた」
小十郎の肩が動いた。
男が弟へ伸ばした手を思い出す。
あのとき、こちらには何もなかった。
棒もなかった。
膝へ置いた指を曲げる。
「……怖かったぞ」
声にすると、喉がまた詰まった。
小十郎は顔を上げ、こちらを見た。
「はい」
「小十郎と打ち合うのとは、違った」
「はい」
それ以上は、うまく言えなかった。
小十郎がそばへ座り直す。
戸の向こうで足音がして、二人で顔を向けた。
「竺丸様が」
母付きの女だった。
その後ろに、弟が立っている。
「お休みになる前に、若様のお顔をご覧になりたいと……御前様のお許しをいただいております」
弟は女の袖を握っていた。
「入れ」
声をかけると、足が一つ進む。
小十郎が脇へ退いた。
弟は前まで来て、立ち止まった。
「どうした」
目が、包まれた手へ下りる。
背へ隠しかけ、やめた。
「今、薬をつけてもらった」
弟が膝をつく。
「……僕の」
その先が聞こえず、少し顔を寄せた。
「僕のところへ、来たから」
弟の指が、自分の袖を握り込む。
傷のない手を伸ばし、その指へ触れた。
「お前が、あそこにおったからな」
弟はこちらを見た。
「今は、ここにおる」
つかんでいた袖から、指が離れる。
その手がこちらへ伸び、膝の衣へ触れた。
「少し、座っていくか」
弟が頷く。
小十郎が女へ目を向けると、女も頭を下げた。
隣へ座った弟は、まだ背を固くしていた。
庭で物音がすると、肩が跳ねる。
「小十郎」
「はい」
「戸を閉めてくれ」
戸が静かに閉まる。
弟の背へ手を置くと、少しずつ肩が下りてきた。
こちらも壁へもたれる。
隣の温かさを確かめながら、目を閉じた。
「ここまでお読みいただきありがとうございます!
評価(下の★★★★★)や一言感想、応援のブクマなど、少しでもいただけると執筆の大きな励みになります! ぜひよろしくお願いします!」




