第三話 城下へ
第三話 小十郎の教え
「梵!」
廊下から声がし、筆を止める。
戸が開き、時宗丸が顔を出した。こちらを見るなり笑ったが、机の向こうに座る先生へ気づくと、慌てて膝をつく。
「お邪魔いたします」
「これは、時宗丸様」
先生が筆を置く。
時宗丸が隣へ膝を進め、紙をのぞいた。
「まだ書いておったのか」
「今、終わるところだ」
最後の一画を引き、手本と見比べる。
少し曲がった。
筆を取り直すと、時宗丸がさらに身を寄せてきた。
「終わったのではないのか」
「あと一つだ。近寄るな、墨がつく」
今度は線をまっすぐ下ろした。
筆先を離すまで待ち、時宗丸が顔を出す。
「どちらも同じに見えるぞ」
「違う。こっちが曲がっておる」
「なら、今のも曲がっておる」
指された先を見る。
確かに、下の方が少し左へ寄っていた。
「……お前が横から話すからだ」
「俺のせいか」
もう一度、筆を墨へ戻しかける。
「若。そろそろ、おしまいになさいませ」
いつからいたのか、戸口に小十郎が立っていた。
「あと一つでよい」
「先ほどから、あと一つと申しておられますよ」
時宗丸が吹き出した。
「何だ」
「いや。俺が来る前からか」
筆を置いた。
「済んだぞ。これでよいだろう」
先生へ紙を寄せると、乾いたところから重ねてくれる。
筆を洗い、手をぬぐって立つ。
時宗丸は先に廊下へ出ていた。
「今日は、泊まるのか」
「うむ。父上が殿と話しておる」
「では、夕餉までおるな」
「泊まると言っただろう」
それもそうだ。
隣へ並ぶと、時宗丸がこちらの肩を小突いた。
「何をして遊ぶ」
「先に、庭へ行く」
「稽古か」
「小十郎が、足の運びを見ると言っておった」
時宗丸が後ろを振り返る。
「俺もやってよいか」
「ええ。ご一緒にどうぞ」
小十郎の返事に、時宗丸が足を速めた。
追いつくと、今度はこちらが前へ出る。
庭へ下りる段で肩が触れた。
「押すな」
「梵が寄ってきたのだ」
二人で下りようとして、足がぶつかる。
「お一人ずつ」
時宗丸が足を引いたので、先に段を下りる。履物へ足を入れ、庭へ出た。
振り返ると、時宗丸も履物を引っかけて追ってくる。
「俺の方が先だ」
「そんな勝負はしておらぬぞ」
庭の土は乾いていた。
稽古をする場所まで進み、履物を脱いで端へそろえた。小十郎が来るのを待ち、向かいへ立つ。
「今日は木剣を持たぬのか」
「まずは、お身体の動きを拝見します」
小十郎が向かいへしゃがんだ。
「私を押してみてください」
差し出された掌へ、両手を合わせる。
ぐっと押した。
動かない。
足を開き、もう一度力を込める。
小十郎の手が、わずかに後ろへ下がった。
押し込もうとしたところで、その掌が外れる。
「おっと」
前へのめり、慌てて足を出す。小十郎に肩をつかまれ、どうにか止まった。
「押すことばかりに気を取られますと、こうなります」
「今、手を引いたであろう」
「ええ。ずっと押し返しているとは限りませぬから」
横から時宗丸がのぞく。
「梵、転ぶところだったな」
「まだ転んでおらぬ」
「小十郎がつかまえたからだ」
「なら、お前もやってみろ」
場所を譲ると、時宗丸が掌を合わせた。
最初から腰を落としている。
小十郎が手を引いても、足を一歩出しただけで止まった。
「どうだ」
時宗丸がこちらを見る。
「俺のを見ておったからだ」
「見てはならぬとは言われておらぬぞ」
小十郎が立ち上がる。
「では、お二人で試してみましょう」
「押すのか」
「相撲なら、俺もできるぞ」
時宗丸が両腕を広げた。
「梵、やるか」
その手を払い、庭の中央へ向かう。
「泣いても知らぬぞ」
「先に言う方が泣くのだ」
小十郎が庭を見回し、端に落ちていた小石を拾った。近くの石も脇へ寄せ、土を足でならす。
「こちらでなさいませ。私が合図をいたします」
時宗丸が向かいへ立つ。
肩を回しているので、こちらも腕を曲げ伸ばしした。
木剣を持つときとは違い、両手が軽い。
時宗丸の帯を見る。あそこをつかめば、逃げられぬ。
「お顔や首へ手をかけてはなりませぬ。倒れたら、いったん離れること。よろしいですね」
「分かっておる」
「俺も」
腰を落とす。
時宗丸も膝を曲げた。
小十郎の手が、二人の間へ伸びる。
「では、始め」
踏み込み、肩をぶつける。時宗丸の腕を押し上げ、その脇から帯へ手を伸ばした。
取った。
握った帯を離さず、もう片方の手で胸元を押す。時宗丸の足が下がった。
「ほら、どうした!」
さらに一歩出ると、時宗丸が踏ん張り、押し返してくる。
帯を握る指に力を込め、肩で押した。
負けるものか。
足の指で土をつかむ。
時宗丸が横へ動く。
逃がさぬよう足を出した途端、袖を強く引かれた。踏ん張ろうとした足を払われ、身体が傾く。
「うわっ」
背中から土へ倒れ、息が詰まった。
「そこまで」
小十郎の手が間へ入る。
袖を握っていた時宗丸が手を離した。
上体を起こすと、首筋がざらついた。襟元へ土が入っている。
「勝った!」
時宗丸が両手を上げる。
「今のは、足が引っかかったのだ」
「俺の足だぞ」
「分かっておる!」
立ち上がり、背中を払う。
手が届かない。
小十郎が膝をつき、肩から土を落としてくれた。
「お痛みは」
「ない」
時宗丸は、もう元の場所へ戻っている。
「もう終わりか」
「誰が言った」
小十郎の手が離れるのを待ち、向かいへ立った。
今度は、足も見る。
帯ばかり見ていたから、足を払われるまで気づかなかった。
時宗丸が腰を落とす。
こちらも同じように構えた。
「梵、また帯を取るのか」
「取られたくなければ、逃げてみろ」
時宗丸が笑う。
今度は笑わせておかぬ。
「小十郎。もう一度だ」
「始め」
今度は、すぐに組みつかなかった。
時宗丸の足を見る。
右足が出た。
こちらも半歩下がり、その先を避ける。
もう片方が動く前に帯を取ろうとすると、肩へ両手がかかった。
「おっ」
押されて上体が起きる。
足を引いたが間に合わず、膝が土へついた。
「そこまで」
顔を上げると、時宗丸が目の前に立っていた。
「何を見ておった」
「お前の足だ」
「俺は、こっちだぞ」
自分の顔を指してくる。
その手を払い、立ち上がった。
「分かっておる。足を払われぬようにしたのだ」
「なら、押せばよいのだな」
「次は、そうはいかぬ!」
膝についた土を払う。
帯を見ると足を払われ、足を見ると上から押される。
どちらも見ろというのか。
時宗丸から少し離れ、頭から足まで眺めた。近くへ寄りすぎなければ、両方見える。
だが、こちらの手も届かない。
「若」
小十郎が隣へ来た。
「下ばかりご覧になっていては、押されるまで気づけませぬ」
「では、どこを見ればよい」
「まず、お顔を上げてみてください」
時宗丸へ向き直る。
顔を見ていても、腕が動けば分かる。足元ははっきり見えぬが、身体がどちらへ寄ったかくらいは見える。
小十郎が脇へ退いた。
腰を落とし、合図を待つ。
「始め」
時宗丸が進んできた。
肩を押される前に、その腕をつかむ。帯へ手を回して胸を合わせると、時宗丸もこちらの衣を握った。
押すと、押し返してくる。
一歩ずつ前へ出し、時宗丸を下がらせた。
その肩が、少し横へ動く。
袖を引かれたが、今度は足を踏み直した。身体が傾きかけても、倒れずに済む。
「今度は、転ばぬぞ」
帯を引き寄せると、時宗丸も足を開いて踏ん張った。
押しても動かない。引いても、ついてこない。
腕が重くなってきた。
時宗丸の顔も赤い。帯を握り直すと、向こうもこちらの衣を引き寄せた。
離すものか。
腰を落とし直したところで、小十郎の手が間へ伸びる。
「いったん、お離れください」
手を緩めると、時宗丸も帯を離し、息を吐いた。
転ばずには済んだ。だが、これでは勝てぬ。
正面から押すのではなく、横へ回れぬか。
時宗丸が衣を直すのを見ながら考えた。
「梵。少し休むか」
「お前が疲れたのか」
「俺は、まだできる」
「では、やるぞ」
向かい合うと、時宗丸が両手を広げた。
「また帯か」
「つかむところがあれば、どこでもよい」
今度は、右の袖へ手を伸ばした。
時宗丸がその手を取ろうとする。
引っ込め、横へ回ろうと左足を出した。
ところが、時宗丸も同じ方へ動いた。
肩がぶつかる。
袖をつかまれ、慌てて踏ん張った。倒れずに済んだが、背へ回るどころではない。
「梵、そっちへ行きたいのか」
押し返しても、時宗丸は足を止めない。一歩ずつ詰められ、こちらが下がる。
「行かせてやらぬぞ」
「まだ言っておらぬ!」
腕を振りほどこうとしたが、袖を握る手が離れない。もう片方の手で帯までつかまれた。
引かれると思って腰を落とすと、逆に押された。
尻が土へつく。
時宗丸は袖を離し、肩で息をした。
「言わずとも、分かる」
「なぜだ」
「先に、そっちへ足を出しただろう」
足元を見る。
手で気を引いたつもりが、行きたい方を足で教えていたのか。
立ち上がると、小十郎が手を差し出した。
「少し、お休みになりましょう」
「まだ――」
「時宗丸様も、お水を召し上がってくださいませ」
時宗丸は頷き、縁へ歩いていった。
こちらも喉が渇いていた。
後を追って腰を下ろすと、背中の衣が肌へ張りつく。さっきまでは気にならなかったのに、急に暑くなった。
女が水を運んできた。
差し出された椀を取り、水を飲む。喉を通る冷たさが心地よかった。
椀を下げると、時宗丸はまだ飲んでいた。
喉が上下するのを見ていると、こちらを向いた。
「何だ」
「お前も、息が上がっておる」
「梵が何度も来るからだ」
「もう嫌になったか」
「次も、俺が勝つぞ」
空の椀を脇へ置いた。
勝ったつもりでいる。
まだ、終わってもおらぬのに。
小十郎が手拭いを渡してくれた。首筋をぬぐい、庭を見る。
土には、二人の足跡が入り混じっていた。
横へ回ろうとしたところには、左足の跡が残っている。
右へ行くふりをして、左へ回ればどうだ。
「何か考えたな」
隣で椀を置く音がした。
「考えてはならぬのか」
「よいぞ。やってみろ」
時宗丸が先に庭へ下り、こちらへ手を振る。
手拭いを小十郎へ返して立つと、膝が少し重かった。それでも、息は整っている。
「梵、早く」
庭へ下り、向かいへ立つ。
時宗丸は腰を落とし、こちらを待ち構えていた。
伸ばしかけた手を引く。
「どうした」
「今度は、お前から来い」
「俺からでよいのか」
時宗丸が片足を引いた。
「来いと言っておる」
「後で文句を言うなよ」
小十郎の合図で、その足が土を蹴る。
伸びてきた手を取り、横へ引こうとした。
ところが、時宗丸は止まらなかった。肩へぶつかられ、つかんだ腕を引き寄せられる。
足が下がる。
もう一方の手で帯を取り、踏み直した。
時宗丸の息が頬へかかる。
「逃げるのか」
「逃げておらぬ!」
押し返したくなるのをこらえた。
時宗丸が右へ寄る。
こちらも向きを変え、胸を合わせたままついていく。
袖を引かれたが、足を出して持ちこたえた。
時宗丸の眉が寄る。
今度は左だ。
帯を引き寄せ、身体を寄せてくる。
その肩へ力を受けながら、一歩下がった。
時宗丸が追ってくる。
もう一歩下がり、足を踏ん張って腰を落とす。
「梵、押さぬのか」
返事の代わりに、少し押した。
時宗丸も押し返す。
その足が前へ出たところで、身体を横へずらした。
つかんだ袖は離さない。
時宗丸の胸が脇を通り、こちらの帯をつかんでいた手が離れた。
腕を引くと、肩が前へ傾いた。
行ける。
もう一方の手を背へ回し、押す。
時宗丸が足を出したが、その膝が土へついた。
「そこまで!」
小十郎の声で手を止める。
時宗丸は片手もつき、こちらを振り返った。
膝が、ついている。
「……勝った」
声にすると、急に息が弾んだ。
「勝ったぞ!」
袖を離し、両手を握る。
時宗丸は立ち上がりもせず、自分の膝を見ていた。
「今、横へ逃げたな」
「逃げたのではない。お前が来たのだ」
「引いたであろう」
「引いてはならぬとは、言われておらぬぞ」
時宗丸が顔を上げる。
こちらも見返すと、口を曲げた。
「それ、さっき俺が言ったことだぞ」
「今度は、俺が言う番だ」
小十郎が脇で膝をついた。
「時宗丸様、お怪我は」
「ない」
差し出された手につかまり、時宗丸が立つ。
膝を払うと、すぐにこちらへ向き直った。
「もう一度だ」
「よいぞ」
構えかけたところへ、小十郎の手が入る。
「その前に、足をご覧ください」
見下ろすと、指の間に土が詰まっていた。
それだけではない。
親指の付け根が赤くなっている。足を返すと、土を踏んでいたところが熱かった。
時宗丸も片足を上げた。
「俺もだ」
顔を見合わせる。
勝負をしている間は、まるで気づかなかった。
「本日は、ここまでにいたしましょう」
「まだ一度しか勝っておらぬ」
「俺も、負けたままでは終われぬぞ」
時宗丸も構え直した。
小十郎が立ち、二人を見比べる。
「では、明日の稽古で続きをなさいませ。時宗丸様も、お泊まりなのでしょう」
「うむ」
時宗丸がこちらを見る。
「逃げるなよ」
「お前こそ、先に帰るなよ」
小十郎に促され、並んで縁へ向かった。
歩くと、足の裏が少しひりついた。
*
足を洗って部屋へ戻る頃には、腹が鳴るほど減っていた。
小十郎が用意してくれた衣へ着替える。
帯を締め直していると、隣で時宗丸が袖へ腕を通し損ねた。
「そちらではないぞ」
「分かっておる」
衣の中で腕が動く。
出てきた手が、こちらの膝へぶつかった。
「おい」
「梵が近いのだ」
少し離れて座る。
時宗丸がようやく襟を合わせたところで、廊下から女の声がした。
「お膳をお持ちいたしました」
二人の前へ膳が置かれる。
飯から湯気が上がっていた。
手を伸ばしかけ、先に箸を取る。
「いただくぞ」
飯を口へ運ぶと、時宗丸もすぐに食べ始めた。
しばらく、椀を置く音しか聞こえなかった。
「小十郎」
「はい」
「俺が横へ回ろうとしたのは、分かっておったか」
「はい。足をお出しになる前から」
箸が止まった。
「足を出す前からか」
「時宗丸様も、お気づきでしたよ」
隣で、時宗丸がこちらを見る。
口いっぱいに飯を入れたまま、得意そうに頷いた。
「お前は食べておれ」
時宗丸が急いで飲み込む。
「梵は、手を出す前から肩が動いておった」
「足ではなかったのか」
「そっちもだ」
両方だったのか。
箸を持ったまま、肩を少し動かしてみた。
「……次は、分からぬようにする」
時宗丸が笑った。
「できるならな」
「今日も倒れたであろう」
「一度だけだぞ」
時宗丸の椀は、もう空になりかけていた。
負けじと飯をかき込もうとして、やめる。食べる速さまで競えば、腹が苦しくなる。
「小十郎、明日は相撲の後も稽古をするのか」
「お疲れの具合を拝見してからにいたしましょう」
「では、相撲で疲れぬように勝つ」
「俺もそうする」
時宗丸がすぐに言う。
小十郎は二人の椀へ目を落とした。
「まずは、よく召し上がってくださいませ」
空になりかけた椀を持ち上げ、残りの飯を口へ運ぶ。
最後の勝負では、時宗丸が押してくるのを待てた。
だが、足を下げながら、どこで引けばよいのか迷った。袖を取られていた腕も、まだ少し重い。
「小十郎。また手を押すところからやる」
「かしこまりました」
「俺もやるぞ」
時宗丸が椀を置いた。
「梵のを見てからな」
「今度は、お前が先だ!」
「では、次は時宗丸様から」
小十郎が答えると、時宗丸は口をとがらせた。
ようやく一度は勝った。
だが、小十郎の手は、押しても動かなかった。
今度は、あの手を動かしてやる。
空になった椀を膳へ戻した。
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