第二話 兄と弟
第二話 兄と弟
「今のは、受けたぞ」
梵天丸は木剣を下ろし、小十郎を見上げた。
「ええ。昨日より、早く動かれましたね」
「なら、もう一度」
「朝の稽古は、ここまでにいたしましょう」
小十郎が木剣へ手を差し出す。
渡しかけたところで、庭の入口に弟の姿が見えた。
柱のそばに立ち、後ろには母付きの女が控えている。
「竺丸様。御前様がお待ちでございます」
弟は女を見上げた。
何も言わずに歩き出したが、柱を回るところで振り返った。
目が合う。
「少し待て」
足が止まった。
小十郎へ木剣を渡し、弟のところへ向かう。
「今日はどうした」
弟は答えず、庭へ顔を向けた。
小十郎と打ち合っていたところに、まだ足跡が残っている。
「昨日も」
「昨日?」
「……木剣で、打ち合ってた」
「お前も、母上と通ったな」
頷くのを見て、額を袖でぬぐった。
衣の端をつまんだ小さな指が目に入る。
「……怖く、ないの?」
「何がだ」
「当たるの。痛そうだった」
「当たれば、痛いぞ」
掌を開いてみせる。
昨日ほどではないが、指の付け根が赤い。
弟は片方の手で、もう片方の指を包んだ。
「でも、やるの?」
「強くなければ、何も為せないからな」
弟がこちらを見上げ、首をかしげる。
その顔に、思わず口元が緩んだ。
「お前も護れないからな」
頭へ手を置き、髪をくしゃっと撫でる。
弟の肩が小さく上がった。
乱れた髪の下からこちらを見上げ、それから後ろの女を見る。
前髪を指で払ってやる。
「ひどく乱れたな」
「兄上が」
「うむ。直してやる」
今度は掌を軽く当て、横へなでつけた。
弟は動かなかった。
「これでよい」
手を引くと、弟も頭へ触れた。
「竺丸様。そろそろ、お戻りを」
女の声に、その手が下りた。
脇へ退き、道を空ける。
「俺も、母上にご挨拶していく」
女が頭を下げ、先に廊下へ上がった。
弟もその後へ続く。
小十郎から手拭いを受け取り、顔をぬぐってから二人を追った。
並ぼうとすると、弟が半歩下がる。
「隣を歩けばよい」
「兄上がお急ぎなら、先に」
「急いではおらぬ」
歩調を緩めると、ようやく隣へ並んだ。
「腹は減っておらぬか」
「食べました」
「俺も食べた。稽古をすると、また減るのだ」
「今も?」
「少しな」
弟が何か言いかけた。
「何だ」
「……何でもないです」
隣から、小さく腹の鳴る音がした。
弟が両手を腹へ当てる。
「お前もではないか」
「少しだけ」
「俺と同じだ」
弟は顔を伏せた。
先を歩いていた女が、戸口の前で振り返る。
「御前様へ、お伝えしてまいります」
女が中へ入ると、廊下の端へ寄った。
弟も立ち止まり、庭を見ている。
その先で、鳥が一羽、木の陰へ下りた。
地面をつつき、跳ねる。
「あれを見ておるのか」
弟が頷いた。
片膝をつき、隣から木の根元をのぞく。
「あそこへ、よく来るぞ。昨日もおった」
「同じ鳥?」
「そこまでは分からぬ」
鳥がもう一度、地面をつつく。
弟が身を乗り出す。
その隣で、動かずに待った。
木の上から声がした。
鳥が顔を上げ、羽を開く。
弟の指が庭へ伸びかけた。
「竺丸」
母の声に、その手が下りる。
立ち上がると、開いた戸の向こうに母が座っていた。
弟を見て、笑みを浮かべる。
「こちらへおいで」
先に部屋へ入った弟の後を追い、母の前で頭を下げた。
「顔をお上げなさい」
身を起こすと、母は弟へ手を差し伸べていた。
「そんなところにおらず、こちらへ」
弟が膝を進める。
母はその肩へ手を置き、自分のそばへ座らせた。
「昨夜は、よく眠れましたか」
「はい」
「朝餉も、残さずいただいたと聞きましたよ」
小さく頷くのを見ながら、母の前へ座り直す。
膝へ両手をそろえた。
「母上。ご機嫌ようございます」
「稽古は済んだのですか」
「はい。昨日は避けられなかったものを、今日は受けました」
母の目が、こちらの襟元へ下りる。
「汗をかいたのであれば、着替えてから参りなさい」
「……はい」
襟へ指を当てる。
首の後ろだけ、まだ湿っていた。
母は弟へ向き直った。
「どちらへ寄っていたのです」
「庭へ」
弟がこちらを見る。
「兄上と、お話しした」
襟から手を離した。
「頭も、撫でてもらった」
小さな手が髪へ触れる。
母は笑みを浮かべ、その顔をのぞき込んだ。
「あまり手を煩わせてはいけませんよ」
手が下りる。
弟は母を見上げたまま、口を閉じていた。
「……はい」
「俺が呼び止めたのです」
母は弟の肩へ手を添えた。
「それでも、竺丸が戻るのを待っていたのですよ」
戸口近くに控えていた女が、両手をついた。
「お連れするのが遅くなり、申し訳ございません」
「今後は、気をつけなさい」
女が頭を下げる。
「俺が待てと言ったのだぞ」
「はい。若様」
頭は下がったままだった。
「梵天丸。お前にも、することがありましょう」
母へ顔を戻す。
その隣で、弟は膝の上に指を重ねていた。
「……この後、手習いへ参ります」
「そうなさい」
「御前様」
廊下から、別の女が盆を持ってきた。
小さな器が二つ載っている。
「お申しつけのものを」
「そこへ置いておくれ」
母の傍らへ盆が置かれる。
器には、干した柿が切り分けてあった。
弟もそちらを見た。
「先に、筆を見せてごらんなさい。昨日は、きちんと洗いましたか」
「洗いました」
傍らの女が文箱を持ってくる。
蓋が開くと、弟が中から筆を取り出した。
母はその先を確かめ、手へ返す。
「ええ。よくできております」
弟の肩から、少し力が抜けた。
「今日は、こちらで手習いをいたしましょう。昨日のおさらいからですよ」
「はい」
女が紙と硯を並べる。
弟が筆を握ると、母の指が添えられた。
「もう少し、こちらを持ちなさい」
「ここ?」
「そうです。その方が動かしやすいでしょう」
膝に置いた自分の指を、そっと曲げた。
しばらくして、膝を引く。
「失礼いたします」
頭を下げて立ち上がると、弟がこちらを見た。
母はその手から筆を受け取り、脇へ置く。
「書く前に、少しいただきましょうか」
器が弟の前へ寄せられる。
「今?」
「手習いの後では、昼餉が入らなくなってしまいますからね」
弟は切り分けられた柿を見ていた。
「その前に、手を洗っておいでなさい」
母付きの女が近づく。
「こちらへ、竺丸様」
弟が立つと、母はもう一つの器を自分の方へ引き寄せた。
戸口の脇へ寄る。
すれ違うとき、弟の顔が少し上がった。
口を開きかけたが、何も言わずに前を向く。
「俺も、手を洗う」
女へ声をかけ、その後へ続いた。
廊下の角を曲がると、女が足を止めた。
「こちらで、少々お待ちくださいませ」
奥から水差しと鉢を運び、小さな台へ置く。
弟はその前へ進みかけ、こちらを見た。
「兄上も、戻るのですか」
「手を洗ったら、着替えに行く。母上に言われたからな」
女が鉢の位置を直す。
「若様から、どうぞ」
「竺丸が先でよい」
脇へ退くと、弟が台の前へ立った。
両手を差し出した途端、袖口が指へかかる。
「そのままでは濡れるぞ」
両方の袖口を持ち上げてやる。
弟はこちらを見てから、女を見る。
「どうした。洗わぬのか」
女が水差しを傾けた。
細く落ちる水へ、弟がおずおずと手を出す。
「兄上の邪魔をしては、いけないって」
袖を押さえたまま待つ。
「母上が。兄上は、伊達の跡取りだから」
「……」
小さな指が水の下でこすり合わされる。
洗い終えると、女が布を差し出した。
「袖を持つくらいで、手習いに遅れたりせぬ」
弟は布を受け取り、手を包んだ。
拭き終わるまで待ってから、袖を離してやる。
「……ありがとう」
「うむ。次は、先に袖を上げろ」
弟は袖口へ触れ、小さく頷いた。
場所を替わり、両袖をたくし上げる。
女にかけてもらった水が、掌へ当たった。指の付け根が少しひりつく。
手を返し、汗と土を落とした。
差し出された布で拭う間、弟は女のそばで待っていた。
「竺丸様。お戻りになりましょう」
歩き出した弟へ、台の前から声をかける。
「柿を食べる前に、また汚すなよ」
弟は自分の手を見て、両手を身体の前へそろえた。
そのまま女についていく。
角を曲がるまで見送り、布を台へ置いた。
*
部屋へ戻ると、小十郎が着替えを広げていた。
「若。こちらへ」
「待たせたか」
「いえ。今、ご用意したところでございます」
汗の残る衣を脱ぎ、新しい衣へ腕を通す。
襟を合わせていると、小十郎が背へ回り、肩に寄った布を整えた。
「稽古の話もしたのだぞ。今日は受けたと」
「……御前様は、何と?」
「……汗をかいたのであれば、着替えてから参れと」
首の後ろへ触れる。
さっきまで湿っていたところは、もう乾いていた。
帯を取り、腰へ回す。
「……次は、一本取ったと話す」
「それは、私もうかうかしておれませぬな」
小十郎へ帯の端を渡した。
「そうだぞ。明日は、今日のようにはいかぬ」
結び目が整うのを待ちながら、袖口を持ち上げる。
「手を洗うとき、ここが落ちてこぬようにできるか」
「袖を帯へ挟んでおけばよろしいかと」
片方を挟んでみる。
手を下ろしても、袖口は上がったままだった。
「竺丸にも教えてやれ。さっき、袖を濡らしかけておった」
「承知しました」
袖を抜き、両腕を下ろす。
「これでよいか」
「はい。先生のところへ参りましょう」
廊下へ出ると、母の部屋の方から女の声が聞こえた。
竺丸は、もう柿を食べておるだろうか。
隣で腹の鳴った弟を思い出す。
俺も、腹が減っておるのだが。
「小十郎。昼餉まで、どれくらいだ」
「まだ、間がございます」
腹へ手を当てる。
今朝は確かに食べたのに、稽古をすると、すぐこれだ。
「昼餉は、多めにしてもらおう」
「台所へ申し伝えておきます」
頷き、先生の部屋へ足を向ける。
先へ出ると、小十郎も後に続いた。
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