↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
独眼竜覇道録―早く生まれた龍は、天下を望む―  作者: レイン
第一節 幼年期

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/8

第一話 梵天丸

第一話 梵天丸


 天文(てんぶん)十六年(一五四七年)。


「梵天丸(ぼんてんまる)。もう少し、こちらへ来い」


 父に呼ばれ、梵天丸は膝を進めた。


 部屋には、朝から家臣たちが集まっていた。父の前に座る年寄りも、その隣の男も、こちらへ顔を向ける。


 父の脇まで来て座ると、膝の間から衣の裾がはみ出した。


 引き入れようとして、指が帯へ引っかかる。


「そう急がずともよい」


 父が裾の端を直してくれた。


「自分でできます」

「うむ。では、残りは任せる」


 手が離れる。


 梵天丸は反対側も整え、背を伸ばした。


 年寄りが目を細める。


「若様も、今年で八つになられましたか」

「うむ。八つになった」

「早いものでございますな。ついこの間まで、殿の膝へ乗っておいでだった」

「今は乗っておらぬぞ」

「ええ。今日は、お隣でございます」


 梵天丸は父を見た。


 父は何も言わず、家臣から差し出された紙を開いている。


 紙には幾筋もの線が引かれ、その間へ小さな字が書き込まれていた。


「去年直した水路でございます」


 一人が指を置く。


 父が身を寄せたので、梵天丸も少し前へ傾いた。


 指の下で、太い線が曲がっている。


「今年も、水は通っておるか」

「はい。ただ、下の村からも人を出してほしいと。こちらばかり働かされると申す者がおりまして」

「去年は、何人ずつ出した」

「その数を、今調べさせております」

「そろえてから、もう一度聞こう」


 男が頭を下げる。


 父は紙を畳まず、次の者へ顔を向けた。


 梵天丸は、さっきの線へ目を戻す。


 曲がった先に、小さな四角が幾つも並んでいた。


 村だろうか。


 端の字を読もうとしたが、父の膝に隠れて見えない。


 もう少し寄ると、父が紙をこちらへ回した。


「見えるか」

「はい」


 線は見える。


 字は、まだ読めなかった。


 紙の端を見つめたまま、座り直す。


 別の家臣が、蔵のことを話し始めた。


 屋根板を替えるという。


 板を運ぶ者と、仕事をする者の名が続く。梵天丸の知っている名もあった。


 厩(うまや)へ行くと、いつも馬の鼻先を押さえている男だ。


 あの男は、屋根にも上るのか。


「父上。俺も見に行きたいです」


 父がこちらを向いた。


「蔵へか」

「はい。屋根板を替えるところを」

「作業をしている間は、近寄らせぬ」

「見るだけです」

「上から板が落ちてきても、見るだけで済むか」


 口を閉じる。


 父は紙の上へ手を置いた。


「作業が終わったら見に行こう。お前も連れていく」

「……約束です」

「うむ」


 年寄りが、父と梵天丸を見比べている。


「殿も、何か始めるたびに見に来られましたな」

「今も見に行っておる」

「昔は、仕事が済むまで待ってくださいませなんだ」


 父が年寄りを見る。


「父上も?」

「若様より、ずっと大きくなられてからのお話でございます」


 父が畳んだ紙で、年寄りの前を軽く指した。


「その話は、もうよい」

「では、蔵が直った折にでも」


 蔵が直ったら、忘れずに聞こう。


 やがて、話を終えた家臣たちが紙を片づけ始めた。


 父が立つのかと思い、梵天丸も膝へ手をつく。


 だが、父はまだ座っていた。


「足がしびれたか」

「しびれておりませぬ」

「そうか。わしは、少ししびれた」


 父が片膝を崩す。


 梵天丸も、衣の下で足の指を動かした。


 年寄りがこちらへ向き直った。


「若様。殿のおそばで、よくご覧になっておいてくださいませ」


 先ほどまでとは違う声だった。


 動かしていた足の指を止める。


「いずれは、若様にお仕えするのでございますから」


 家臣たちの顔が、こちらへ向いた。


 梵天丸は背を伸ばした。


「うむ」


 返事が少し大きくなった。


 年寄りが頭を下げると、ほかの者たちも続いた。


 父が頷くと、梵天丸も家臣たちへ向き直った。


「では、わしは先に参ります」


 年寄りが立ち、ほかの者たちも部屋を出ていく。


 最後の一人を見送るまで、梵天丸は背を伸ばしていた。


 戸が閉まる。


 父がこちらへ手を伸ばした。


「何ですか」

「肩が上がっておる」


 両肩を押され、梵天丸は息を吐いた。


「父上は、皆の話が分かるのですか」

「分からぬことは、聞いておる」

「俺は、少ししか分かりませぬ」

「初めて聞いたのだろう。次に聞けば、今日より分かる」


 梵天丸は父の脇に残った紙を見た。


 父が一枚、広げてくれる。


 水の道が曲がり、村らしい印へ続いていた。


「ここの字も、読めませぬ」


 指を置くと、父は紙へ目を落とした。


「では、今日の手習いで聞いてこい」

「これは、持っていっても?」

「返してもらうぞ」


 梵天丸は両手で受け取った。


 折り目に沿って畳み、膝の上へ置く。


「この字が読めるようになったら、また皆の話を聞いてもよいですか」

「勉学も稽古(けいこ)も、おろそかにせぬならな」


 梵天丸は頷いた。


「では、また来ます」


 立ち上がろうとすると、足の裏がじんとした。


 片足へ体重を移したところで、父の手が肘を支える。


「しびれておらぬのではなかったか」

「……今、しびれました」


 父は手を離さず、梵天丸が足を踏み直すのを待った。


 戸口へ向かう頃には、もう一人で歩けた。


 廊下には、小十郎が控えている。


「若、お済みですか」

「うむ。今日は、これも読む」


 持っていた紙を掲げた。


 小十郎が受け取ろうとしたので、胸元へ引く。


「俺が持つ。父上から預かったのだ」


 小十郎は手を下ろした。


「では、先生のところへ参りましょう」


 梵天丸は紙を持ち直し、小十郎と並んで歩き出した。


     *


 先生の前へ、父から借りた紙を広げる。


「今日は、これを読みたい」


 先生は筆を置き、梵天丸の指したところへ顔を寄せた。


「堰、でございます」

「せき」

「水をせき止め、流す方を変えるところです。こちらの線が、水路でしょう」


 太い線から、細い線が二つに分かれていた。


 父と家臣が指していたのは、この辺りだ。


 梵天丸は紙を回し、線の先をたどった。


「この四角は、村か」

「ええ。脇に村の名が書いてあります」


 先生が一つずつ読んでくれる。


 聞いたことのある名が出たので、梵天丸は顔を上げた。


「ここへ、父上と馬で行ったことがある。川の脇を通った」


 紙へ目を戻す。


 馬の背から見た川は、もっと広かった。


 梵天丸は、さっき教わった字へ指を置いた。


「これを書いてくれ」


 先生が別の紙を寄せる。


 筆先から、ゆっくりと字が現れた。


 梵天丸も筆を取った。


 借りた紙を脇へ避け、手本の隣へ書く。


 土のところは書けた。


 右側へ進むと、線が一つ、隣へくっついてしまった。


 筆を止める。


 先生の字と見比べ、下へもう一度書いた。


「こちらは、読めますね」


 筆先を持ち上げたまま、先生を見る。


「最初に書いた字も、読めぬことはないだろう」

「何と書いたか、知っておりますので」


 最初に書いた字を見下ろした。


 くっついたところが、黒い塊になっている。


 その隣へ、もう一字書いた。


 今度は、間を空ける。


「……よし」


 筆を置き、三つを並べて眺めた。


 先生の字に一番近いものを選び、指で示す。


「父上には、これを見せる」

「墨が乾いてから、お持ちください」


 梵天丸は頷き、筆を取り直した。


 次は、村の名だ。


 読んでもらった名を口の中で繰り返しながら、一字ずつ写していく。


 途中で筆先が割れた。


 硯(すずり)へ戻し、墨を含ませる。


 縁に沿って整えていると、彫られた葉の形が目に入った。


 いつもの硯にはないものだ。


 筆を置き、指先でなぞる。


「これ、替えたのか」

「昨日、殿からお預かりしました。唐(から)から舟で運ばれてきたものだそうです」


 梵天丸は硯の脇へ両手を添え、少し持ち上げた。


 黒く見えた石が、窓の明かりでは紫がかっている。


 彫られた葉は薄く、指の腹に筋まで触れた。


「作った者も、来たのか」

「そこまでは、私も存じませぬ」


 硯を下ろすと、墨が揺れた。


 こぼれないのを確かめてから、もう一度、葉の先へ触れる。


「こんな重いものまで、海を渡ってくるのだな」


 机の上にある父の紙へ目が向いた。


 川も水路も、端で切れている。


 その先を見ようと紙を引き寄せかけ、墨のついた指に気づいた。


「拭くものをくれ」

「こちらを」


 小十郎から布を受け取り、指先をぬぐった。


 黒い跡が残る。


 もう一度こすってから、紙の端を持った。


「海まで描いたものも、あるか」


 先生は紙をのぞき込んだ。


「この絵図(えず)には、ございません。殿にお尋ねになってはいかがでしょう」

「うむ。返すときに聞く」


 紙を畳みかけ、脇に置いた自分の字を見た。


 堰。


 絵図を広げ直す。


「まだ、ここを読んでおらぬ」


 最後の村の名へ指を置いた。


 先生が手本の紙を寄せ直した。


 書き終える頃には、窓から差す日が机の端まで動いていた。


 筆を洗い、小十郎の差し出した布で手をぬぐった。


 指の脇だけ、まだ黒い。


「これくらいならよい」

「お顔へ触らなければ」


 梵天丸は上げかけた手を下ろした。


 先生が、乾いた紙を並べてくれる。


 最初に書いた字から、最後の村の名まで。


 一枚を選ぼうとして、手を止めた。


「全部、持っていく」

「最初に書いたものもですか」

「最後の方が、よくなったと分かるだろう」


 先生は紙を重ね、借りた絵図とは別に畳んだ。


 両方を受け取り、立ち上がる。


 先生が硯の縁をぬぐっていた。


「その硯は、また使ってよいか」

「ええ。次もご用意しておきます」


 梵天丸は頷き、部屋を出た。


 小十郎が隣へ並ぶ。


「若。お昼の後は、庭へおいでください」

「今日は、打ち合うのか」

「その前に、構えを見せていただきます」

「構えなら、もうできる」

「では、すぐに済みますね」


 梵天丸は小十郎を見上げた。


 涼しい顔で、前を向いている。


「見て驚くなよ」

「楽しみにしております」


 廊下の先から、家臣の話し声が聞こえた。


 父の部屋の戸は、まだ開いている。


 梵天丸は紙を持ち直し、そちらへ足を向けた。


 父は、家臣の持ってきた紙を読んでいた。


 梵天丸は戸口で待ち、家臣が下がってから中へ入る。


「父上。お返しいたします」


 借りた絵図を差し出すと、父が手を伸ばした。


「読めたか」

「はい。ここと、ここの村の名も」


 指したところを、順に読む。


 父は絵図へ目を落としたまま聞いていた。


「うむ。合っておる」


 梵天丸は、もう一つの紙を広げた。


「その字を、実際に書いてみました」


 父の前へ並べる。


 三つの堰の字を見て、父の指が最後のものへ置かれた。


「これが一番よいな」

「俺も、そう思います」


 梵天丸は父の隣へ膝を寄せた。


「先生の硯は、唐から舟で来たそうです。海まで描いた絵図は、ありませんか」


 父が顔を上げた。


「川の先を見たいのです」


 畳みかけていた絵図を開き、端で切れた線を示す。


 父はその指先を見てから、部屋の隅へ目を向けた。文箱(ふばこ)が幾つか重なっている。


「ここにあるのは、領内のものだな」


 梵天丸も文箱を見る。


 父は絵図を引き寄せた。


「商人に聞いてみよう。海を渡った者なら、持っておるかもしれぬ」

「俺も、聞きたいです」

「来た折にはな」


 梵天丸は自分の紙を畳んだ。


 絵図は父の前へ残す。


「では、午後は小十郎と稽古をしてまいります」

「うむ。励め」


 頭を下げ、部屋を出た。


 廊下で待っていた小十郎へ、自分の書いた紙を見せる。


「父上も、これが一番よいと言った」

「ええ。線が離れていて、よく読めます」

「……最初に書いたのも、あと少しでうまく書けたのに」


 小十郎の指が、黒くなったところの手前で止まった。


「次は、こちらも離して書けそうですね」

「書ける」


 梵天丸は紙を閉じた。


     *


 昼餉(ひるげ)を済ませて庭へ出ると、小十郎が二本の木剣(ぼっけん)を持っていた。


 短い方を受け取り、両手で握る。


 足を開き、正面へ向けた。


 小十郎が向かいへ立つ。


「肘を、少し緩めてください」

「こうか」


 直すと、小十郎が頷いた。


「では、打っておいでください」


 息を止め、踏み込む。


 振り下ろした木剣が、硬い音とともに止まる。


 もう一度。


 今度は横から胴へ向ける。


 小十郎の木剣が下り、また受け止められる。


 そのまま押し込む。


 腕に力を込めるほど、柄(つか)が掌(てのひら)へ食い込む。


「若。足が止まっておりますよ」


 足を出そうとした途端、小十郎が脇へ動く。


 木剣だけが前へ出る。


 崩れかけた身体を踏ん張って支えると、脇腹へ、こつんと木が触れる。


「一本」


 梵天丸は息を吐いた。


「まだだ」

「はい。構え直してください」


 土を踏み、向かい合う。


 小十郎が木剣を正面へ構える。


 今度は押さない。


 腕の動きを見つつ、一歩前へ出る。


 木剣が上がり、胴が空く。


 そのまま踏み込むと、剣先が衣へ当たる。


 小十郎の木剣は、まだ頭の上にある。


「一本です。よく踏み込めましたね」


 梵天丸は自分の木剣を見た。


 それから、小十郎の手元を見る。


「……今、受けられたであろう」


 小十郎が木剣を下ろした。


「若が打つところを、見ておりました」

「手加減するな!」


 声が庭へ響いた。


 柄を握り締める。


「そんな一本、いらぬ!」


 小十郎は梵天丸を見た。


 やがて足を引き、木剣を構え直す。


「では、今度はこちらから参ります」


 梵天丸も両手へ力を込める。


 来る。


 受けようと木剣を上げると、小十郎の剣先がその下へ回る。


 腹へ、軽く一打。


「一本」


 上げた木剣が、頭の横に残っている。


「もう一度だ!」


 足を引き、構え直す。


 今度は、小十郎の木剣から目を離さない。


 小十郎が踏み込む。


 半歩退く。


 届かぬはずの木剣が、伸びてくる。


 慌てて受けると、鈍い音が鳴り、手がしびれる。


 押し返す前に脇へ回られ、胴を打たれる。


「一本」

「まだ!」


 小十郎が離れる。


 足元を見ると、退いた跡が土に残っている。


 こちらが退くより、小十郎が出てくる方が大きい。


 握り直し、前を向く。


 また、小十郎が進んでくる。


 今度は後ろへ退かず、脇へ足を出す。


 木剣が衣の前を通る。


 避けた。


 打ち返そうとすると、小十郎はもう向きを変えている。


 胴へ、こつんと触れる。


「……またか」


 腕を下ろしかけ、持ち上げ直す。


 廊下の向こうに、母がいた。


 その少し後ろで、竺丸(じくまる)が庭を見ている。


 目が合った。


 弟は何も言わなかった。


「竺丸、行きますよ」


 母が声をかける。


 竺丸はそちらを向き、後をついていった。


 弟を見送ってから、小十郎へ木剣を向け直す。


「もう一度だ」


 小十郎が構える。


 次は、避けたときに打つ。


 腰を落とし、踏み込みを待つ。


 何度打ち込んだか、途中で分からなくなった。


 衣が背中へ張りつき、息をするたび、胸元が動く。


 木剣を向け直すと、剣先が少し揺れた。


「今日は、ここまでにしましょう」

「まだやれる!」

「続きは、明日です」


 柄を握り締め、小十郎をにらむ。


 小十郎は木剣を下ろしている。


 しばらく待っても、構えなかった。


「……明日は、先に当てる」

「お待ちしております」


 差し出された手へ、木剣を渡した。


 小十郎が二本を脇へ寄せ、手拭いを取りに縁へ向かう。


 梵天丸は額を袖でぬぐい、自分の手を開く。


 掌が赤い。


 指を曲げると、まだ木剣の柄を握っているようだった。


「若」


 小十郎が手拭いを差し出す。


 受け取りながら、その腕を見る。


「お前は、疲れぬのか」

「疲れますよ」

「そうは見えぬ」


 小十郎の襟元にも、汗がにじんでいた。


 口元が緩み、手拭いで顔をぬぐう。


「明日も、今日のようにやれ」

「ええ」


 小十郎が木剣を持ち上げた。


 明日は、避けるだけで終わらぬ。


 縁へ腰を下ろし、庭に残った足跡を見つめた。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。