プロローグ
プロローグ
今川の旗が倒れた。
白い旗が兵の頭を越えて傾き、その下にいた者たちが散った。逃げる背へ別の兵がぶつかり、二人まとめて泥の上へ転がる。
その向こうから、織田の旗が迫っていた。
「……本当に、やりやがった」
政宗は馬上で身を乗り出した。
濡れた枝が肩に触れ、雫が袖を伝う。先ほどまで地面を叩いていた雨は弱まっていたが、木立の下は薄暗く、馬の脚は泥に沈んでいる。
森の外では、声が重なっていた。
押せ。
退くな。
誰か、そこを止めろ。
命じる声は聞こえるのに、今川の兵は同じ方へ動かなかった。踏みとどまる者の肩へ、逃げてきた味方がぶつかる。構えた槍の前へ背中が入り、穂先が空を向いた。
「小十郎、見たか」
「見ております」
「打って出たぞ、あの男」
小十郎は陣の奥を見ていた。
織田勢は左手から押し込んでいる。今川兵は右へ逃れようとしていたが、引き出された馬と荷に道を塞がれ、流れが詰まっていた。
その背後に、まだ槍をそろえている一団がある。
森から続く坂道は、その一団の右脇へ下りていた。坂の先には荷が並び、木立との間に空き地が残っている。
「あそこだな」
「大将がいるなら、あの中でしょう。ただ、今のままでは槍に止められます」
周囲が逃げても、あの一団は崩れていない。織田へ槍を向けながら、森へ続く道にも兵を置いている。
こちらが下りれば、すぐに向き直れる構えだった。
「いつまで持つかな」
「持たせる者がいるのでしょう」
「義元か」
「確かめるには、少々遠うございます」
小十郎の声は落ち着いていた。
政宗は刀の柄へ手を置いた。
「兄上」
右隣から、小次郎が足元を指した。
「馬が困ってる」
見れば、踵が馬の腹へ寄っていた。進めと促されながら手綱を引かれ、馬が首を振っている。
足を離した。
「気の早い馬だ」
「乗ってる人に似たんだろうね」
「お前の馬も前へ出ているぞ」
「兄上が走ったら、追わないといけないから」
「なら、よく見ておけ」
「見てるよ。景綱さんが止めるところまで」
小十郎が、ようやくこちらを見た。
政宗は咳払いをして、陣へ向き直った。
背後の木立には、兵が控えている。
槍を伏せ、雨を吸った衣をまとい、こちらの合図を待っていた。馬の口を押さえる手と、泥の中で踏み直す足だけが動いている。
少ない。
陣に並ぶ今川の旗を見たあとでは、なおさらそう思えた。
大勢では関を抜けられず、間に合わない。人数を削り、分かれて道を越え、ようやくここへ集まった。
尾張へ入ってからも根の者を走らせ、今川の本隊を追った。この森へ潜んだのは今日のことだ。
信長が出なければ退くと、小十郎には答えていた。
だが、ここまで来て、ただ眺めて帰れるものか。
木々の間で枝が鳴った。
一人の男が幹へ手をつき、身体を滑らせるように下りてくる。馬の前へ膝をついたとき、片方の草鞋が泥に残った。
鼻緒が切れていた。
「奥の一団に、大将と思しき者がおります」
「顔は」
「近くまでは寄れませぬ。ですが、馬を連れた者がそばを離れず、伝令もそこへ集まっております」
「森の出口は」
小十郎が尋ねた。
「二人、見張りがおります。まだ我らには気づいておりませぬ。坂を下りれば、あの俵のそばへ出られます。帰りも同じ道を使えます」
男の指す先には、荷の列から少し離れて積まれた俵があった。その周りを歩く兵の姿も見える。
小十郎は近くの兵を二人呼んだ。
「途中まで案内してください。この者たちを道の脇へ残します」
男が立ちかける。
「その前に、履き替えを」
替えの草鞋が差し出された。
男は短く礼を言い、泥のついた足を拭う。政宗はその手元から、すぐ陣へ目を戻した。
織田の旗が進んでいた。
先ほど今川の旗が倒れた場所を越え、踏みとどまる兵へ迫っている。奥から駆けつけた槍兵が、その前へ割って入った。
織田の先頭が止まる。
そこで退けば、今川は立て直せる。
そう思ったとき、別の一隊が横から入った。押し返そうとしていた今川兵の脇へ槍が伸び、列が折れる。
「うまい」
口から漏れた。
うつけと呼ばれた男が、今川方の砦を落とし、同族を破った。その報せを追ってきた。
だが、目の前の戦は、聞くのとは違った。
今川の兵が向き直るより早く、織田の兵が次の一団へ入っていく。いったん押し返されても、別の場所から声が上がった。
どこに、これだけの勢いを隠していた。
政宗は奥の一団を見た。
信長が崩した今なら、届く。
義元の首を取れば、伊達の名は尾張にも京にも知れるだろう。近隣の諸侯も、これまでと同じ顔では伊達の使者を迎えられまい。
口添えを頼んでも会おうとしなかった相手が、今度は向こうから使者を寄越すかもしれない。
その顔を思い浮かべ、頬が緩んだ。
左手で、ひときわ大きな鬨の声が上がった。
織田を受け止めていた槍の列が、奥へ押し戻されている。
森への道を守っていた兵に、誰かが手を振った。
数人が駆け、さらに数人が続く。
俵の周りにいた者も、槍を持って走り出した。
「小十郎」
「今なら、脇へ入れます」
返事は早かった。
下り口の脇で手が上がり、すぐに消える。残す兵が位置についた合図だった。
「俵のそばでそろえます。織田勢がこちらへ回ったら、退きましょう」
「分かった。そのときは知らせろ」
小十郎が頷いた。
「小次郎、後ろを頼む」
「任せて。兄上も、俵のところで待つんだよ」
「聞こえている」
「うん。返事も聞いた」
政宗は刀を抜いた。
弟が笑うのをやめ、小十郎が馬首を坂道へ向ける。
後ろで兵が腰を起こした。
「出るぞ」
馬の腹を蹴った。
低い枝が兜を擦り、葉から落ちた水が頬を打つ。道が傾くにつれ、馬の歩みが速くなった。
泥へ脚が沈み、身体が前へ揺れる。腰を落として手綱を緩めると、馬は踏み直して下った。
背後から蹄の音が続く。
小次郎が兵へ間を詰めるよう声をかけていた。
森が切れた。
見張りの一人が振り向く。
「敵だ!」
叫ぶなり槍を構え、もう一人が陣へ駆けた。
政宗は刀を掲げた。
「今川は総崩れだ! 俺に続け! 義元の首はそこだ!!」
背後から鬨の声が上がった。
突き出された槍を刀で払い、馬を左へ寄せた。小十郎が続き、穂先が戻る前に兵が押し寄せる。
金属が触れる音がした。
振り返らず、木立に沿って駆ける。
俵のそばに残っていた今川兵が槍を向けたが、続く伊達の槍に押され、荷の方へ下がった。
政宗は俵を回り、空き地で馬を抑えた。
荷の向こうから、今川兵が怒鳴っている。こちらへ来ようとしても、積まれた荷に阻まれ、列の端へ回らなければならない。
「兄上!」
小次郎が追いついた。
その後ろから兵が来る。一人が足を滑らせたが、隣の者が腕をつかみ、引き起こした。
最後の者も俵を越えた。
小十郎が兵を左へ回そうとしたとき、荷の切れ目の向こうに馬が見えた。
供回りが一人の男へ寄せ、鐙を押さえている。
逃げる。
今なら、まだ届く。
「左を固めます」
「頼む。俺は先へ出る」
荷を回ってくる敵は、まだ一列になっていない。奥から駆けつける者と、逃げ込む味方を押し返す者が、列の端で詰まっていた。
政宗は刀を上げた。
「行くぞ!」
「続け!」
小次郎の声が重なった。
馬を進め、荷の列に沿って駆ける。
こちらへ回り込んできた兵が、槍を突き出した。政宗が馬を木立側へ寄せると、小十郎の刀が、その柄を打った。
「政宗様、右へ!」
声に従って馬を寄せ、荷の列の端へ出た。
供回りの姿が見えた。
槍を持つ者が数人、こちらへ駆けてくる。馬を寄せられていた男は、その後ろにいる。まだ刃の届く距離ではなかったが、顔は見えた。
伝令が何か告げ、返事を待っている。
男は馬に乗ろうとしなかった。
義元か。
刀を握る手に力が入った。
信長が開けた道だろうと、構うものか。
その首は、俺がもらう。
男が顔を上げた。
織田勢のいる方ではない。
こちらを見ていた。
逃げる兵の間で、目が合った。
一人の背が横切り、その顔を隠す。
再び見えた口元が、わずかに上がっていた。
「……嗤った?」
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