第四話 嫁いできた姫
第四話 嫁いできた姫
初夏、愛姫を迎える朝になった。廊下を行き来する者の足が絶えなかった。
庭へ向いた戸も開け放たれ、いつもは誰も立たぬところに、家臣が一人控えている。
小十郎に衣を整えてもらいながら、戸口に控える家臣を見た。
「若。少し、顎をお上げくださいませ」
顔を戻すと、襟元へ指が入った。
袖を下ろし、膝へ手を置く。立っている間はよかったのに、座ると帯の辺りが気になった。
「きつくはございませぬか」
「いや」
もう一度、戸口を見る。
先ほどの家臣は、そのまま立っていた。
「まだか」
「お着きになりましたら、知らせが参ります」
小十郎が畳へ広がった袖を直した。
机の文箱へ目を向ける。姫から届いた文と、菫を挟んだ紙は、その中に入れてある。
どの歌を好むかも、三春の庭に何があるかも、前より知っている。
だが、声はまだ聞いたことがない。
「若」
呼ばれ、顔を上げた。
「殿のところへ参りましょう」
「うむ」
立ち上がると、小十郎が先に戸口へ寄った。その脇を通り、廊下へ出る。
曲がり角に、竺丸がいた。
いつもより改まった衣を着て、母付きの女と並んで待っている。
「兄上」
一歩近づき、足を止めた。
「姫は、もうお着きですか」
「まだ知らせはない。俺も、父上のところへ行く」
「ご一緒してもよろしいですか」
「うむ」
竺丸が隣へ来る。
歩き始めると、袖へ目を落とした。
「何だ」
「いつもの衣と違うので」
「お前もだろう」
竺丸は自分の袖を見た後、袖へ手を伸ばしかけ、腕を下ろした。
「裾を踏むなよ」
「兄上こそ」
顔を見ると、少しだけ口元が緩んでいた。
父の部屋へ着くと、基信が報告をしているところだった。
頭を下げて座る。父は話を聞き終えてから、顔を向けた。
「落ち着かぬか」
「いえ」
父の目が、膝へ置いた手へ下りる。
握っていた指を開いた。
「長い道を来られる。着かれたら、まずは休んでいただくぞ」
「はい」
「お前が話したいことは、その後だ」
基信にも見られ、背を伸ばした。
「承知しております」
廊下から足音が近づいた。
戸口で膝をついた男が、頭を下げる。
「姫様のお輿が、お着きにございます」
隣で竺丸が身を起こした。
立ちかけ、父が動くのを見てから両手をついた。
*
父と母への挨拶を終えた姫が、向き直った。
畳へ両手がそろう。袖の端から細い指が見えた。
「愛にございます」
声は、思っていたよりはっきりしていた。
「末永く、よろしくお願い申し上げます」
頭が下がる。
両手をつき、頭を下げた。
「藤次郎政宗にございます。こちらこそ、よろしく頼みます」
顔を上げる時が重なり、目が合った。
姫はすぐに目を伏せた。膝に置いた手へ力が入り、指をほどいた。
父が三春から供をしてきた者へ声をかける。道中の話になり、川を渡る折に雨を待ったと聞こえた。
姫の後ろには、年かさの女が控えていた。姿勢を崩さず、父の問いへ丁寧に答えている。
姫も背を伸ばしたままだった。
膝へ重ねた手が、袖の下で動く。長く座って疲れたのだろうかと思ったが、顔をのぞくわけにもいかず、父へ向き直った。
「竺丸」
母に呼ばれ、隣にいた竺丸が進み出た。
「弟の竺丸にございます。よろしくお願い申し上げます」
姫が頭を下げる。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
竺丸は身を起こすと、一度目を合わせた。
何か続けるかと思ったが、両手を膝へ戻し、元の場所へ下がった。
姫の目が、その背を追う。
目が合うと、わずかに微笑んだ。
「弟君も、ご一緒にお庭へ出られると、文で伺いました」
「はい。池のそばで、よく遊んでおります」
竺丸の肩が少し動いた。
「桜は、もう散ってしまいましたが」
「ええ。こちらへ参る道でも、葉が出ておりました」
姫が庭へ目を向ける。
開いた戸の先には、池の端の木が見えていた。
「あの木でしょうか」
「そうです。もっと近くで見れば、池にも枝が映ります」
先日、向こう岸まで回って確かめた眺めを思い浮かべた。
姫が顔を上げる。
「では、後ほど拝見してもよろしいでしょうか」
「もちろんです。今からでも――」
膝へ手をついたところで、父が目を向けた。
休んでいただくのであった。
「……お疲れが取れてから、ご案内いたします」
手を戻すと、姫も膝へ置いた指をそろえた。
「ありがとうございます」
後ろの女が、静かに頭を下げた。
挨拶が済み、姫が部屋を移ることになった。
立ち上がるとき、衣の裾が膝の下へ残ったらしい。傍らの女が手を添えるより先に、姫がそっと引き出した。
立って、通る場所を空ける。
戸口へ向かう前に、姫が振り返った。
「お文を、ありがとうございました」
「こちらこそ。菫も、まだ色が残っております」
姫が顔を向け直した。
「お持ちくださっているのですか」
「はい。文箱に」
「庭のお話をいただいたので、三春の花もお見せしたくて」
「では、庭の菫もご覧ください。まだ咲いております」
続けて何か言おうとしたが、女が戸口で待っていたので、頭を下げて見送った。
衣の裾が廊下の角へ消える。
その後も戸口を見ていると、脇から竺丸の声がした。
「兄上。お庭へ出るときは、僕にもお声をかけてください」
「うむ。一緒に案内するのであったな」
竺丸が頷いた。姫の出ていった戸口へ目を向けたが、すぐに庭へ戻した。
*
部屋へ戻ると、机の上に文箱があった。
蓋を開け、菫の紙を取り出す。そっと広げると、平たくなった花びらが見えた。
「お話は、できましたか」
小十郎が向かいへ座った。
「少しだ」
「左様でございますか」
「文の方が、よほど話せる」
小十郎の目元が緩んだ。
「お目にかかるのは、本日が初めてでございますゆえ」
紙を閉じ、文箱へ戻す。
庭の案内なら、もう少し話せるだろう。木の名も、池の深いところも知っている。
「お休みになった後、庭へ出られるようなら知らせてほしいと、お付きの方へ伝えてくれ」
「承知いたしました」
小十郎が立つと、つられて腰を浮かせた。戸口で振り返られ、座り直す。
「俺は、ここで待つ」
「はい」
戸が閉まると、部屋が静かになった。
文箱の蓋へ手を置き、庭を見た。池の方から風が入り、袖口が揺れる。
やがて戻ってきた小十郎は、戸口で頭を下げた。
「姫様も、お庭を見たいとのことでございます。お休みの後、庭へ出られるようでしたら、若へお知らせするとのことでございます」
「そうか」
今度は、待っていればよい。
机の脇へ置いてあった書物を開いた。
二行ほど読んで、同じところへ目を戻す。廊下で足音がするたびに、顔を上げてしまった。
姫の支度が整ったと知らせが来ると、書物を閉じた。
小十郎へ竺丸を呼ぶよう頼み、廊下へ出る。庭へ下りる段の前で待っていると、奥から衣の擦れる音がした。
姫は、先ほどより袖の短い衣へ着替えていた。後ろには、挨拶の席にもいた女がついている。
「お待たせいたしました」
「いえ。竺丸も、すぐに参ります」
姫が頷いた。
何か話そうと庭へ目を向けたところで、曲がり角から竺丸が現れた。走ってきたのか、息を整えてから頭を下げる。
「遅くなりました」
「今、姫も来られたところだ」
段へ足をかけ、先に下りた。振り返ると、姫は裾を持ち上げ、女の手を借りて一段ずつ下りてくる。
手を出そうか迷っている間に、両足が土へ着いた。
「まず、池へ参りましょう」
案内しようと歩き出す。
池の端へ着いてから振り返ると、姫はまだ段と池の間を歩いていた。竺丸が姫の後ろから追いつき、脇へ並ぶ。
「兄上。少し、お待ちください」
足を止めた。
いつもの道なので、つい先へ来てしまった。
「申し訳ない。歩きにくくはございませぬか」
「大丈夫でございます」
姫が追いつくのを待ち、今度は隣を歩いた。
池の向こう岸へ回ると、枝の影が水面に揺れていた。葉の間から日が差し、浅いところの石が見える。
「ここです。文に書いた桜は、この木でございます」
姫が枝を見上げた。
しばらく眺めてから、池へ目を落とす。風が通ると水面が細かく波立ち、映った枝が崩れた。
「花の頃は、さぞ見事でしょうね」
「はい。池の端へ、花びらが集まります」
「文にも、書いてくださいましたね」
何をどこまで書いたか、急に気になった。
姫は水面を見たまま、少し身をかがめる。
「葉の色も、映るのですね」
隣からのぞくと、波の収まったところに緑があった。
花がなくても、姫は長く見ている。次に案内するつもりだった菫の方へ目をやり、足を止めたまま待った。
「こちらの木は、秋に何色になるのでしょう」
「桜は赤くなります。あちらには、楓も」
庭の奥を指すと、姫が顔を上げた。
「では、秋にも拝見したいです」
「その頃には、ご自分でも庭へ出られましょう。お好きなときに、ご覧ください」
姫が背を伸ばした。
「はい。お邪魔にならぬようにいたします」
返事を聞いて、姫を見る。
邪魔になるなどとは申しておらぬ。だが、姫はもう一度池を眺め、次へ進むのを待つように両手をそろえた。
「……秋には、またご案内いたします」
「ありがとうございます」
先ほどより、少し声が小さかった。
竺丸が足元の小石を草の間へ寄せた。顔を向けると、池の縁から一歩離れる。
「菫は、塀の方だったな」
「はい。日陰のところに、まだ咲いております」
答えたのは竺丸だった。
姫も塀の方へ目を向けた。
歩き始めると、今度は竺丸が先に立った。石のあるところで足を止め、姫が通ってから進む。
いつも鞠を抱えて走っていく道を、今日は幾度も振り返りながら歩いていた。
塀際の草の間に、紫の花があった。
姫が膝を曲げてのぞき、袖が地面へ触れそうになる。女が手を添えると、小さく礼を言って袖を寄せた。
「三春でも、庭の隅に咲いておりました」
「押してくださった花も、そこに?」
「はい。乳母と摘んだものです」
後ろの女が頭を下げた。
「お文へ添えたいと、姫様が仰せになりまして」
姫が花を見たまま頷く。
押し花を包んだ紙の、丁寧にそろえられた端を思い出した。
「こちらでも、摘んでよろしいのですか」
「もちろんです」
花へ伸びた姫の手が止まり、竺丸へ顔が向いた。
「竺丸様も、お摘みになりますか」
竺丸は一度、花と姫を見比べた。
「僕は、結構です」
「そうですか」
姫は一輪だけ摘み、乳母が差し出した紙へ置いた。
立ち上がるとき、竺丸が塀際から道へ退いた。姫は礼を言って通ったが、竺丸は軽く頭を下げただけだった。
追いついて隣へ並ぶと、袖が触れる。竺丸は離れず、姫より半歩後ろを歩いた。
「次は、どちらへ」
姫に尋ねられ、庭の広いところを示した。
「竺丸と、鞠で遊ぶところです」
竺丸の足が、わずかに遅れた。
*
庭の端には、いつも鞠を出し入れする部屋がある。小十郎が戸を開けると、物入れの手前に鞠が見えた。
姫は廊下からそれを眺め、竺丸へ顔を向けた。
「お二人で、こちらで遊ばれるのですね」
「はい」
竺丸の返事は短かった。
「鞠は、蹴るのですか」
「転がすこともあります。竺丸が小さい頃から、そうしておりまして」
答えると、竺丸が物入れの前へ進んだ。鞠を両手で持ち上げ、向き直った。
「今は、遠くへも届きます」
「うむ。前より、強く転がすからな」
姫が微笑んだ。
「拝見してもよろしいでしょうか」
竺丸は鞠を抱えたまま黙った。
姫の顔から、庭へ目を移す。
「少しだけ、やってみるか」
声をかけると、ようやく頷いた。
庭へ戻り、いつもの場所に向かい合う。姫は乳母と廊下へ腰を下ろした。
竺丸が鞠を置き、両手で押した。まっすぐ届いた鞠を止め、押し返す。
受け止めた竺丸が廊下を見た。
「お上手なのですね」
姫に声をかけられ、竺丸は鞠を抱え直した。
「兄上と、よく遊びますので」
返事をしてから、鞠へ目を戻す。次に押すまで、少し間があった。
あと一度と思って返すと、竺丸も押し返してくる。受け止めては転がしているうちに、袖の下が暑くなった。
廊下では、乳母が姫の耳元へ何か囁いていた。姫が頷いたのを見て、鞠を抱え上げた。
廊下へ歩み寄った。
「お疲れではございませぬか」
「少し、休ませていただいてもよろしいでしょうか」
後ろで、竺丸が足を止めた。
庭を案内するつもりが、いつものように遊んでしまった。
「すぐに戻りましょう」
廊下にいた小十郎へ鞠を渡した。
姫は乳母の手を借りて立ち上がる。裾を整えてから、竺丸へ頭を下げた。
「見せてくださって、ありがとうございました」
「……はい」
竺丸も頭を下げた。
姫たちが廊下を進む間、二人で見送った。
「兄上」
呼ばれ、顔を向ける。
竺丸は土のついた掌を見ていた。
「姫は、鞠をなさらないのですか」
「今日は、お疲れなのだろう。長い道を来られたからな」
竺丸が頷き、小十郎から布を受け取った。指の間まで拭いてから、布を返す。
小十郎へ顔を向けた。
「俺たちも、戻ろう」
「はい」
竺丸と並んで廊下へ上がる。
部屋へ着く前に、夕餉の支度を知らせる女と行き合った。姫も、同じ席に着くという。
竺丸が顔を上げた。
「兄上のお隣ですか」
女が頷く。
竺丸は袖へ両手を入れ、先に部屋へ入っていった。
夕餉の席へ入ると、竺丸は母のそばに座っていた。目が合うと、空いている隣の席を手で示した。
膳を運ぶ女に別の席を勧められ、竺丸の向かいへ座る。少し遅れて愛姫が入り、隣へ腰を下ろした。乳母は後ろへ控え、衣の裾を整えている。
「お休みになれましたか」
「はい。お気遣いをいただき、ありがとうございます」
姫は両手を膝へ置いた。庭で摘んだ花は持っていない。部屋へ置いてきたのだろう。
膳が据えられると、父が道中の労をねぎらった。姫は頭を下げ、母に食事を勧められてから箸を取る。
汁の椀から湯気が上がっていた。姫が一口飲み、椀の中を見た。
「何か、お口に合いませぬか」
尋ねると、すぐに顔が上がった。
「いえ。おいしくいただいております」
「三春と、味が違いますか」
「はい。こちらのお汁は、少し――」
姫の目が母へ向き、言葉が止まった。
「少し、何です」
続きを待つと、姫が椀を置いた。
「申し訳ございません」
「いや、謝っていただくようなことでは」
父が箸を止めた。
「政宗。問いを重ねては、食べる間がなくなるぞ」
母も姫へ顔を向ける。
「慣れぬ味もありましょう。無理に召し上がらずともよいのですよ」
「ありがとうございます」
姫が頭を下げたので、汁へ口をつけた。いつもの味だった。濃いのか、薄いのか、それとも入っているものが違うのか。
隣の椀を見るのはやめ、魚へ箸を伸ばした。
向かいでは、竺丸が煮物を口へ運んでいた。目が合うと、飲み込んでから口を開く。
「兄上。それは骨があります」
「魚なのだから、あろう」
「先ほどから、同じところをつついておられます」
箸の先を見ると、身を取るつもりで骨の上をなぞっていた。
脇から、小さく息の漏れる音がした。姫が口元を押さえている。
「……取り分けておったのだ」
竺丸は何も言わず、煮物をもう一つ取った。
魚の身を外していると、隣でも箸が動き始めた。姫は骨を皿の端へ寄せ、白い身を少しずつ食べていた。
膳が下げられる頃、父が基信を呼んだ。三春から来た者と、明日の用向きを確かめるらしい。母は姫の衣や荷について乳母と話し、竺丸はそのそばで座り直した。
姫が膝を引いたので、通る場所を空ける。だが、立ち上がらずに顔を向けてきた。
「先ほどのお汁のことでございますが」
母たちの話を遮らぬよう、少し身を寄せた。
「三春でいただいていたものより、お味噌の味が濃く感じられました。けれど、おいしくいただきました」
「そうでしたか。何か困られたのかと思って、尋ねすぎました」
「私も、途中で口をつぐんでしまって」
姫の手が膝の上で重なる。
椀を見ていた顔を思い出した。次からは薄くするよう頼んだ方がよいだろうか。
「明日の汁は、薄い方がよいですか」
「いえ。しばらく、同じものをいただきとうございます」
「同じもので?」
「はい。毎朝いただけば、味も覚えられますので」
姫は少し笑った。
「三春では、味噌を少し多く入れてしまって、乳母に止められたこともございます」
「ご自分で作られたのですか」
「一度だけ、混ぜさせてもらいました。味を見る前に、もう少しと思って」
後ろで乳母が振り返った。
「その後、鍋の汁を増やしました」
「その話まで、せずとも」
姫が乳母を見上げた。乳母は頭を下げたが、目元が緩んでいる。
笑うと、姫も袖を口元へ寄せた。
「では、明日も同じ味で」
「はい」
返事を聞いて立ち上がる。
姫も裾を寄せて立ち、母へ挨拶をした。竺丸は母に呼ばれるまで、膝へ置いた指を曲げ伸ばししていた。
*
翌朝、小十郎と廊下を歩いていると、塀際で花を摘む乳母が見えた。
足を止める。乳母は気づくと腰を伸ばし、頭を下げた。
「姫は、もう起きておられるのか」
「はい。お部屋で、昨日の菫を紙に挟んでおいでです」
手元の花を見ると、菫ではなかった。白い花と細い葉がある。
「それも、押すのか」
「いえ。こちらは、お部屋へ飾ろうかと。庭のお世話をなさる方に、分けていただきました」
乳母は花を紙で包み、小十郎へ水をもらえる場所を尋ねた。
小十郎が案内に立とうとしたので、姫の部屋へ続く廊下を見た。
「俺は、姫に挨拶をしてくる」
「では、後ほど参ります」
部屋の前には、姫付きの女が控えていた。用向きを伝えると、中へ声をかけてくれる。
返事を待ってから入ると、姫が机の前で頭を下げた。
「おはようございます」
「おはようございます。昨日は、よく休めましたか」
「はい」
机には紙が広げられ、その間に紫の花が見えた。姫が脇へ寄せようとしたので、手で制した。
「そのままで。今、押しておられたのですね」
「ええ。昨日のうちに挟んでおいたものを、確かめておりました」
近くへ座ると、姫は紙の端を持ち上げた。花の下に敷いた紙には、水の染みた跡がある。
「紙を替えるのですか」
「はい。湿ったままにしておくと、傷みますので」
新しい紙へ花を移す手元を見る。細い茎をつまみ、花びらが折れぬように置き直している。
姫は紙を重ね、その上へ薄い板を載せた。
「これも、三春へ送られるのですか」
「そのつもりでおります。花が残っているうちに摘ませていただいたと、文を添えて」
机の脇には、まだ何も書いていない紙が置かれていた。
姫が筆へ目を向けたので、膝へ手を置く。
「お邪魔をしました。文を書かれるのであれば、俺は――」
「まだ、これからでございます」
声が重なり、口を閉じた。
姫は筆を取らず、紙を机の端へそろえた。
「少し、お話ししていてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
立ちかけた腰を下ろし、机へついていた手を膝へ戻した。
「三春へは、どのようなことを書かれるのですか」
「無事に着いたことと、お庭を見せていただいたことを。母も、何をして過ごすのか、気にしておりましたので」
「では、鞠のことも」
「はい。お二人で、鞠をまっすぐ返し合っておられたことも」
昨日、姫に褒められて鞠を抱え直した竺丸を思い出す。
「昨日は、見ていただくばかりになってしまいました。次は、姫もお入りください」
姫は少し首をかしげた。
「私が加わると、どちらへ返せばよいのでしょう」
二人で向かい合う庭を思い浮かべる。そこへ姫が座れば、竺丸の隣か、俺の隣か。
「三人で、囲めばよいかと」
指先で畳の三箇所を順に示した。姫が頷いた。
「順に、隣の方へ返すのですか」
「はい。それなら、三人とも取れましょう」
「では、私にもできそうです」
顔を上げると、姫と目が合った。
「お疲れでなければ、また庭へ」
「はい。今日は、もう少しゆっくり歩いてもよろしいですか」
「昨日は、先へ行きすぎました」
「池のところでは、お待ちくださいました」
姫の声に笑いが混じった。
頷き、膝へ手を戻した。
廊下から、乳母と小十郎の話す声が近づいた。姫は戸口を見てから、机の下へ置いた本を取り出す。
表紙を両手で支え、膝の上へ載せた。
「三春から持ってまいりました。お好きだと伺った歌も、こちらにあります」
「拝見しても」
「はい」
隣へ少し寄ると、姫が本を開いた。指された歌を読み、次の頁へ目を移す。
姫の指が止まったところで、顔を上げた。
「こちらが、お好きなのでございますか」
「ええ。先日の文では、書ききれませんでした」
続きを聞こうと、本の端へ手を添えた。
「ここまでお読みいただきありがとうございます!
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