帰らない理由
「咲希を捜すぞ」
玲が、使われていない駐輪場の出口へ向かう。
「どこを?」
俺が尋ねると、玲は振り返らずに答えた。
「警察より先に見つける」
大河がスマートフォンを確認する。
咲希へ何度も電話をかけているが、一度も繋がらない。
呼び出し音は鳴る。
電源が切れているわけではない。
それでも、咲希は出なかった。
「手分けするぞ」
大河が言った。
「奈緒は俺と駅前。玲は河川敷からコインランドリーのほうを頼む」
「分かった」
「見つけても、一人で連れ戻そうとすんな。まず連絡しろ」
玲が軽く手を上げる。
大河は、次に俺を見た。
「悠斗はどうする?」
聞かれるまでもなかった。
「俺も捜す」
「帰ってもいいんだぞ」
「帰らない」
即答した。
自分でも驚いた。
少し前までの俺なら、邪魔になるかもしれないと考えていた。
昨日会ったばかりの自分が口を出していい問題ではない。そうやって理由を作り、帰っていたと思う。
でも、今は手のひらにキーホルダーがある。
咲希が俺に預けたものだ。
俺だけ帰るわけにはいかなかった。
大河は一度だけ頷いた。
「じゃあ玲と行け。絶対にはぐれんなよ」
「子供じゃない」
「さっき金網に引っかかってたやつが言うな」
「見てたの?」
「音だけ聞こえた」
奈緒が笑った。
少しだけ空気が緩む。
けれど、大河の表情はすぐに戻った。
「三十分後、見つからなくても一回ここに戻る。警察がいたら第二集合場所」
「第二集合場所ってどこ?」
俺が聞く。
三人が黙った。
玲が俺を見る。
「教えてなかったのか」
「昨日来たばっかだぞ」
大河が言う。
「そりゃ知らねえか」
奈緒がスマートフォンを取り出した。
地図を開き、駅の反対側にある小さな公園を指さす。
「ここ。滑り台の裏」
「なんで滑り台の裏?」
「警察から見えにくいから」
当たり前のように答えられた。
俺は地図を頭に入れてから、玲と一緒に駐輪場を出た。
外はまだ暗い。
遠くからパトカーのサイレンが聞こえる。
俺たちを捜しているのかもしれない。
玲は大通りを避け、住宅街の細い道を選んだ。
俺はその少し後ろを歩いた。
走ったあとの足が重い。
胸の苦しさは治まったが、喉が乾いていた。
「咲希、よくいなくなるの?」
玲に聞いた。
「たまに」
「そのたびに捜す?」
「夜が明けても戻らなかったら」
「今日はまだ夜明け前だろ」
「警察がいるから」
玲の答えは短い。
「咲希、警察に捕まったら困るの?」
「俺ら全員困る」
「そういう意味じゃなくて」
俺はポケットの中にあるキーホルダーを握った。
「咲希だけ、警察が来るって聞いたときから様子が変だった」
玲は何も言わない。
「しずくって誰?」
足音だけが続いた。
玲は前を向いたまま歩いている。
聞こえていないわけではない。
「知ってるんだろ」
「知ってる」
意外にも、玲は認めた。
「じゃあ教えてよ」
「嫌だ」
「なんで?」
「咲希の話だから」
「でも、今は咲希を捜してるんだろ。知ってることがあるなら――」
玲が足を止めた。
振り返り、俺を見る。
「心配してたら、他人のことを勝手に話していいのかよ」
何も言えなくなった。
「俺が話して、お前が納得したら何か変わんの?」
「それは……」
「知りたいだけだろ」
言い方は冷たかった。
でも、間違ってはいなかった。
俺は咲希を心配している。
同時に、キーホルダーに書かれた名前の意味を知りたがっている。
自分が仲間として認められていないような気がして、苛立っていた。
学校では、誰かの秘密はすぐに広まった。
誰と誰が付き合っている。
誰の親が離婚した。
誰が先生に相談した。
本人が隠していることほど、皆は面白がって話した。
俺のことも、そうだった。
学校へ来られなくなった理由を、俺自身より詳しく知っているような顔で話すやつがいた。
同じことをしようとしていたのかもしれない。
「……ごめん」
俺が言うと、玲は再び歩き始めた。
「俺に謝ることじゃねえよ」
「じゃあ、誰に?」
「咲希に聞け」
「見つかったら?」
「見つかったら」
俺たちは二十四時間営業のコインランドリーへ向かった。
外から中を確認する。
回転する洗濯機の前に、作業服姿の男が一人座っているだけだった。
玲は自動ドアを開け、店内へ入る。
奥の椅子、トイレの前、乾燥機の陰まで確かめた。
咲希はいない。
「ここによく来るの?」
「雨の日は」
「洗濯するの?」
「寝る」
玲は店内を出る。
次に向かったのは、川沿いの小さな公園だった。
ベンチの下。
公衆トイレの裏。
遊具の中。
玲は、誰かが身を隠せそうな場所を一つずつ確認していく。
捜し方に迷いがなかった。
咲希が以前にも、そういう場所で夜を明かしたことがあるのだろう。
公園にもいなかった。
玲が大河へ電話する。
「こっちはいない」
少し間を置く。
「分かった」
電話を切った。
「向こうもいないって」
「他に行きそうな場所は?」
「河川敷」
俺たちは土手へ向かった。
階段を上がると、夜の風が吹きつけた。
川の水面に、離れた橋の明かりが揺れている。
土手の下には街灯がほとんどない。
人がいたとしても、遠くからは影にしか見えない。
玲は川沿いを歩き始めた。
俺も周囲を見ながら後を追う。
「いた」
しばらく歩いたところで、玲が言った。
前方のベンチに誰かが座っていた。
パーカーのフードをかぶり、膝を抱えている。
顔は見えない。
それでも、咲希だと分かった。
「咲希!」
俺が名前を呼んだ。
ベンチの人物が顔を上げる。
間違いなく咲希だった。
目が合った。
安心した。
無事だった。
その直後、咲希が立ち上がった。
俺たちとは反対方向へ走り出す。
「何で逃げるんだよ!」
俺も走った。
玲は、俺より先に咲希を追っている。
土手の道は暗く、足元がよく見えない。
舗装の割れ目に靴が引っかかりそうになる。
咲希は速かった。
何度もこうして逃げたことがあるのかもしれない。
「咲希、待て!」
玲が叫ぶ。
「来ないで!」
咲希は振り返らない。
そのまま階段を駆け下り、住宅街へ入る。
玲が後を追う。
俺も続こうとしたが、走り出したばかりなのに呼吸が苦しくなっていた。
それでも止まらなかった。
角を曲がる。
咲希の姿が見えない。
玲が少し先で立ち止まっている。
「どっち?」
俺が追いつくと、玲は左右の道を見た。
返事はない。
見失ったらしい。
耳を澄ます。
足音は聞こえない。
遠くを走る車の音と、俺の呼吸だけだった。
「咲希!」
俺が叫んだ。
「キーホルダー、返さなくていいのかよ!」
近くで何かが動いた。
路地の奥に置かれた自動販売機の陰から、咲希が姿を現した。
逃げ切れないと思ったのではない。
キーホルダーという言葉に反応したのだ。
咲希は俺たちを睨んでいた。
「返して」
「何で俺に預けたの?」
「いいから返して」
俺はポケットからウサギのキーホルダーを取り出した。
咲希が手を伸ばす。
俺は返そうとして、少しだけ手を止めた。
「しずくって誰?」
咲希の表情が変わった。
「見たの?」
「名前が書いてあったから」
「勝手に見たの?」
「勝手にって、裏に書いてあったんだぞ」
咲希は俺の手からキーホルダーを奪った。
「もういい」
「何が?」
「悠斗に預けた私が馬鹿だった」
胸の奥が痛んだ。
「俺は、なくさないように持ってただけだろ」
「だったら何も聞かないでよ」
「心配して捜してたんだぞ」
「頼んでない!」
咲希の声が路地に響いた。
俺は黙った。
咲希が昨日、迷子の少年へかけていた言葉を思い出した。
事情を聞かなければ、どうしたらいいか分からない。
そう言ったのは咲希だった。
それなのに、自分のことは何も話そうとしない。
「咲希」
玲が呼んだ。
咲希は顔をそらした。
「戻るぞ」
「戻らない」
「大河も奈緒も捜してる」
「勝手に捜してればいい」
「心配してる」
「それも勝手」
玲は怒らなかった。
無理に腕を掴むこともしない。
ただ、咲希と向かい合っていた。
「警察に捕まったら困るんだろ」
玲が言った。
咲希は答えない。
「一人で動くより、俺らといたほうがいい」
「一緒にいたから警察呼ばれたんだけど」
「あの子を放っておけなかった」
「分かってるよ!」
咲希が叫んだ。
「分かってるから、何も言わなかったじゃん!」
咲希の目に涙が浮かんでいる。
「大河が間違ってないことくらい分かってる。あの子を助けるなら、警察を呼ぶしかなかったことも分かってる」
「じゃあ戻れよ」
「戻れない」
咲希はキーホルダーを強く握った。
「今夜じゃなきゃ駄目なの」
「何が?」
俺が聞いた。
咲希はこちらを見た。
何かを言おうとした。
そのとき、近くの大通りからパトカーのサイレンが聞こえた。
咲希の顔が強張る。
「咲希」
玲が手を伸ばす。
咲希は一歩下がった。
「朝になったら戻る」
「約束できんのか」
「できる」
「嘘じゃない?」
俺が聞いた。
咲希は少しだけ迷った。
それから、いつものように笑った。
「私、約束は守るから」
それが嘘だと、その場にいる全員が分かっていた。
咲希は路地の奥へ走り出した。
玲は追わなかった。
俺も追えなかった。
サイレンの音が近づいていた。
「何で止めないんだよ」
咲希の姿が見えなくなってから、俺は玲に言った。
「無理やり連れて帰ればよかったのか」
「一人にしたら危ないだろ」
「嫌がってるやつを無理やり連れていくのは、あの親父と同じだ」
玲の言葉に、迷子の父親を思い出した。
父親は、帰りたくないと言う少年の意思を無視した。
家族だから。
親だから。
自分が正しいから。
そんな理由で、無理やり連れて帰ろうとした。
仲間なら、同じことをしていいのだろうか。
「じゃあ、放っておくの?」
「戻れる場所を残して待つ」
玲は咲希が消えた方向を見た。
「ただし、戻らなかったらまた捜す」
俺たちは集合場所へ戻った。
大河と奈緒は、すでに戻っていた。
「咲希は?」
大河が立ち上がる。
「見つけた」
玲が答えた。
「連れてこられなかった」
「何か言ってた?」
「今夜じゃなきゃ駄目だって」
大河の表情が曇る。
「しずくか」
その名前に反応した。
「やっぱり知ってるんだ」
俺が言う。
大河は俺を見る。
「本人から聞け」
玲と同じ答えだった。
「みんなそればっかりだな」
少し苛立った声になった。
「仲間じゃない俺には言えないってこと?」
大河が眉を寄せる。
「そういう意味じゃねえ」
「じゃあ何だよ」
「仲間だから言わねえんだよ」
大河は静かに答えた。
「咲希が話したくないことを、あいつのいないところで勝手に話すのは違うだろ」
何も言い返せなかった。
大河たちは、咲希のことを何も教えてくれない。
でもそれは、俺を信用していないからではない。
咲希を裏切らないためだった。
「ごめん」
俺は言った。
「謝るなら、咲希にしろ」
大河が俺の肩を軽く叩いた。
それから玲を見る。
「朝まで待つか」
俺たちは、咲希が戻るのを待った。
酒を飲む者はいなかった。
玲も煙草を吸わなかった。
誰もくだらない話をしなかった。
時間だけが過ぎていく。
三十分。
一時間。
空が少しずつ明るくなる。
道路を走る車が増え始める。
朝が来ると、俺たちの時間が終わってしまうような気がした。
「もう戻らないんじゃない?」
奈緒が言った。
大河は答えなかった。
何度目か分からない電話をかける。
やはり、咲希は出ない。
玲が立ち上がった。
「もう一回捜す」
そのとき、駐輪場の入り口から足音が聞こえた。
一人ではない。
軽い足音が二つ。
全員が立ち上がる。
最初に姿を見せたのは、咲希だった。
服が汚れている。
髪も乱れ、右手には小さな鞄を持っていた。
その隣に、見知らぬ女の子が立っていた。
十歳くらいだろうか。
大きめのパーカーを着て、両手で古い毛布を抱えている。
眠そうな顔をしているが、俺たちを警戒するように咲希の背中へ隠れていた。
「咲希」
大河が名前を呼ぶ。
咲希は何も答えなかった。
玲が女の子を見る。
奈緒は、すぐに事情を理解したようだった。
俺だけが分からなかった。
咲希はポケットからウサギのキーホルダーを取り出した。
女の子の前で揺らす。
女の子はそれを見ると、初めて少しだけ安心した顔をした。
「この子が、しずく」
咲希は女の子の肩を抱いた。
「私の妹」
俺はキーホルダーに書かれていた名前を思い出した。
みずの、しずく。
「どうして連れてきたの?」
俺が尋ねる。
咲希は答えない。
代わりに、大河をまっすぐ見た。
いつもの笑顔はなかった。
「今日から、この子もここに置いて」




