家族だから
「咲希」
ドアの向こうから、男の声がした。
「そこにいるのは分かってる」
咲希は、布団の上でしずくを抱きしめていた。
しずくの身体が小さく震えている。
熱のせいだけではない。
この声を知っている。
それだけで、誰が来たのか分かった。
「裏から出られる?」
大河が小声で尋ねる。
良平が窓の鍵を開け、外を確認する。
「一階だから出られる。でも、駐車場から丸見えだ」
俺もカーテンの隙間を覗いた。
アパートの裏には、狭い駐車場がある。
見慣れない黒い車が一台止まっていた。
運転席には誰もいない。
助手席のドアも開いている。
車から降りたのは、一人ではない。
「もう一人いる」
俺が言う。
良平がカーテンを閉める。
「裏に回られたら終わりだな」
玄関のドアが、もう一度叩かれた。
今度は先ほどより強い。
「開けろ!」
しずくが咲希の服を掴む。
「お姉ちゃん」
「大丈夫」
咲希が答える。
「絶対に渡さないから」
大河と玲が玄関の前へ移動した。
奈緒はしずくのリュックからスマートフォンを取り出す。
画面には、まだ位置情報を共有しているという表示が出ていた。
「これ切れないの?」
「貸して」
俺はスマートフォンを受け取った。
設定画面を開こうとしたが、暗証番号を求められた。
「番号分かる?」
咲希がしずくに尋ねる。
しずくは首を振った。
「お母さんが設定したから」
「電源は?」
側面のボタンを長押しする。
しかし、電源を切るためにも暗証番号が必要だった。
俺たちが何をしている間にも、男はドアの向こうにいる。
「誰だ」
良平が玄関越しに尋ねた。
「この部屋の人間か?」
「そうだけど」
「うちの娘が中にいる。開けろ」
良平が咲希を見る。
咲希は首を振った。
「本人は会いたくないって」
「お前には関係ない!」
男がドアを殴った。
部屋全体が揺れたように感じた。
「未成年を連れ込んでるんだろ。警察を呼ぶぞ」
「呼べば」
良平は落ち着いていた。
「その代わり、しずくの腕にある痣も見てもらう」
ドアの向こうが静かになった。
長くは続かなかった。
「子供が階段で転んだだけだ」
「誰も痣の原因まで言ってないけど」
良平の言葉に、男は答えなかった。
しずくが咲希の胸元に顔を埋める。
痣を残したのが誰なのか、もう聞く必要はなかった。
「その携帯、捨てたほうがいい」
玲が言った。
「でも、しずくのだろ」
「持って逃げたら、また追われる」
俺はスマートフォンを見た。
位置情報が相手に伝わっている。
ここへ来られたのも、そのせいだ。
「誰かがこれを持って、別方向に逃げれば」
口にしてから、自分が何を提案しているのか気づいた。
「おとりってこと?」
奈緒が聞く。
俺は頷いた。
「相手が画面の位置を追ってくるなら、しずくがどっちへ逃げたかは分からなくなる」
「誰が持つんだよ」
大河が尋ねる。
答える前に、玲が俺の手からスマートフォンを取った。
「俺が行く」
「待て」
大河が止める。
「裏にも誰かいる」
「見つからなきゃいい」
「見つかったら?」
「走る」
玲は窓へ向かう。
俺はその腕を掴んだ。
「一人で行くの?」
「一人のほうが速い」
「でも――」
「お前が考えたんだろ」
そう言われると、止める言葉が出なかった。
俺が提案した。
玲なら逃げられると思って。
でも、もし捕まったら。
もし、あの男が玲へ何かしたら。
「そんな顔すんな」
玲が言った。
「どんな顔?」
「自分が悪いみたいな顔」
俺は玲の腕を離せなかった。
「俺が言わなかったら、玲がおとりになることもなかった」
「言わなくても誰かがやった」
「でも」
「悠斗」
玲が俺を見る。
「助けるって、全部一人でやることじゃねえから」
学校で誰かを助けたとき、俺は一人だった。
その結果、標的が俺へ変わった。
人を助ければ、自分が代償を払う。
ずっと、そう思っていた。
でも今、しずくを守るために全員が動いている。
誰か一人が犠牲になるのではない。
できることを分けようとしている。
俺は玲の腕を離した。
「絶対、戻ってきて」
「逃げ切ったらな」
玲が窓枠へ足をかけた。
そのとき、下から声がした。
「窓から出てくるぞ!」
玲がすぐに身体を引っ込める。
直後、窓の外を男が走り抜けた。
黒い上着を着た、別の男だった。
裏へ回られている。
「無理だ」
良平が窓を閉めた。
「囲まれてる」
玄関の向こうにいる男が笑った。
「逃げられないぞ、咲希」
咲希は返事をしない。
「しずくを返せば、今回は何も言わない」
「嘘」
咲希が呟いた。
「何も言わないって、いつも言う」
「お母さんも心配してる」
男の言葉に、咲希の表情が変わった。
しずくも顔を上げる。
「お母さん、いるの?」
しずくが聞いた。
男はすぐに答えた。
「下で待ってる。二人に帰ってきてほしいって言ってるぞ」
咲希は唇を噛んだ。
大河がドア越しに言う。
「だったら、母親本人に言わせろ」
「誰だ、お前」
「いいから呼べよ」
男はしばらく黙っていた。
廊下を歩いていく足音がする。
「帰った?」
俺が尋ねる。
「母親を呼びに行っただけだ」
大河は玄関から離れなかった。
やがて、階段のほうから別の足音が近づいてきた。
男より軽く、ゆっくりしている。
「咲希」
今度は、女の声だった。
「そこにいるの?」
咲希の腕に力が入る。
しずくは咲希を見上げていた。
「お母さん」
「しずくもいるのね?」
女の声は震えていた。
「お願い。ドアを開けて」
咲希は立ち上がろうとした。
奈緒が腕を掴む。
「行っちゃ駄目」
「でも、お母さんが」
「一人じゃない」
ドアの向こうには、あの男もいる。
「お母さん、助けに来たの?」
しずくが尋ねた。
外から返事はなかった。
「お母さん?」
「しずく」
少し間を空けて、母親が答えた。
「お父さんに謝りましょう」
しずくの顔から表情が消えた。
「勝手に家を出たことを謝れば、きっと許してくれるから」
咲希が立ち上がった。
「謝るのはそっちでしょ」
「咲希、お願いだから大人しくして」
「しずくの腕、見た?」
「転んだだけだって聞いてる」
「本気で言ってるの?」
「お父さんも反省してるから」
咲希が笑った。
悲しそうな笑い方だった。
「私のときも、同じこと言ったよね」
部屋の中が静かになる。
大河たちは、咲希が以前何をされたのか知っている。
俺だけが知らない。
でも今は、聞こうとは思わなかった。
「今回は違うの」
母親が言った。
「何が違うの?」
「家族でやり直そうって、話してるから」
「私たちが我慢することを、やり直すって言わないよ」
ドアの向こうから男の声がした。
「いい加減にしろ!」
扉が強く蹴られた。
咲希としずくが同時に身体を震わせる。
もう一度。
玄関のドアが大きな音を立てる。
良平が鍵を確認した。
「長くはもたない」
「警察呼ぶ?」
奈緒が聞く。
誰もすぐには答えなかった。
警察を呼べば、咲希としずくは保護されるかもしれない。
そのあと、また家へ返されるかもしれない。
「今は呼ぶしかねえ」
大河がスマートフォンを取り出す。
咲希は反対しなかった。
「ただし、しずくは渡さないって何度でも言え」
大河が続ける。
「俺らも言う」
もう一度、ドアが蹴られた。
チェーンを留める金具が、壁から少し浮いた。
良平が大河を見る。
「開いたら、俺と大河で止める。玲は咲希たちを窓から出せ」
「外にも一人いる」
「奈緒が先に出て、相手を引きつける」
「私が?」
「嫌なら悠斗にする」
奈緒は俺を見る。
「私がやる」
「俺も行く」
俺が言った。
「悠斗はしずくを頼む」
咲希が言った。
俺を見る目は真剣だった。
「俺が?」
「しずく、今走れないから」
「でも――」
「悠斗なら、置いていかないでしょ」
キーホルダーを預けられたときと同じだった。
咲希は、俺ならなくさないと思った。
今度は、妹を置いていかないと思っている。
怖かった。
キーホルダーとは違う。
しずくは人間だ。
俺に守れるのか分からない。
それでも、頷いた。
「分かった」
俺はしずくの前にしゃがんだ。
「俺の背中に乗れる?」
しずくは咲希を見る。
咲希が頷く。
「悠斗と一緒に行って」
しずくが俺の背中へ腕を回した。
身体が熱い。
想像していたより軽かった。
その軽さが、逆に怖かった。
玄関が再び蹴られる。
金具が外れかけている。
大河と良平が扉を押さえた。
「来るぞ!」
最後の一撃で、チェーンの金具が壁から外れた。
ドアが開く。
大河と良平が身体で押し返す。
隙間から、男の顔が見えた。
四十歳くらいだろうか。
血走った目で部屋の中を探している。
「咲希!」
男が腕を差し入れる。
大河がその腕を掴んだ。
「離せ!」
「帰れ!」
男と大河の目が合った。
その瞬間、男の動きが止まった。
「お前……」
大河の表情も変わった。
二人は初対面ではない。
「またお前か」
男が低い声で言った。
大河は男の腕を押し返した。
「今度も返さねえよ」




