手のひらに残った名前
「三つ数えたら走れ」
大河は、警察官の背中を見たまま言った。
聞き間違いかと思った。
さっきまで迷子の少年を守り、警察へ事情を説明していた人間の台詞とは思えなかった。
「三」
咲希が立ち上がった。
その動きは妙に自然だった。
奈緒は、すでに鞄を肩へかけている。
玲は足元の吸い殻を踏み消した。
俺以外の全員が、大河の言葉を理解していた。
「二」
「ちょっと待って」
思わず声が出た。
何を待ってほしいのか、自分でも分からない。
心の準備をする時間か。
逃げる理由を説明してもらう時間か。
それとも、やめるよう大河を説得する時間か。
「一」
大河が走り出した。
同時に、奈緒と玲も別々の方向へ駆け出す。
「えっ」
俺だけがその場に残された。
警察官が振り返る。
「君たち、待ちなさい!」
咲希が俺の横を通り過ぎようとして、突然足を止めた。
俺の右手を取り、何かを握らせる。
固くて小さなものだった。
「これ持ってて」
「何?」
「なくさないで」
咲希は俺の指を閉じさせた。
理由を聞く間もなく、路地の奥へ走っていく。
「白石!」
玲の声がした。
いつ名前を覚えたのだろう、と思っている場合ではなかった。
「走れ!」
警察官の足音が近づいてくる。
身体が勝手に動いた。
俺は咲希とは反対方向へ走り出した。
玲が路地の角で待っている。
俺が追いつくと、すぐに走り始めた。
「こっち」
「待って、何で逃げるんだよ」
「捕まりたいなら戻れ」
「そうじゃなくて!」
後ろから警察官の声が聞こえた。
「止まりなさい!」
止まる理由も、逃げる覚悟もなかった。
それでも俺は、玲について走った。
昨日までの俺なら、警察官に呼び止められただけで足を止めていたと思う。
悪いことをしたからではない。
大人の言うことを聞かなければ、もっと悪いことになると思っていたからだ。
でも今は、大人の声より、玲の背中を見失うほうが怖かった。
細い路地へ入る。
建物の壁から突き出した室外機を避け、積まれたゴミ袋の横を抜ける。
玲は一度も迷わなかった。
地図を見ているわけでもないのに、どの路地がどこへ繋がっているのか知っている。
俺は必死でその背中を追った。
三か月近く引きこもっていた身体は、すぐに悲鳴を上げた。
肺が痛い。
心臓が速い。
足が重い。
「玲、待って」
玲は止まらない。
「無理、もう無理」
「まだ二分も走ってねえぞ」
「二分も走った」
「どっちでもいい。走れ」
大通りへ出る直前、玲が急に腕を伸ばした。
俺の胸を押し、建物の陰へ戻す。
「何――」
玲が口元へ人差し指を立てた。
赤い光が、目の前の壁を滑っていく。
パトカーが交差点をゆっくり通過していた。
俺たちを捜しているのかは分からない。
それでも、見つかれば終わりだと思った。
玲はパトカーが角を曲がるまで待った。
「行くぞ」
「まだ走るの?」
「嫌なら、ここに残れば」
玲は先に大通りへ出る。
置いていかれたくなかった。
「走る」
俺も続いた。
大通りを横切り、駅とは反対側の住宅街へ入る。
その先に、腰ほどの高さの金網があった。
玲はほとんど速度を落とさず、片手をついて乗り越えた。
俺も同じようにしようとした。
足を上げる。
靴の先が金網に引っかかった。
身体が前へ傾く。
「うわっ」
顔から地面へ落ちると思った。
その直前、玲が俺の腕を掴んだ。
どうにか金網の向こう側へ着地する。
「危な」
「運動不足」
玲は俺の腕を離した。
「三か月、ほとんど家にいたんだよ」
言ってから、しまったと思った。
学校へ行っていないことは話した。
けれど、引きこもっていることまでは話していなかった。
玲は俺を見た。
理由を聞かれる。
そう身構えたが、玲が言ったのは別のことだった。
「じゃあ、今日はよく走ったほうだな」
それだけ言って、また歩き出す。
「聞かないの?」
俺は後ろから尋ねた。
「何を」
「三か月、家にいた理由」
「聞いてほしいの?」
答えに詰まった。
話したくはない。
でも、何も聞かれないと、それはそれで寂しい。
自分でも面倒な人間だと思う。
「分からない」
正直に答えた。
玲は足を止めなかった。
「分かったら話せば」
それ以上、何も聞かなかった。
俺たちは古いアパートの脇を抜けた。
その先に、使われていない小さな駐輪場があった。
屋根は錆び、放置された自転車が何台も並んでいる。奥には破れたブルーシートや、空になった段ボール箱が積まれていた。
玲は周囲を確認してから、ようやく足を止めた。
「ここで待つ」
「何を?」
「他のやつら」
「ここに来るって、いつ決めたの?」
「前から」
玲は錆びた柵に背中を預けた。
「警察とか、面倒なのが来たときの集合場所」
「そんなのがあるんだ」
「三つある」
大河が突然数え始めたとき、皆がすぐに動けた理由が少し分かった。
初めてではないのだ。
俺だけが何も知らない。
当たり前だった。
まだ会って三日目なのだから。
俺は玲の隣へ座り込んだ。
膝が震えている。
「警察から逃げたの、初めて?」
「当たり前だろ」
「結構走れたじゃん」
「途中で死ぬかと思った」
「死んでないから平気」
「そういう問題じゃない」
玲が小さく笑った。
昨日も一瞬だけ見た気がするが、今度ははっきり分かった。
玲も笑うのだ。
「何?」
「別に」
「今、笑っただろ」
「笑ってない」
「笑った」
「うるさい」
玲は顔をそらした。
少しだけ、距離が近づいたような気がした。
息が落ち着いてくると、握ったままだった右手が痛むことに気づいた。
咲希から預かったものが、手のひらに食い込んでいる。
開いて確認しようとしたとき、駐輪場の外から足音が聞こえた。
俺と玲は同時に立ち上がった。
玲が俺の前へ出る。
暗がりから現れたのは奈緒だった。
「疲れた」
奈緒はそれだけ言うと、その場へしゃがみ込んだ。
「大河は?」
玲が聞く。
「知らない。途中まで一緒だったけど、パトカー来たから分かれた」
「咲希は?」
「最初だけ見えた。途中から知らない」
奈緒は呼吸を整えながら答えた。
「悠斗、遅くなかった?」
「途中で金網に引っかかった」
「ださ」
「しょうがないだろ。こんなに走ると思ってなかったんだから」
「警察から逃げるのに?」
「逃げること自体、知らなかったんだよ」
奈緒が少し笑った。
さっきまで迷子の父親と対峙していたとは思えないほど、いつもの顔に戻っている。
俺だけがまだ興奮していた。
怖かった。
それなのに、不思議と後悔はしていなかった。
さらに五分ほど経ったころ、別の方向から誰かが走ってきた。
大河だった。
パーカーの肩が濡れている。どこかで水でも被ったらしい。
「全員いる?」
大河は俺たちを見回した。
玲。
奈緒。
俺。
大河の表情から、逃げ切った安堵が消えた。
「咲希は?」
誰も答えない。
「奈緒、一緒じゃなかったのか」
「途中までは。でも、最初の交差点で別れた」
「玲は?」
「見てない」
大河がスマートフォンを取り出し、咲希へ電話をかける。
誰も話さなかった。
呼び出し音が鳴り続ける。
やがて切れた。
「出ねえ」
大河がもう一度かける。
結果は同じだった。
「警察に捕まったんじゃない?」
奈緒が言う。
「捕まってたら、電話取られてるかも」
「電源は切れてない」
「じゃあ、逃げてる途中とか」
大河は返事をしなかった。
スマートフォンを握り、駐輪場の外を見ている。
迷子の父親に胸ぐらを掴まれても平然としていた大河が、初めて不安そうな顔をしていた。
「大丈夫じゃない?」
俺が言った。
三人の視線がこちらへ向く。
「咲希、逃げるの慣れてそうだし」
言ってから、何の根拠もないことに気づいた。
誰も返事をしない。
大丈夫。
俺も母さんも、そう言って本当のことを隠している。
昨日、咲希も泣きながら同じ言葉を使っていた。
大丈夫という言葉は、本当に大丈夫なときより、そうでないときのほうがよく使われるのかもしれない。
「そうだ」
走り出す直前のことを思い出した。
俺は握っていた右手を開く。
そこには、小さなウサギのキーホルダーがあった。
淡い桃色だったはずだが、長く使われているのか、汚れて色が薄くなっている。
「咲希が、これを持ってろって」
大河たちの視線が、キーホルダーへ集まった。
大河の表情が変わった。
ほんの一瞬だったが、見逃さなかった。
「それ、咲希が持ってたやつ」
奈緒が言った。
「どうして俺に渡したんだろう」
「警察に見られたくなかったんじゃねえの」
玲が答えた。
「キーホルダーを?」
俺は裏返した。
白いテープが貼られている。
そこには、子供が書いたような丸い文字で名前が書かれていた。
みずの しずく
声に出して読む。
「みずの、しずく」
誰も反応しなかった。
いや、反応しないようにしているように見えた。
「これ、咲希のじゃないの?」
俺が聞く。
知っている名前は、水野咲希だ。
しずくという名前ではない。
「誰なんだよ、しずくって」
大河は視線をそらした。
奈緒は何も言わない。
玲は俺の手の中にあるキーホルダーを見つめている。
三人とも、名前を知っている。
俺にはそう見えた。
「知ってるんだろ?」
それでも答えはなかった。
玲が壁から背中を離した。
「咲希を捜すぞ」
「どこを?」
俺が尋ねる。
玲は駐輪場の外へ向かって歩き出した。
「警察より先に見つける」




