迷子の子供
次の夜、俺は昨日より少し早く家を出た。
理由は分かっている。
散歩がしたかったわけではない。大河たちに会いたかった。
それを認めるのは、少し恥ずかしかった。
また来たのかと思われるかもしれない。
迷惑そうな顔をされるかもしれない。
昨日の「またな」は、その場の流れで言っただけかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていたせいで、いつもより時間をかけてしまった。
裏路地に入る。
最初に見えたのは、閉店した店の裏口と、壁際に積まれたビールケースだった。
大河たちは、まだ来ていない。
俺は誰もいない路地を見回した。
少し早く来ただけだ。
待つと約束したわけでもない。
帰ろうと思えば、いつでも帰れる。
そう自分に言い聞かせながら、昨夜座ったビールケースに腰を下ろした。
スマートフォンを取り出して、時間を確認する。
午前一時四十七分。
画面を消す。
十秒もしないうちに、また時間を確認した。
午前一時四十八分。
一分しか経っていなかった。
「何やってんだ、俺」
小さく呟いたときだった。
路地の奥から、何かを擦るような音が聞こえた。
顔を上げる。
街灯の光が届かない場所で、何かが動いた。
猫かと思った。
けれど、暗がりから出てきたのは、小さな男の子だった。
小学校の低学年くらいだろうか。
薄い半袖のシャツに、膝まである短いズボン。片方の足にはサンダルを履いていたが、もう片方は裸足だった。
男の子は俺を見ると、その場で足を止めた。
俺も動けなかった。
こんな時間に、小学生が一人で歩いている。
どう考えても普通ではない。
「……どうしたの?」
できるだけ優しく聞いたつもりだった。
男の子は答えない。
俺から視線をそらし、壁際にしゃがみ込んだ。両腕で膝を抱え、顔を伏せる。
俺は迷った。
声をかけないほうがいいのかもしれない。
知らない中学生に近づかれたら、怖いに決まっている。
それでも、このまま置いて帰るわけにはいかなかった。
「家、近い?」
返事はない。
「迷った?」
男の子の肩が、わずかに動いた。
泣いているのかもしれない。
俺は男の子から少し離れた場所にしゃがんだ。
近づきすぎないようにした。
「俺は悠斗」
名乗ってから、何をしているのだろうと思った。
名前を教えたところで、安心してもらえるとは限らない。
「中学二年生。怪しい人じゃない」
言ってから、それは怪しい人が言う台詞だと思った。
男の子が少しだけ顔を上げた。
「……怪しい」
「だよな」
思わず答えると、男の子の口元がほんの少し動いた。
笑ったのかどうかは分からなかった。
「ここで何してるの?」
「帰らない」
初めて返事があった。
「帰らないって、家に?」
男の子は頷いた。
それきり、また黙ってしまう。
俺にはどうすればいいのか分からなかった。
警察を呼ぶべきなのだろうか。
でも、本人が嫌がっているのに勝手に呼んでいいのか。
家に帰せばいいのか。
そもそも、家がどこなのかも分からない。
自分一人では、何も決められなかった。
足音が聞こえた。
振り返ると、大河たちが路地へ入ってくるところだった。
大河、玲、咲希、奈緒。
大河の手にはコンビニの袋が下がっている。
俺は立ち上がった。
少し安心した。
昨日会ったばかりの人たちなのに、その姿を見ただけで助かったと思った。
「悠斗、早いじゃん」
咲希が手を上げた。
「散歩は?」
「今、休憩してた」
「待ってたって言えばいいのに」
咲希は笑いながら近づいてきたが、壁際にいる男の子を見つけると、すぐに表情を変えた。
「その子、誰?」
「分からない。来たら、ここにいた」
大河がコンビニの袋を玲に渡した。
そして男の子の前まで行くと、少し距離を空けてしゃがんだ。
「家出?」
男の子は答えない。
大河は急かさなかった。
「名前は?」
やはり返事はない。
「腹減ってる?」
男の子の視線が、大河の後ろにいる玲へ向いた。
正確には、玲が持っているコンビニの袋を見ていた。
大河もそれに気づいた。
「玲、何かある?」
玲が袋の中を確認する。
「パン」
「甘いやつ?」
「焼きそば」
「もっと子供が好きそうなのねえの?」
「俺に言うな」
奈緒が自分の鞄を開けた。
中から、袋に入った小さなドーナツを取り出す。
「これなら」
大河が受け取り、男の子の前に置いた。
手渡そうとはしなかった。
「食っていいよ」
男の子はすぐには動かなかった。
大河が少し離れると、ようやくドーナツへ手を伸ばした。
袋を開ける指が震えている。
奈緒が男の子の足元を見た。
「片方、靴ないじゃん」
裸足のほうには、小さな傷がいくつもあった。血は止まっているが、砂や小石が付いている。
「洗ったほうがいい」
奈緒はペットボトルの水とティッシュを取り出した。
男の子に「触っていい?」と聞く。
男の子が頷いてから、傷についた汚れを洗い流した。
「ちょっと痛いかも」
奈緒が言う。
男の子は唇を噛みながら耐えた。
「家、どの辺?」
大河がもう一度尋ねる。
「帰らない」
「帰れとは言ってねえよ。近いのか聞いてるだけ」
男の子は黙った。
咲希がその隣へ座る。
「私も帰りたくないから、ここにいるよ」
大河が咲希を見た。
「お前の話は今いい」
「同じ人がいるって分かったほうが安心するでしょ」
咲希は男の子へ笑いかけた。
「帰りたくないなら、無理に帰らなくていい。でも、何があったか分かんないと、うちらもどうしたらいいか分かんないんだ」
咲希の声は、昨日までとは少し違っていた。
ふざけていなかった。
男の子はドーナツの袋を握ったまま、俯いている。
大河が俺を見た。
「悠斗」
「何?」
「こいつと一緒にいてやって」
「俺が?」
「俺らより、お前のほうが怖くなさそうだから」
それが褒め言葉なのかは分からなかった。
けれど、任された。
昨日会ったばかりの俺に、大河が男の子を任せた。
俺は男の子の近くへ座った。
大河たちは少し離れた場所へ移動した。
完全に見えなくなるほど遠くはない。ただ、話し声が聞こえないくらいの距離を空けてくれた。
俺は男の子と並んで壁にもたれた。
「ドーナツ、おいしい?」
男の子が頷く。
「俺も甘いやつ好き」
「子供じゃん」
「中学生だから、そっちよりは大人だよ」
「中学生も子供」
「それ言ったら、大河たちもだいたい子供になる」
男の子は少しだけ笑った。
しばらく二人で黙っていた。
俺は何も聞かなかった。
本当は、どうして家から出てきたのか知りたかった。
でも、話したくないことを無理に聞かれる苦しさは知っている。
「お父さんが」
男の子が突然言った。
俺は顔を向けた。
「うん」
「お母さんに、怒ってた」
「喧嘩?」
男の子は頷いた。
「物、投げた」
「誰か、怪我した?」
「分かんない。僕、逃げたから」
男の子の声が震え始めた。
「お母さん置いてきた」
それが一番苦しかったのだろう。
自分だけ逃げたことを後悔している。
俺にも、その気持ちは少し分かった。
怖くて逃げただけなのに、自分が悪いことをしたように思えてしまう。
「逃げていいと思う」
俺は言った。
「怖かったんだろ」
男の子が頷く。
「だったら、逃げていいよ」
「でも、お母さんが」
「それは大人に助けてもらおう」
口に出してから、胸の奥が少し痛んだ。
俺は大人に助けてもらえなかった。
先生に話しても、何も解決しなかった。
それでも、この子の母親を俺たちだけで助けることはできない。
大河たちのところへ戻り、今聞いた話を伝えた。
大河はすぐにスマートフォンを取り出した。
「警察呼ぶぞ」
咲希の顔から笑みが消えた。
「警察、来るの?」
「当たり前だろ。母親が危ないかもしれねえんだぞ」
「私たちが呼ばなくてもよくない?」
「じゃあ誰が呼ぶんだよ」
咲希は何も言わなかった。
大河は周りを見回した。
地面には酒の缶が置かれている。玲の手には火のついた煙草があった。
警察が来れば、当然見つかる。
「面倒なことになるかも」
奈緒が言った。
「分かってる」
大河は迷わず通報した。
場所と状況を説明する。
自分の名前を聞かれると、一瞬だけ黙った。
「成瀬です。成瀬大河」
結局、正直に答えた。
電話を切ったあと、大河は男の子のところへ戻った。
「警察来るからな」
男の子は怯えた顔をした。
「怒られない?」
「お前は何も悪いことしてねえだろ」
「でも、勝手に家出た」
「逃げただけだ」
大河は男の子と目を合わせた。
「怖いところから逃げるのは、悪いことじゃねえよ」
路地の入り口から、荒い足音が聞こえた。
全員がそちらを見る。
スーツ姿の男が立っていた。
ネクタイは緩み、シャツの裾がズボンから出ている。顔が赤く、酒の臭いが離れた場所にいても分かるほどだった。
男の子の身体が固まった。
「お父さん」
男が俺たちを見回す。
そして、男の子を見つけると早足で近づいてきた。
「何やってるんだ!」
怒鳴り声が路地に響いた。
男の子が俺の後ろへ隠れた。
「こっち来い!」
父親が男の子の腕を掴もうとする。
大河が間に入った。
「待ってください」
「何だ、お前」
「こいつ、帰りたくないって言ってます」
「家族の問題だ。お前らには関係ない」
父親は大河の肩を押した。
大河は一歩下がったが、そこをどかなかった。
「警察呼びました」
「ふざけるな!」
父親が大河の胸ぐらを掴んだ。
玲と奈緒が同時に立ち上がる。
大河は父親の腕を掴み返さなかった。
ただ、男の子との間に立ち続けた。
「お父さん、やめて」
男の子が俺の服を握りながら言った。
小さな声だった。
父親には聞こえていない。
いや、聞こうとしていなかった。
学校の教室を思い出した。
俺が何を言っても、誰も聞かなかった。
助けてほしかった。
一人でいいから、隣に立ってほしかった。
でも、誰も来なかった。
喉が苦しくなった。
怖かった。
ここで黙っていても、誰も俺を責めないと思う。
大河がいる。
玲も奈緒もいる。
俺が何かを言う必要はない。
それでも、後ろで男の子の手が震えていた。
「この子は!」
自分でも驚くほど、大きな声が出た。
父親が俺を見る。
一瞬、言葉が止まりそうになった。
「家で物を投げたって言ってました」
「子供の言うことだぞ」
「怖くて逃げたって」
「お前に何が分かる」
「分かりません」
声が震える。
手も震えていた。
「でも、帰りたくないって言ってるのは分かります」
父親が俺へ近づこうとした。
その瞬間、大河が俺の前に立った。
玲も隣へ並ぶ。
奈緒は男の子の肩を抱いた。
一人ではなかった。
遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
父親が舌打ちをする。
数分後、二人の警察官が路地へ入ってきた。
大河が事情を説明した。
男の子も、俺たちに話したことを警察官へ伝えた。
父親は何度も家族の問題だと主張していたが、男の子とは引き離され、別々に話を聞かれることになった。
母親の様子も、別の警察官が確認へ向かうらしい。
男の子が警察車両へ乗る前、俺のところへ来た。
「悠斗お兄ちゃん」
俺はしゃがんだ。
「何?」
「ありがとう」
そう言って、男の子は警察官と一緒に歩いていった。
俺は、その後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
「お前、声出るじゃん」
玲が言った。
「え?」
「さっきの親父に言ってただろ」
自分の手を見る。
まだ少し震えていた。
怖くなかったわけではない。
それでも今夜は、黙らなかった。
「悠斗」
大河に呼ばれた。
振り返ると、大河が俺を見ていた。
「ありがとな」
たったそれだけだった。
でも、その一言が胸の奥に残った。
大河は、俺が助けてもらったとは言わなかった。
俺も一緒に誰かを助けたのだと、認めてくれた。
警察官の一人が、地面に置かれた酒の缶へ目を向けた。
その視線が、玲の足元にある吸い殻へ移る。
「ところで君たち」
さっきまで少年に向けられていた声が、今度は俺たちへ向けられた。
「全員、ここに残ってくれるかな。少し話を聞かせてもらいたい」
空気が変わった。
大河は地面の空き缶を見た。
玲を見る。
咲希と奈緒を見る。
最後に、俺を見た。
「分かりました」
大河は素直に答えた。
警察官が父親のほうへ向き直る。
その瞬間、大河が、俺たちにだけ聞こえる声で言った。
「三つ数えたら走れ」




