散歩の理由
「見せ物じゃねえぞ」
少年の声が、細い路地に響いた。
逃げなければ。
頭ではそう思っているのに、足が動かなかった。
俺を睨んでいる少年は、集まっている連中の中で一番身体が大きかった。黒いパーカーの袖を肘までまくり、ビールケースから立ち上がっている。
怒っている。
少なくとも、俺にはそう見えた。
「……ごめんなさい」
反射的に頭を下げた。
何に対する謝罪なのか、自分でも分からなかった。
見ていたことか。
勝手に同情したことか。
それとも、この場所に立ち入ったことか。
学校でもそうだった。
誰かの機嫌が悪くなると、俺はいつも先に謝った。自分が悪いかどうかは関係ない。謝れば、それ以上ひどくならずに済むかもしれないからだ。
「いや、謝れって言ってんじゃなくて」
少年は面倒そうに頭をかいた。
「お前、昨日もいたよな」
心臓が大きく鳴った。
気づかれていた。
自分では、できるだけ見ないように通り過ぎたつもりだった。
「昨日だけじゃないよ」
横から女の子の声がした。
昨日、泣いていた子だった。
今日は目元も赤くない。地面に座って膝を抱え、こちらを見ながら笑っている。
「その前の日もいた」
「余計怪しいじゃねえか」
少年の声がさらに低くなった。
周りの視線が、一斉に俺へ集まる。
喉の奥が詰まった。
クラスで教師に名前を呼ばれたときの感覚に似ていた。
俺が何を答えても、周りの連中はそれを面白がる。言葉を間違えれば、それが次の日から俺のあだ名になる。
何も言わないほうがいい。
黙っていれば、やがて興味を失ってくれる。
そう思って俯くと、女の子が立ち上がった。
「もしかして、警察?」
「違う」
それだけは、すぐに否定できた。
「じゃあ、補導員?」
「こんな若い補導員いるかよ」
背の高い少年が呆れた声を出した。
女の子は「変装してるかもしれないじゃん」と言いながら、俺の顔を覗き込んだ。
近い。
俺が一歩下がると、女の子も一歩進んできた。
「警察に言うつもり?」
「言わない」
「本当に?」
「俺には関係ないから」
そう答えると、少し離れた場所から声がした。
「関係ないなら、三日も来ねえだろ」
壁にもたれて煙草を吸っていた少年だった。
長めの前髪の隙間から、こちらを見ている。
責めるような言い方ではなかった。
ただ、事実を言っただけのような声だった。
俺は何も答えられなかった。
確かにその通りだった。
関係ないと思っているなら、この道を避ければいい。駅から家まで帰る道なら、他にいくらでもある。
それなのに俺は、三日続けてここへ来た。
「何しに来たの?」
目の前の女の子が尋ねた。
「別に」
「別にじゃ分かんない」
「散歩」
「毎晩?」
俺は頷いた。
「こんな時間に?」
もう一度、頷いた。
女の子は俺の格好を上から下まで眺めた。
黒いジャージ。履き慣れたスニーカー。中身のほとんど入っていない小さなショルダーバッグ。
「本当に散歩っぽい」
「だから言っただろ」
「でも、わざわざここ通る必要なくない?」
また答えられなくなった。
自分でも理由が分からなかった。
昨日泣いていた女の子が、今日は笑っているのか確かめたかった。
そんなことを正直に言えば、もっと気味悪がられるかもしれない。
俺が黙っていると、身体の大きな少年がため息をついた。
「まあ、警察じゃねえならいいけど」
それで話は終わったらしい。
少年は元いたビールケースへ戻り、腰を下ろした。他の連中も、俺への興味を失ったように会話を再開する。
昨日泣いていた女の子だけが、その場に残った。
「帰るの?」
そう聞かれた。
「そのつもり」
「ふうん」
女の子は少し考えるように俺を見たあと、足元にあった空のビールケースを蹴った。
ケースが地面を擦り、低い音を立てながら俺の前まで滑ってくる。
「散歩の途中なら、休んでけば?」
俺はビールケースと女の子の顔を交互に見た。
「ここに?」
「他にどこがあるの」
女の子が笑う。
「座れば」
すぐには動けなかった。
煙草と酒。
夜中の裏路地。
名前も知らない少年少女たち。
今まで俺が、近づいてはいけないと教えられてきたものが、全部そこにあった。
母さんが見たら、きっと心配する。
先生が見たら、やはり自分の指導は正しかったのだと思うかもしれない。学校に来なくなった白石悠斗は、夜の町で不良と付き合うようになった。そう説明すれば、全部俺の問題にできる。
それでも、学校の教室へ入るより、目の前の輪に加わるほうが怖くなかった。
俺はゆっくりとビールケースに腰を下ろした。
地面が平らではないせいで、少しぐらついた。
「名前は?」
女の子が元の場所へ戻りながら聞いた。
「白石」
「下は?」
「悠斗」
「悠斗ね。私は咲希」
女の子――咲希は、自分の胸を指さした。
それから、先ほど俺を怒鳴った少年を指さす。
「でかいのが大河」
「その紹介やめろ」
大河が不満そうに言った。
「で、煙草吸ってる無愛想なのが玲」
壁際にいた少年は、煙草を持っていないほうの手を少し上げた。
「こっちは奈緒」
咲希の隣に座っていた、短い髪の女の子が俺を見る。
「よろしく」
奈緒はそれだけ言って、手に持っていたスマートフォンへ視線を戻した。
他にも二人いたが、全員の名前を一度に聞いても覚えられそうになかった。
咲希は俺の隣に座った。
さっきまで皆の中心にいたのに、わざわざ輪の端まで移動してきた。
「悠斗、いくつ?」
「十四」
「じゃあ奈緒と同じだ」
「私はもうすぐ十五」
奈緒がスマートフォンから目を離さずに訂正した。
「ほとんど同じじゃん」
「一緒にしないで」
「学校は?」
咲希に聞かれ、身体が固まった。
さっきまでは普通に答えられていたのに、その一言だけで息苦しくなった。
どこの中学なのか。
明日は休みなのか。
こんな時間まで出歩いていて平気なのか。
次に来る質問を、勝手に想像した。
「咲希」
大河が名前を呼んだ。
咲希が振り返る。
「最初から全部聞くな」
「別にいいじゃん」
「答えたくなさそうだろ」
咲希は俺の顔を見た。
そこでようやく、俺が俯いていることに気づいたらしい。
「ああ、ごめん」
それだけ言って、質問をやめた。
理由は聞かれなかった。
学校へ行くべきだとも言われなかった。
少しの沈黙のあと、奈緒がスマートフォンを見ながら呟いた。
「明日の小テスト、マジでいらない」
「学校の話すんなって」
咲希が言う。
「今のは私の話」
「何の小テスト?」
「英単語」
「そんなの全部勘でいけるでしょ」
「英語を何だと思ってんの?」
奈緒がようやく顔を上げた。
「大河、十二月って英語で何?」
「俺に振んな」
「絶対分かってないじゃん」
「分かるわ。あれだろ。クリスマス」
「それ英語ですらないから」
皆が笑った。
俺も少しだけ笑った。
本当にどうでもいい話だった。
大河の靴下に穴が開いているとか、駅前のコンビニで売り始めた新しい肉まんがまずかったとか、玲は十分以上一言も喋っていないけれど本当に起きているのかとか。
誰かの悪口で笑うわけではない。
ここにいない人間を標的にして、自分たちの仲のよさを確かめるわけでもない。
そんな笑い方があることを、俺はしばらく忘れていた。
「飲む?」
咲希が開けていない缶を持ち上げた。
酒だった。
俺が答えられずにいると、咲希は俺の表情を見て、すぐに缶を引っ込めた。
「やめとく?」
「……うん」
「そっか」
それだけだった。
断った理由を聞かれることも、子供扱いされることもなかった。
大河が咲希の手から缶を取り上げる。
「そもそも中坊に勧めんな」
「大河だって飲んでるじゃん」
「俺が飲むのと、こいつに飲ませるのは別だろ」
「二歳しか違わないくせに」
「二歳はでけえよ」
二人が言い合っている間に、玲が煙草を足元へ落とした。
靴の裏で火を消す。
煙が俺のほうへ流れていたことに気づいたのかもしれない。
玲は何も言わなかったし、俺も何も言わなかった。
ただ、その仕草だけは妙に印象に残った。
しばらくすると、咲希があくびをした。
スマートフォンを見ると、もう午前四時を過ぎていた。
「そろそろ帰るぞ」
大河が立ち上がった。
「まだ大丈夫」
咲希が言った。
「昨日もそれ言ってただろ」
大河の声が少しだけ低くなった。
咲希は何も返さなかった。
昨日、咲希が泣いていた理由を聞こうとして、俺はやめた。
聞いていいことなのか分からなかった。
玲が壁から背中を離した。
「俺、送る」
「一人で帰れるって」
「知ってる」
玲はそれ以上説明しなかった。
咲希も、今度は断らなかった。
奈緒は逆方向らしく、大河と一緒に帰るようだった。
誰かが泣いていたことを、次の日になったからといって忘れない。
もう笑っているから大丈夫だと、勝手に決めつけたりもしない。
学校の先生が何度も口にしていた「思いやり」という言葉を、ふと思い出した。
あの言葉の意味を、俺はここへ来て初めて見た気がした。
俺も立ち上がった。
長く座っていたせいで、足が少し痺れていた。
「じゃあな」
大河が言った。
俺は小さく頭を下げる。
「……さようなら」
大河が眉を寄せた。
「なんで二度と会わねえみたいになってんだよ」
「え?」
「またな、悠斗」
自分の名前を呼ばれた。
学校では、名字で呼ばれることのほうが多かった。
白石。
おい、白石。
聞こえてんのか、白石。
名前なんて、ただ自分を呼ぶための音でしかないと思っていた。
けれど大河に呼ばれた「悠斗」は、今まで聞いてきたものとは違う音に聞こえた。
「……また」
うまく言葉が出なかった。
それでも大河には伝わったらしい。
片手を上げて、奈緒と一緒に路地を出ていった。
玲と咲希も反対方向へ歩いていく。
少し離れたところで、咲希が振り返った。
「またね、悠斗」
俺は今度こそ、頷いた。
一人になった路地には、空のビールケースが残っていた。
さっきまで誰かがいた場所。
俺が座っていた場所。
家へ戻る道を歩きながら、何度も今夜の会話を思い返した。
何か特別なことを話したわけではない。
悩みを打ち明けたわけでも、助けてもらったわけでもない。
名前を聞かれて、少し笑って、同じ場所に座っていただけだ。
それなのに、部屋へ帰ってからも、胸の奥にわずかな温かさが残っていた。
次の夜、散歩へ出る理由を、俺はもう探さなくてよかった。




