夜は良い
夜は良い。
夜の町を歩いていると、なんとなく良い気分になれる。
昼間なら人や車で埋まっている道も、今は驚くほど静かだ。閉じた店のシャッターが並び、信号機は誰もいない交差点に向かって、赤と青を律儀に繰り返している。
俺に学校のことを聞く人はいない。
制服を着た同年代のやつらもいない。
誰も俺を見ない。俺が何をしているのか、どこへ向かっているのか、気にする人間もいない。
全てから解放されて、自由になったような感覚。
それが俺は、たまらなく好きだった。
俺は白石悠斗。
中学二年生。
現在、学校には行っていない。
原因はいじめだ。
もっとも、最初から俺が標的だったわけではない。
最初にいじめられていたのは、クラスの別の男子だった。
いつも一人で、声が小さくて、何を言われても曖昧に笑っているようなやつだった。給食の牛乳を勝手に取られても、上履きを隠されても、そいつは怒らなかった。
怒らなかったというより、怒れなかったのだと思う。
周りのやつらは、その様子を見て笑っていた。
いじめをしているゴミ。
それを見ながら、自分には関係ないという顔をしているカス。
気づいているくせに、面倒を起こしたくなくて何もしない大人たち。
全部にうんざりしていた。
だから、そいつの上履きを持ってふざけていた男子から、俺はそれを取り返した。
別に、殴り合いをしたわけではない。
「返せよ」
そう言って、奪い取っただけだ。
今から考えれば、本当にそれだけだった。
それだけのことで、教室の空気が変わった。
「何、お前。あいつの味方なの?」
誰かがそう言った。
周りのやつらが笑った。
俺も笑った。
別に面白かったからじゃない。怖かったからだ。
ここで本気になったら駄目だと思った。冗談として流してしまえば、明日からは何もなかったことになる。そんなふうに考えていた。
もちろん、何もなかったことにはならなかった。
次の日、俺の上履きがなくなった。
その翌日には、机の中に濡れた雑巾が入っていた。
俺が教室に入ると、それまで騒いでいた連中が急に静かになった。俺が席に着いた途端、今度は笑い声が聞こえた。
スマホを向けられることもあった。
何を撮られたのかは分からない。
分からないからこそ、怖かった。
それでも二か月ほどは学校へ通った。
これは人助けの代償なのだと思うことにした。
一人を助けるのなら、このくらいのことは覚悟しないといけない。
そう思えば、自分が学校へ行く意味を保てる気がした。
でも、無理だった。
ギブアップ。
ある朝、制服に着替えて、鞄を持って、玄関まで行った。
そこから動けなくなった。
靴を履けばいいだけだった。
右足を入れて、次に左足を入れる。それだけでよかったのに、身体が言うことを聞かなかった。
息がうまく吸えなくなって、制服のまま玄関に座り込んだ。
その日から、学校へは行っていない。
先生に相談したことがないわけではない。
けれど、あいつらは先生に媚びを売るのだけはうまかった。
授業中にはきちんと手を挙げる。先生の荷物を運ぶ。廊下ですれ違えば、元気よく挨拶をする。
クラスのほとんどが口裏を合わせていた。
「そんなことしてません」
「ただの冗談です」
「白石くんも笑ってました」
確かに、俺も笑っていた。
笑うしかなかっただけなのに。
先生は俺と相手を向かい合わせて、何か誤解があったんだろうと言った。そして、お互いに謝って仲直りしよう、と続けた。
何に対して謝ればいいのか、俺には分からなかった。
結局、相手が頭を下げたので、俺も頭を下げた。
その日の放課後、いじめは前よりひどくなった。
家に引きこもってからは、昼間に寝るようになった。
外から同年代の話し声が聞こえてくるのが嫌だった。
笑いながら家の前を通り過ぎていく声を聞くだけで、俺の知らないところで自分の悪口を言われているような気がした。
だからカーテンを閉め、布団を頭までかぶって眠った。
起きるのは、だいたい夜の十二時前後。
ゲームをしたり、動画を見たりして時間を潰した。
別につまらないわけではない。
ゲームに勝てば少しは嬉しいし、面白い動画を見れば笑うこともある。
ただ、画面を閉じた瞬間には何も残らなかった。
今日も一日、何もしなかった。
そんな感覚だけが残った。
引きこもり始めて三か月ほど経ったころ、俺は夜の散歩を始めた。
きっかけと呼べるようなものはない。
ある夜、なんとなく窓を開けた。
冷たい風が部屋に入ってきた。
外は静かだった。
今なら誰にも会わずに歩けるかもしれない。そう思った。
最初は家の周りを一周するだけだった。
次は駅の近くにあるコンビニまで行った。飲み物を一本買い、来た道をそのまま戻った。
何度か繰り返すうちに、少しずつ遠くまで歩けるようになった。
最近では、大通りを外れて裏路地に入ることもある。
昼間なら絶対に近づかないような、古い雑居ビルの並ぶ道。割れた看板や、錆びた自転車が放置されている細い路地。
そこで、あいつらを見かけた。
俺と同い年か、少し年上くらいの少年少女が、閉店した店の裏口に集まっていた。
五、六人はいただろうか。
地面に直接座っているやつもいれば、ビールケースを椅子代わりにしているやつもいた。
一人が煙草を吸っていた。
別のやつが、コンビニの袋から酒の缶を取り出した。
どう見ても全員、未成年だった。
俺は目を合わせないようにして、その前を通り過ぎた。
ただの不良だと思った。
関わらないほうがいい。
学校にいた連中とは種類が違うだけで、ろくな人間ではない。
そのはずだった。
次の日も、俺は同じ路地を通った。
別の道はいくらでもあった。それでも、気がつけば昨日と同じ場所へ向かっていた。
あいつらは、その夜もいた。
メンバーもたぶん同じだった。
ただ、昨日とは様子が違った。
髪の長い女の子が、顔を伏せて泣いていた。
周りのやつらは笑っていなかった。
煙草を持っていた少年は火を消し、女の子の話を黙って聞いていた。隣に座った少女が、その背中をゆっくりさすっている。
「大丈夫だから」
泣いている女の子が言った。
すると、正面に座っていた少年が答えた。
「大丈夫なやつは、そんな顔しねえよ」
誰も無理に笑わせようとはしなかった。
何があったのか、俺には分からない。
けれど、誰もその子を置いて帰ろうとはしなかった。
俺は足を止めないまま、横目でその光景を見た。
学校で俺が苦しんでいたとき、誰かがああやって隣に座ってくれただろうか。
先生は話を聞くと言った。
クラスのやつらは心配しているふりをした。
けれど、本当に俺の話を聞いた人間は、一人もいなかった。
未成年で煙草を吸うのは、正しくない。
酒を飲むのも、正しくない。
そんなことは俺にだって分かっている。
それなら、人を傷つけながら先生にだけは良い顔をするやつは、正しいのだろうか。
苦しんでいる人間を見ても、面倒だからと見て見ぬふりをするやつは、正しいのだろうか。
分からなくなった。
いや。
もしかすると俺は、今まで一度も分かっていなかったのかもしれない。
その日は声をかけず、家へ帰った。
布団に入ってからも、泣いていた女の子と、その背中をさすっていた手のことを考えた。
翌日の夜。
俺はまた、同じ裏路地を歩いていた。
昨日泣いていた女の子は、今日は笑っていた。
真ん中に座っている少年が何かを話すたび、周りから笑い声が上がる。
その姿を見て、少しだけ安心した。
どうして俺が安心するのか、自分でも分からなかった。
しばらく離れたところから眺めていると、一人の少年がこちらを向いた。
目が合った。
少年の表情から笑みが消えた。
「何、こっち見てんだよ」
低い声だった。
他のやつらも、次々に俺を見る。
逃げなければ。
頭ではそう思ったのに、足が動かなかった。
少年は立ち上がり、俺に向かって言った。
「見せ物じゃねえぞ」




