第五十八話 「霧島陽花」
――その日の放課後。
私は教室の前で、月依を待っていた。
帰る約束をしたからだ。
ただ、それだけ。
……それだけのはずなのに。
「お姉ちゃん、お待たせ」
「う、うん」
月依が鞄を持って教室から出てくる。
いつもと同じ笑顔。
いつもと同じ声。
「帰ろっか」
「うん」
二人で並んで歩き出す。
廊下を抜けて。
階段を下りて。
校舎の外へ。
何も変わらない。
本当に、何も。
「…………」
「…………」
なのに。
今日は妙に会話が少ない。
いや。
正確には、私が何を話せばいいのか分からない。
昨日までなら。
今日の授業がどうだったとか。
先生がどうだったとか。
夕飯は何にしようとか。
そんなくだらない話を普通にしていた。
でも今日は。
頭の片隅にずっと、あの言葉が残っている。
――好きな人。
霧島陽花。
「…………」
私は横目で月依を見る。
月依も前を向いて歩いている。
……聞いてみる?
いや。
無理だ。
もし本当に私のことを好きな人として書いていたら?
……どうするんだ。
逆に。
もし全然違う意味だったら?
私は何を意識してるんだ。
「…………お姉ちゃん」
「えっ」
「さっきから何度もこっち見てるよ」
「見てない」
「見てた」
「見てないって」
「じゃあ、今も見てない?」
「…………」
月依が笑う。
「見てるじゃん」
「……もう」
私は前を向いた。
「なんか今日のお姉ちゃん、変」
「アカリにも言われた」
「やっぱり?」
「やっぱりって何」
「朝からずっと変だったから」
「……そんなに?」
「うん」
月依が少し考えるように首を傾げる。
「昨日の資料のこと?」
「…………」
また、その話だ。
「……うん」
私は観念して答えた。
「気になってる」
「そっか」
月依はそれだけ言った。
そして。
しばらく黙って歩いた。
校門を出る。
夕方の風が吹く。
少しだけ涼しい。
「お姉ちゃん」
「なに?」
「ちょっと寄り道していい?」
「え?」
「話したいことがあるの」
「……話したいこと?」
「うん」
月依はそう言って、いつもの道から少し外れた。
私はその後ろをついていく。
やがて、人の少ない中庭の端まで来た。
月依が立ち止まる。
「…………」
「…………」
突然、静かになった。
さっきまで普通に話していたのに。
月依は何かを言おうとして。
でも、なかなか口を開かない。
「月依?」
「……うん」
月依が振り返る。
その顔は。
いつもの笑顔じゃなかった。
少し緊張している。
「お姉ちゃん」
「うん」
「昨日の資料のことなんだけど」
「……うん」
「私、アカリに見られたって聞いた」
「え?」
「今日、教えてもらったの」
そう言って、月依は小さく息を吸った。
「だから……ちゃんと話そうと思って」
「…………」
心臓が跳ねる。
まさか。
いや。
落ち着け。
まだ何も決まってない。
「昨日の資料に書いてあったこと」
月依が私を見る。
「『好きな人』ってところ」
「…………」
私は何も言えなかった。
「お姉ちゃん」
「うん」
「そこに書いた名前」
月依が一度、目を逸らす。
それから。
もう一度、私を見る。
「霧島陽花」
「…………」
「お姉ちゃんのこと」
「……うん」
声が出ない。
「私が書いた」
「…………」
「間違いじゃないよ」
頭の中が真っ白になる。
「私は」
月依が言葉を続ける。
「お姉ちゃんのことが好き」
「…………」
聞こえている。
ちゃんと聞こえている。
なのに。
理解するまでに、少し時間がかかった。
「……え?」
「好き」
月依は、今度ははっきりと言った。
「私は、お姉ちゃんが好き」
「…………」
「家族として大切だから、とか」
「…………」
「そういう意味だけじゃなくて」
月依の頬が少し赤くなる。
「一人の人として」
「…………」
「私は、お姉ちゃんのことが好き」
何も言えなかった。
頭の中で。
昨日からずっと引っかかっていた言葉が。
一つずつ繋がっていく。
好きな人。
霧島陽花。
あれは。
本当に。
「……私?」
「うん」
「本当に?」
「うん」
「……私のこと?」
「そうだよ」
月依が少し困ったように笑った。
「だから、お昼からずっと変だったんだね」
「…………」
「お姉ちゃん、分かりやすいから」
「……うるさい」
私は顔を逸らした。
胸が苦しい。
というより。
どうしていいのか分からない。
「……ごめん」
月依が言った。
「え?」
「困らせたよね」
「…………」
「急にこんなこと言われても困ると思う」
「月依……」
「でも」
月依は笑った。
少しだけ寂しそうに。
「これだけは、ちゃんと伝えたかった」
「…………」
「お姉ちゃんに嘘をつきたくなかったから」
私は月依を見る。
いつも明るくて。
何でも前向きで。
私よりずっとしっかりしていて。
そんな月依が。
今は少しだけ震えていた。
「……私」
口を開く。
でも。
何を言えばいいのか分からない。
「ごめん。今すぐ答えは……」
「うん」
月依は頷いた。
「分かってる」
「…………」
「すぐに答えなくていいよ」
そう言って。
月依はいつもの笑顔を見せた。
「ただ、知ってほしかっただけ」
「…………」
「私が、お姉ちゃんのことを好きだって」
夕方の風が吹く。
制服の裾が揺れる。
私は何も答えられないまま。
ただ、月依を見つめていた。
昨日までとは。
もう、同じには戻れない気がした。
――そして。
その日。
私の妹は。
私に告白した。




