第五十五話 「それは絶対そうして」
火曜日。
昨日の一件のせいで、私は朝からものすごく学校に行きたくなかった。
会社の資料を。
しかも妹の資料を。
学園全体に送信してしまった。
昨日の夜から何度思い返しても、やっぱり私はとんでもないことをしてしまった気がする。
「……帰りたい」
「まだ学園にも入っとらんやん」
「ひゃっ!?」
隣から突然声をかけられて飛び上がる。
「おはよう、陽花はん」
「お、おはよう、ヒルコちゃん……」
いつもの制服姿のヒルコちゃんが、呆れたように私を見る。
「昨日のこと、まだ気にしとるん?」
「そりゃ気にするよ……」
「でも月依はん、怒ってへんのやろ?」
「それは……そうだけど」
「ほんなら、ええやん」
「よくないよ」
「なんで?」
「だって妹の資料だよ?」
「せやから?」
「せやからって……」
私は言葉に詰まる。
確かに、月依本人は気にしていない。
でも、私がやらかしたことには変わりない。
「……はぁ」
「まあ、考えすぎてもしゃーないで」
ヒルコちゃんはそう言って、先に歩いていった。
「……そうなんだけどなぁ」
私もその後を追った。
教室に入る。
いつもと変わらない朝の風景。
……いや。
ちょっとだけ違う。
何人かの生徒が、私を見ると小声で何か話している。
「…………」
やっぱり知られてる。
そりゃそうだ。
学園全体に送ったんだから。
私はなるべく気にしないように、自分の席へ向かった。
「お姉ちゃん」
「……月依」
月依がこちらを振り返る。
「おはよう」
「おはよう……」
「昨日のこと?」
「……うん」
「だから大丈夫だって」
「でもさ……」
「私、何か困った?」
「それは……」
「でしょ?」
月依は笑った。
「じゃあ、気にしなくていいよ」
「……ほんとに?」
「ほんと」
「でも、みんなに見られてる気がする」
「最初だけじゃない?」
「そうかな……」
「うん。昨日のことなんて、そのうち忘れるよ」
「……月依がそう言うなら」
私は小さく息を吐いた。
本人がこれだけ気にしていないのなら、いつまでも私が引きずっていても仕方ない。
「……ありがと」
「何が?」
「昨日のこと」
「だから気にしてないって」
「うん。でも、ありがと」
「変なお姉ちゃん」
「うるさいなぁ」
月依が笑う。
私も少しだけ笑った。
「ほな、仲直りも済んだみたいやし」
「最初から喧嘩してないよ!?」
横からヒルコちゃんが口を挟んできた。
「せやった?」
「そうだよ」
「まあええやん」
「よくないよ……」
ヒルコちゃんは笑いながら自分の席へ向かう。
私も席に座った。
……うん。
少しだけ気が楽になった。
昨日のことは、昨日のこと。
月依が気にしていないなら、私も切り替えよう。
そう思ったところで。
「そういや陽花はん」
「なに?」
「昨日の資料な」
「……まだあるの!?」
「いや、そうやなくて」
ヒルコちゃんが振り返る。
「みんな、結構驚いとったで」
「何に?」
「月依はんの成績とか、カムイの適性とか」
「ああ……」
私は月依を見る。
「まあ、月依だしね」
「なんやその納得の仕方」
「だって、昔から勉強できたし」
「まあ、それはそうやけど」
「カムイも使えるし」
「それもそうやけど」
「友達も多いし」
「……陽花はん」
「なに?」
「月依はんのこと、めっちゃ評価しとるな」
「え?」
言われてみれば。
私は少し考えた。
「……そうなのかな」
「そうやで」
「でも妹だよ?」
「それ関係ある?」
「あるでしょ」
「ないと思うけどなぁ」
月依が苦笑する。
「お姉ちゃん、私のこと買いかぶりすぎ」
「そう?」
「うん」
「でも実際、私よりできるじゃん」
「それは……」
月依が少しだけ目を逸らす。
「まあ……」
「ほら」
「そこで勝ち誇らないでよ」
「勝ち誇ってないよ!」
思わず声が大きくなる。
教室の何人かがこちらを振り返った。
「……」
「……」
「……声、大きかったな」
「うん……」
私たちは顔を見合わせる。
そして。
「ふふっ」
月依が笑った。
「お姉ちゃん、朝から元気だね」
「誰のせいだと思ってるの……」
「私?」
「そう」
「じゃあ、よかった」
「何が?」
「元気になったから」
「……」
私は少しだけ黙った。
そういえば。
さっきまで「帰りたい」と思っていた。
でも今は、そこまででもない。
「……まあ、いいか」
「何が?」
「昨日のこと」
私は自分の席に座り直す。
「もう気にしないことにする」
「うん」
「ただし!」
「?」
「次からは会社の資料、ちゃんと確認する」
「それは絶対そうして」
「……はい」
こうして私は、ようやく昨日の一件を引きずるのをやめることにした。
……たぶん。




