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夜をほどく声  作者: reika1021


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3/10

第3章:消した本音

朝の編集室にはまだ人の熱が薄く、窓の外では東京の建物が灰色の輪郭を少しずつ取り戻していた。ガラスに映る空だけが早く起きているかのように淡く明るく、斜森灯花が席に着き、バッグから出したスマホを伏せてモニターの電源を入れると、


夜凪図の投稿一覧には前夜から届いた写真が静かに並んでいた。駅の外階段、川沿いの小さなベンチ、閉店後の路地に残る橙色の明かり。朝の白い光の中で見る夜景は少しだけ身を縮めているように見えた。


灯花は指先を温めるようにマグカップの縁を親指でなぞった。昨日投稿した暗い川沿いの写真は公開後もゆっくり保存されており、派手に伸びるわけではないのに誰かが静かに持ち帰っているような印象があった。


その数字を見て胸の奥に小さな安堵が灯るが、同時に言葉を残す仕事の怖さも戻ってくる。知らない誰かの夜に自分の一文が入っていくのだ。


今日の候補には、駅から少し離れた高架下の夜景があった。細い路地の先に古い街灯がひとつだけ灯っている。投稿者のメモには「好きな人と一度だけ歩いた道です」と書かれていた。


灯花はその短い文を何度も読んだ。「一度だけ」という言い方が胸に残る。何度も通った場所ではなく、一度だけだから消えない景色があるのだ、とそう思ってしまう。


紹介文の入力欄を開き、カーソルが静かに点滅する。灯花はキーボードに指を置き、しばらく何も打てなかった。


「好きな人と見たい夜です」。


ふいに浮かんだ言葉をそのまま打った。打った瞬間、息が止まった。仕事の紹介文としては甘すぎるし、夜凪図の温度に近すぎる。


それでもその一文だけが妙に正直だった。写真の高架下にある小さな街灯も投稿者の短いメモも言い表せない気持ちをそこへ連れて来ているように思えた。灯花は画面から目を離せなかった。


朝の編集室でこんな文章を残してはいけないと分かっているのに、削除キーに伸ばした指が動かない。「好き」という言葉が写真のためではなく、自分のどこかから出てきた気がした。


「早いね」


久遠千景の声が横から聞こえた。


灯花の指先が昨日よりももっと分かりやすく止まった。画面にはまだ、「好きな人と見たい夜です」という一文が残っている。


「おはようございます」


灯花は慌てて画面の端に視線を移した。千景はいつものように少し離れた位置に立っていた。近すぎないのに、声だけが朝の空気を通して灯花の内側まで届いた。


「今日の候補?」


「はい、高架下の投稿です」


灯花は返事をしながら削除キーを押した。一文字ずつ消えていき、「好きな人と見たい夜です」の最後の「す」だけが残り、また指が止まった。


千景の視線が画面の文字ではなく、灯花の指先に置かれている気がした。見られている。そう思った瞬間、耳の奥が熱くなった。


「消す途中だった?」


「はい。少し、違っていたので」


「少し?」


千景の声は責めていない。ただ、灯花が置いた曖昧さを拾っただけだった。


灯花は残った一文字を消した。入力欄が白く戻り、その白さが消したはずの文を逆に浮かび上がらせた。


「アプリの文章としては近すぎました」


「近い文だったんだ」


「見てないですよね」


「全部は見てない」


千景は静かに言った。「全部は」という言葉が引っかかった。灯花は画面の明るさを少しだけ下げた。目が疲れたふりをするには朝はまだ早すぎる。


「見られたら困る文章です」


「困るなら、見ない」


その答えがあまりに素直で灯花は逆に困った。からかわれた方が笑って流せたかもしれないが、千景は時々あえてそういう逃げ道を作らない。


「でも、消したあとに残る温度はあるね」


灯花は顔を上げかけ、やめた。温度。今日もその言葉が来た。千景は、画面に何も表示されていない白い欄を見つめていたが、そこにあったものを読んでいるようだった。


「消したのに、分かるんですか?」


「分かるというより、残る」


「怖いですね」


「怖がらせたいわけじゃない」


千景は少しだけ声を落とした。灯花はその低さに胸の奥を指で押されたような気がした。


「消した文が、一番近い時もあるから」


朝の音が遠くなり、外を走る車の振動や空調の乾いた響き、机の上で小さく鳴る通知音が、薄い膜の向こうへ消えていく。灯花は白い入力欄を見つめたまま、何も返せなかった。


千景はそれ以上踏み込まず、写真だけを見て少し横に立った。高架下の暗い路地、古い街灯、舗装に残る薄い艶。


「この写真、いいね」


「はい。明るくはないんですけど」


「暗い方が、歩いた人の記憶に近い感じがする」


灯花はその言い方にまた少しだけ息を止めた。歩いた人の記憶。写真に写っているものではなく、そこにいた人の体温を見ている。


「投稿メモに、一度だけ歩いた道ってありました」


「一度だけだから、記憶に残ったのかもしれないね」


千景の声は静かだった。灯花は高架下の写真を見つめた。好きな人と一度だけ歩いた道。その一度だけの歩幅、靴音、そして言えなかった言葉を想像してしまう。


想像しすぎるのは仕事として危ないが、想像しなければこの写真の奥へは入れない。灯花はその境目でいつも少しだけ立ち止まる。


「紹介文、もう少し考えます」


「うん、急がなくていいよ」


千景は自席に戻った。灯花は、その背中を見ないようにして白い入力欄に向き直った。消した文の残り香のようなものがまだ指先にある。


午前の編集室は少しずつ仕事に忙殺されていった。通知文の確認、公開順の入れ替え、前夜の投稿の審査。灯花は必要な作業をこなしながら、高架下の写真だけを何度も開いた。


「好きな人と見たい夜です」もう消した文なのに、頭の奥で何度も浮かぶ。仕事の文としては使えない。でも、あれより近い文が思いつかない。


灯花は別の案を打った。


一度だけ歩いた道に、まだ灯りが残っています。


悪くはないが、投稿者のメモをそのままなぞりすぎている。夜凪図の紹介文は、投稿者の心を奪って言い直すものではない。


灯花は消した。今度は最後の一文字を残さず、一息で消しきった。けれど、消せたことがかえって寂しかった。


人は本当に大事な言葉ほど仕事の文章に紛れさせようとするのかもしれない、という考えが浮かんで灯花は自分で少し笑いそうになった。考えすぎだと思いつつ、今日はどうしても胸が先に動いてしまう。


「悩んでる?」


千景の声が少し離れたところから届いた。


「悩んでます」


灯花は素直に答えた。隠すよりも早く言葉が出る。千景は席から立ち上がり、いつもの距離で画面の横に来た。


「どこで止まってる?」


「投稿者の気持ちに近づきすぎると、勝手に言いすぎてしまう気がして」


「うん」


「でも、距離を置くとただの場所紹介になります」


「その間に置きたいんだね」


千景の言い方に灯花は少しだけ肩の力を抜いた。答えではなく灯花がいる場所を言葉にしてくれる。そうされるとまだ迷っていてもいいような気がする。


「間って難しいですね」


「難しいね」


「千景さんはどうやって決めてるんですか?」


「決めきらないまま、最後に残った音を見る」


「音ですか?」


千景は画面の写真を見ていた。高架下の暗がりに、遠く離れた場所の振動が伝わるような気がした。実際には写真だから音はないのに、そこに残っていそうな靴音や車輪の響きを、彼は聞いているのかもしれない。


「文章って、意味より先に音として残ることがあるから」


灯花は、その言葉を胸の中で繰り返した。意味よりも先に、音として残る。千景の声が、まさにそうだった。


朝に聞いた一言が昼の作業中に戻ってくるし、帰り道では言葉の意味よりも声の低さが先に胸に響いた。灯花はそのことに気づき、すぐに気づかなかったふりをした。


「じゃあ、音が残りすぎる文章は危ないですね」


「危ないかもね」


「でも、残らない文章はもっと駄目ですよね」


「うん」


千景は少しだけ笑った。その笑い方はほとんど声に出ないのに、灯花には分かった。


「難しいこと言ってますね、私」


「いいと思う。難しいところで止まっている方が、灯花の文章は良くなる」


灯花は画面に視線を落とした。褒められたのだとわかるが、素直に受け取るには胸の奥が少しざわめく。


「そういう言い方、困ります」


「困る?」


「救われた気がするので」


言ってから、灯花は自分の言葉に驚いた。救われた、という感情は、仕事の会話に置くには重すぎるものだった。千景の方を見ることができなかった。


編集室に流れる音は変わらないのに、灯花の周りだけが静かになったようだった。


「それなら、よかった」


千景はそう言った。短いけれど、逃げない返事だった。


灯花はどう答えればいいのか分からず、カーソルを動かした。高架下の写真に戻る。消した文の甘さがまだ残っているが、それをそのまま戻すことはできない。


昼が近づくにつれて窓際の光は少しずつ硬くなり、編集室の空気には紙の乾いた匂いと温くなった飲み物の香りが混じっていた。灯花は何度も候補文を作っては削った。


一度きりの道にも、光は残ります。


これはきれいすぎる。「残ります」という語尾が安心へ寄りすぎている。


「誰かと歩いた記憶に、街灯がそっと残る夜」。


「そっと」が甘い。街灯が感情を持ちすぎている。


言葉を消すたびに胸の中に別の文が積もっていき、使えない文ばかりが自分の本音に近づいてくる。灯花はそのことに少し疲れ始めていた。


昼の休憩に入っても灯花は席を立てず、マグカップを両手で持ってぬるいお茶をひと口飲んだ。舌に残る苦味がぼんやりした頭を少しだけ覚醒させた。


「休まないの?」


千景が声をかける。


「もう少しだけ」


「もう少し、が長くなる日がある」


「今日はそうかもしれません」


灯花は軽く言ったつもりだったが、千景は少しだけ眉を動かした。その変化は小さかったが、灯花には分かってしまった。


「無理して書くと、明るくしすぎることがある」


「昨日と逆ですね」


「うん。疲れていると、痛いものを早く片付けたくなるから」


灯花はカップを置いた。千景の言葉はまた、仕事の外側へ触れてくる。痛いものを早く片づけたい。確かにそういう日がある。


誰かの未練も自分の気持ちも、整った文章にしてしまえば扱える気がする。けれど、扱える形にした瞬間何かがこぼれ落ちる。灯花は、そのこぼれ落ちる何かを怖がっている。


「今日は、片付けたくないんです」


声に出してから灯花は唇を閉じた。言い過ぎたと思ったが、千景はまた急いで返事をしない。


「なら、片づけない文にしよう」


それは助言であり、仕事の言葉であったが、灯花の胸には別の優しさとして届いた。


灯花は新しい文章を打ち始めた。


言えなかった言葉の近くで光が残っている夜です。


読み返して手が止まった。近い、近すぎる。でもこれまでの中で一番写真に触れている気がした。


「見てもらってもいいですか?」


灯花が自分から言うと、千景は少し驚いたように目を上げたが、すぐに立ち上がった。


「うん」


千景が横に立つ。距離は保たれているけれど、灯花は自分から見せることを選んだせいでいつもより近く感じてしまう。


千景は画面の文章を読む。灯花は、その横顔を見ない。見たら、文字よりも自分の呼吸が気になってしまう。


「いいね」


短い声だった。


灯花は胸の奥で息を吐いたが、すぐに仕事の顔に戻した。


「近すぎませんか?」


「近い」


「ですよね」


「でも、近いことが悪いとは限らない」


千景はそこで少し黙って、写真の中の高架下を見つめた。灯花は、その沈黙の長さから、彼が言葉を削るのではなく残し方を考えているのだと理解した。


「言えなかった言葉は、強いかも」


「はい」


「でも、『その近くで』は残したい」


灯花はカーソルを文の途中に置いた。千景は指示を急がず、灯花が自分でカーソルを動かすのを待っていた。


「たとえば」


千景の声が少し低くなる。


「言葉にしなかった気配の近くで、光が残る夜です」


灯花はその文を打ちながら胸の奥が静かに震えるのを感じた。言葉にしなかった気配。好きな人と見たい夜です、と消した文の輪郭が別の形で戻ってきた。


「これだと、少し夜凪図らしいですね」


「灯花の文も残ってる」


千景はすぐにそう言った。


「言えなかった言葉を完全に消していない。少し遠ざけただけ」


灯花は画面を見た。確かに、本音は消えていない。直接的な形ではなくなっただけで、まだ奥にある。


「消すことと、なかったことにすることは違う、ですね」


口にしてから、灯花は少し恥ずかしくなった。昨日の千景の言葉を覚えていたことがそのまま知られてしまう。


千景は静かにうなずいた。


「覚えてたんだ」


「仕事の話なので」


灯花はすぐにそう言ったが、言い訳としては弱いと自分でも分かっていた。


「うん、仕事の話」


千景は合わせてくれたが、その合わせ方が灯花には余計に残った。仕事の話にしておくために、彼も少しだけ言葉を整えたように思われた。


午後になると、東京の光は窓から少しずつ離れていった。空の色は薄く高く、編集室の中ではモニターの白さが目立った。灯花は高架下の紹介文を調整し、通知文の候補も作った。


「言葉にしなかった気配の近くで、光が残る夜です」。


紹介文としては少し長いけれど、削りすぎると今度は写真の奥行きがなくなる。灯花は句読点の位置を変え、語尾を何度も確かめた。


通知文にはさらに短い一文が必要だった。「言えない夜にも、光は残る」と打ってすぐに消した。「言えない夜」という表現が自分に近すぎる。


消した文だけがどうしてこんなに本音に近づくのだろう。灯花は椅子にもたれず、少しだけ背中を丸めた。肩には朝からの疲れがたまっていた。


千景は向かい側で別の原稿を確認していたが、時々画面ではなく窓の外を見ていた。そのしぐさを見るたびに、灯花もまた同じ方向を見たくなった。


窓の外には昼の終わりに向かう東京があった。まだ夜景と呼ぶには早いけれど、ビルの影の底から少しずつ光の準備が始まっている。


灯花は通知文を打った。


そのまま言えなかった夜へ。


違う。近すぎるし、誰に向けているのかも分からない。灯花はまた消した。


「疲れてきた?」


千景の声が届く。


「少し」


灯花は正直に答えた。以前なら「平気です」と言っていたかもしれないが、今日はその言葉が、画面の明るさみたいに白々しく感じられた。


「休んでから見た方がいい」


「でも、今日中に予約まで」


「できるよ。灯花は今、削る場所を間違えそうになってる」


灯花は手を止めた。その言い方に少しだけ胸が刺されたが、反発するよりも先に図星だと思った。


「分かりますか?」


「分かります」


「どうしてですか?」


「残したいところを消そうとしてるから」


灯花は画面を見た。言葉にしない気配の近くで、光が残る夜だった。たしかに、彼女は気配の部分を消そうとしていた。恥ずかしいから。近いから。読まれたくないから。


「読まれるのが怖い文章ほど、残した方が良いですか?」


「全部ではない」


千景は少し考えてから続けた。


「でも、怖い理由が大事なら、残し方を探した方がいい」


灯花はその言葉を聞き、胸の奥で何かがゆっくり沈むのを感じた。怖い理由。千景に読まれるのが怖い理由。そこまで考えそうになって、灯花はまた視線を画面に戻した。


「休みます」


「うん」


灯花は席を立ち、給湯スペースへ向かった。床を歩く靴音が編集室の静けさに小さく響く。蛇口から水を出すと、金属の匂いを含んだ冷たさが指先に触れた。


マグカップを洗いながら灯花は自分の手を見た。今日、何度も言葉を消した手、好きな人と見たい夜ですと打った手、千景に見せると決めた文を残した手。


水を止めると、編集室の音が戻ってきた。 キーボードの細かな打鍵、紙が動く音、千景が椅子を少し引く音。どれも小さいのに灯花にははっきりと聞こえた。


席に戻ると、画面の文章は少しだけ他人のもののように見えた。距離を取った分、残すべきところも見えてきた。灯花は紹介文を整えた。


言葉にしなかった気配のそばで光が残る夜です。


「近くで、より、そばで」の方が柔らかいけれど、甘すぎない。灯花は何度か読み返して、これ以上触ると壊れてしまいそうだった。


通知文には別の角度を選んだ。


言えなかったことを、夜が少しだけ預かります。


打った後、灯花はしばらく動けなかった。近い。でも使える。夜凪図の言葉として誰かの画面に置ける形になっている。


「千景さん」


自分から呼んだ声が思ったより小さかったが、千景はすぐに顔を上げた。


「見てください」


千景が灯花の席へやって来て、画面を覗き込む。いつもと同じ距離感だが、灯花は胸の内側を少し開けているような心地がした。


千景は紹介文と通知文を読み、灯花は彼の呼吸の変化を聞こうとしてしまった。自分でもおかしいと思うが、彼がどう受け取るかを知りたかったのだ。


「これでいいと思う」


千景の声は静かだった。


「通知文、近すぎませんか?」


「近い。でも、押しつけてない」


「本当に?」


思わず聞き返した。仕事の確認の形を取っているが、灯花の声には別の不安が混ざっていた。


「本当に」


千景は短く答えた。


「夜が預かるっていうのがいい。言わないことを否定していない」


灯花は画面を見た。言えなかったことを夜が少しだけ預かる、という文章。自分で書いたものなのに、千景に読まれた後でやっと形を持ったように見えた。


「ありがとうございます」


「うん」


「今日は、自分でも少し変な文章ばかり出てきました」


「変ではないと思う」


「甘すぎたり、近すぎたり」


「それだけ、写真にちゃんと近づいたんじゃないかな」


千景はそう言って画面から目を離し、灯花の方を見た。視線が合うまでのわずかな間に、灯花は逃げようとして逃げきれなかった。


「近づきすぎたら、戻しますか?」


「戻したくなったら戻せばいい」


「戻したくないときは?」


灯花がそう聞いた瞬間、自分の言葉に驚いた。仕事の話としては曖昧すぎる。けれど、もう取り消せない。


千景は少しだけ黙った。その沈黙は今日の中で一番長く感じられた。


「そのときは、残し方を考える」


低い声が編集室の午後の空気に静かに響く。灯花はうなずくしかなかった。戻したくないものがある。まだそれを認めたわけではないのに、夜に向かう光がすでに知っているような気がした。


夕方が近づくころ、高架下の投稿が公開予約された。紹介文も通知文も、灯花の中で何度も形を変えていった言葉だった。送信ボタンを押すと、小さな音が指先に残った。


しかし、仕事はそこで終わらない。別の投稿、明日の候補、修正依頼もある。それでも灯花の中では、高架下の街灯だけが消えずに残っている。


窓の外のビルに室内の明かりが少しずつ映り始め、朝には見えなかった自分たちの輪郭がガラスの奥で薄く重なった。灯花は、その反射を見ないようにしながらデスクの上を整えた。


「今日は早く帰れる?」


千景が声をかけた。


「はい、予約まで終わりました」


「よかった」


「千景さんは?」


「もう少しだけ確認してから」


灯花はうなずいた。もう少しだけ、と。その言葉を、昨日までならただの業務量として聞いていたが、今日は彼が編集室に残る時間をなぜか胸のどこかで数えてしまう。


「無理しないでください」


と言ってから、灯花は少し驚いた。それは自然に出た言葉で、仕事の礼儀として言える範囲のことだった。しかし、そこに自分の心配が混ざっていた。


千景は目を上げた。


「ありがとう」


ただそれだけだったけれど、灯花にはその返事が長く残った。余計な言葉を足さないから、受け取る場所がこちらに残される。


灯花はバッグを持ち、編集室を出た。廊下の空気はまだ日中の熱を抱えていた。エレベーターへ向かう足音が壁に小さく響き、外へ近づくにつれ夜の匂いが濃くなっていった。


ビルの入口を出ると、東京はすでに夜の明かりに傾いていた。雨は降っていないが、舗道の奥には昼間の湿気がわずかに残っている。車の排気熱とどこかの店から漏れる出汁の香りが混ざり合い、街は一日の終わりを少し乱雑に抱えていた。


灯花は駅に向かって歩きながら、今日の通知文をスマホで開いた。「言えなかったことを、夜が少しだけ預かります」。画面の中でその一文は、仕事の顔をしていた。


しかし、帰り道で読むとまったく違う響きがした。灯花は足を緩めた。ビルのガラスに映る自分の姿が通り過ぎる光に揺れている。


言えなかったこと。今日、灯花は何を言えなかったのだろう。「好きな人と見たい夜です」という文を消した。「救われた気がする」と言ってしまった。「無理しないでください」と自然に千景に言った。


どれも仕事の中に紛れている。紛れているからまだ安全でいられるが、安全なままではいつか何かをなかったことにしてしまいそうで怖かった。


駅へ続く道の途中、高架下へ入る場所がある。今日の投稿写真とは違う場所だが、コンクリートの天井が車の音を低く反響させ、街灯の光が足元に細長く落ちている。灯花は少しだけ立ち止まった。


「好きな人と見たい夜です」


朝に消したその言葉が、ここでまた灯花の頭の中に浮かんだ。仕事の文章としては使えないが、本音に近かった。近すぎるからこそ、灯花はそれを消した。


スマホを開く。社内チャットには今日の公開予約の通知が残っているが、千景からの新しい連絡はない。ないのは分かっているのに、灯花は千景の名前を見てしまう。


入力欄を開く理由はなかったが、指はそこへ動いた。


今日の文、見てもらえてよかったです。


打ってから灯花は息を止めた。これは仕事の範囲に見えるし、お礼としては自然だ。しかし、灯花にとっては少しだけ違う場所へ向かう文章だった。


まだ送信はしない。灯花は画面を見つめた。最後に何かを付け足したくなった。「千景さんの言葉があったから、残せました」と打てば、本当に戻れない気がした。


灯花は全文を消した。最後の「す」だけが残る。朝と同じ、昨日とも似ている。いつも自分は、言葉の最後だけにしがみつく。


高架下を電車が通り過ぎると、天井が低く震えた。スマホを持つ手にその振動が伝わり、灯花は残った一文字を見つめたまま、すぐには消さなかった。


なかったことにはしたくない、と灯花は思った。言葉にするにはまだ早い。けれど、白く戻すのも違う。


灯花はその一文字を残したままスマホを閉じた。送らない。けれど消しきらない。夜が少しだけ預かるという自分の文章に今だけ甘えることにした。


駅の階段を下りると、地下の空気が頬に触れた。人いきれの湿り、車輪の金属音、遠くで鳴る案内の声。東京の夜は、地上だけではなく地下にも、細い光を流している。


ホームに立つと、黒い窓に自分の顔が映った。昨日は探している顔に見えたが、今日は何かを消しきれずにいる顔だった。


電車が近づき、風が灯花の髪を先に揺らした。車体の光がホームを横切り、扉が開くまでの短い静けさの中で千景の声が胸の奥に戻ってきた。


消した文が、一番近い時もあるから。


灯花はその言葉を抱えたまま電車に乗った。窓の外では東京の灯りが流れ、見えない高架下の街灯が記憶の中で小さく残る。朝に消した一文は夜の帰り道でもまだ温かさを保っていた。

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