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夜をほどく声  作者: reika1021


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2/10

第2章:見えない光へ

朝の編集室には昨日よりも乾いた光が入っていた。窓の外のビルは雨の気配をほとんど脱ぎ去り、白い壁面だけを早くも昼に向けて差し出していた。斜森灯花は席に着く前に、その明るさを少しだけまぶしいと感じた。


株式会社夜凪図のモニターを立ち上げると、前夜から届いた夜景投稿が一覧で並んだ。川沿いのビルの明かり、駅前の歩道、閉店後の小さな路地、ガラスに反射した街灯。どれも東京の夜を美しく見せる角度で切り取られていた。


灯花はバッグを足元に置き、キーボードに指をそろえた。朝は平気な顔を作りやすい。強い光があると、胸の奥でまだ湿っているものまで乾いたふりをしてくれる。


今日の更新候補は夜凪図のアプリで最初に表示される写真だった。開いた瞬間に目を引いて、保存したくなるような写真。しかし、ただ目立てばいいわけではないと、昨日の歩道橋がまだ小さく訴えている気がした。


灯花は候補の中から一番明るい写真を選んだ。川沿いの高層ビルが水面に映り、窓明かりは粒のように整っている。空の端には青みが残り、夜なのに清潔な朝のような印象だった。


きれいだと思う。けれど、そのきれいさは少し早すぎる。灯花は写真の明るい部分を見つめながら、自分の中に生まれた違和感をまだ言葉にできなかった。


紹介文の入力欄にカーソルが点滅する。「東京の夜を軽やかに歩きたい人へ」と打ちかけて、指が止まった。「軽やか」という言葉が、画面の白さに寄りかかりすぎている。


「今日のトップ候補?」


と、久遠千景の声が横の少し離れたところから届いた。灯花の指先はまた一瞬だけ止まった。返事をする前のその短い間を自分で意識してしまうことが、灯花にとって厄介だった。


「はい。明るいですし、一覧で見たときに目立つので」


千景は画面をのぞき込むために少し身を傾けた。距離は近すぎないが、声だけが肩の内側に落ちてくるようで、灯花は画面の明るさを下げたい衝動をこらえた。


「確かに強いね」


「トップには向いていると思います」


「向いていると思う」


千景はすぐには続けなかった。否定ではない沈黙が編集室の朝の音に混ざり、キーボードの音、空調の浅い響き、ビルの外を通る車の低い振動がその間を薄く満たしていた。


灯花は候補一覧をもう一度見た。明るい写真の隣に少し暗い1枚の写真がある。川の色はほとんど黒く、遠くの窓明かりも小さい。


「その隣、開いてみてもいい?」


千景が指したのは、灯花が避けようとしていた写真だった。灯花は黙ってクリックした。画面いっぱいに表示された川沿いの夜の情景は、一覧で見たときよりもさらに静かだった。


手すりは冷えた線のように伸び、川面にはわずかな光が沈んでいる。左下の街灯だけが控えめに水の近くを照らしていた。見た瞬間に惹きつける力は弱いのに、目を離すと何かを見落とす気がした。


「暗くないですか?」


「暗いね」


千景はあっさりと認めた。灯花は少しだけ息を吐いた。否定してほしかったわけではないのに、認められると次に何を言えばいいか分からなくなる。


「トップに置くには少し弱い気がします」


「弱いというより、すぐには渡してこない写真だと思う」


灯花は画面の暗い部分を見直した。確かに、その写真は見せたいものを最初から全部並べているわけではない。


「見つけるまでに時間がいりますね」


「うん」


千景の声が低くなる。昨日、歩道橋の前で言葉を交わしたときと同じように、急がない温度だった。


「見つけたくなる光の方が残ることもある」


灯花は返事を探した。見つけたくなる光。仕事の助言として受け取ればいいだけなのに、その言葉は自分の胸の奥のまだ名前をつけていない場所に落ちた。


「でも、見つける前に閉じられたら」


「それはある」


「なら、明るいほうが安全です」


「安全だと思う」


千景は否定しない。だからこそ灯花は、その先を待ってしまうのだ。彼の言葉にはいつも正しさではなく、少し遠い場所から手を伸ばすような余白がある。


「でも、夜凪図が選ぶなら安全なだけじゃなくていい気がする」


その一言に、灯花はもう一度、画面の暗い川を見る。黒い水面の中で、細い光だけが途切れそうになりながら揺れていた。派手ではないのに、見つけた瞬間に少しだけ息が深くなる。


昨日の帰り道がふっと胸の奥で広がった。歩道橋の床を通ってきた車の振動、消したチャットの最後の一文字、送らなかった言葉の白い空欄。


あれも見つけたくなる光だったのだろうか。自分でも馬鹿な連想だと思うけれど、千景の言葉を聞くと仕事の画面と自分の夜が少しずつ重なってしまう。


「この写真にするなら、紹介文はかなり抑えた方がいいですね」


「灯花なら、たぶんそうすると思った」


名前を呼ばれただけで朝の編集室の奥行きが少し変わり、灯花は画面から目を離さずにマグカップの縁を親指でなぞった。返事までの間を千景が急かさないことも分かっていた。


「買いかぶりすぎです」


「そうかな」


千景の声には笑いが少しだけ混ざっていたが、軽く流すような響きではなかった。灯花の文章を、灯花自身よりも少し信じている人の言い方だった。


灯花は下書き欄を開いた。明るく誘うのではなく、暗さの中へ視線を置かせる文。誰かの指を無理に引かずに、それでも立ち止まりたくなるような、短い一文。


川沿いに、探したくなる光があります


打った瞬間、違うと思った。「探したくなる」は千景の言葉に近すぎる。借りた言葉をそのまま使うと、自分の文章ではなく、彼の声を画面に貼りつけただけになってしまう。


灯花は一文字ずつ消していき、最後の「す」だけが残った。また指が止まった。消すと決めたものほど、なぜか手の中に小さく残ろうとする。


「最後の一文字、残すよね」


千景の声が落ちた。


灯花は息を止めた。画面を見たまま、すぐには返事ができなかった。そんな癖まで見抜かれていたのかと思うと、耳の奥が熱くなった。


「見てました?」


「見えてた」


「癖というほどではないです」


「でも、よく残ってる」


責める声ではなかった。ただ、拾っただけの言い方だった。灯花は、残していた一文字を消し、白く戻った入力欄を見つめた。


「消したくないわけじゃないんです」


「うん」


「ただ、そこに何か残っている気がして」


言ってしまった後、灯花は口を閉じた。仕事の説明ではない。暗い写真の紹介文を考えているだけなのに、余計なことを言ってしまった気がした。


千景はすぐに答えなかった。窓の外に一度目を向けてから、画面に戻ってくる。その短い時間が、灯花の言葉を雑に扱わないための時間だとわかるから、余計に困る。


「残っているものがあるなら、急いで消さなくてもいいと思う」


「でも、仕事では消さないと進まないこともあります」


「消すことと、なかったことにすることは違うから」


灯花はその言葉を胸の中で受け止めた。消すことと、なかったことにすること。昨夜送らずに消した文面が歩道橋の冷えた床とともに蘇る。


あれは消しただけなのか、なかったことにしようとしたのか、と。答えを出しかけた自分が怖くなり、灯花は慌てて写真に視線を戻した。


「少し考えます」


「うん」


千景はそれだけ言って自席に戻った。灯花は、その背中を見ないようにした。見てしまえば、また言葉が詰まる気がした。


午前の作業は静かに積もっていった。公開スケジュールの確認、通知文の調整、前日の投稿の反応確認。昨日の歩道橋の紹介文は思ったよりも保存されており、灯花は数字を見た瞬間、嬉しさよりも先に恐怖を覚えた。


誰かが明るくしすぎない夜景を保存したのだ。それは投稿者本人かもしれないし、別の痛みを抱えた誰かかもしれない。自分が選んだ短い言葉が知らない人の画面に残っているのだ。


それは成果であるはずなのに、手のひらに冷たい水を受けるような重さがあった。灯花は暗い川沿いの写真に戻る。画面の奥で、細い光はまだ沈まずに残っている。


遠くの明かりを、少し遅れて見つける夜だ。


打ってから、灯花はしばらくその文を読んだ。悪くない。けれど、「少し遅れて」という言葉に、自分の気持ちが入りすぎている気もする。


千景のことを考えているわけではない、そう思えば思うほど彼の声が文の背後に響く。灯花は椅子に座り直し、床から伝わるわずかな冷たさを感じた。


昼の気配が編集室に差し込むころ、窓の外の光は白から淡い黄色に変わっていた。通りを走る車の音が増え、ビルの下を歩く人の足取りも少し速くなる。灯花は通知文を別件で整えながら、暗い写真に添えられた文を何度も頭の片隅で反芻した。


明るい写真を選べばたぶん簡単だっただろう。きれいで分かりやすく、反応も予想しやすい。けれどその分、誰かの心に深く入り込む余地は薄くなる。


千景ならどう書くのだろう。そう思ってしまった瞬間、灯花は自分の中で小さく首を振った。人の言葉に寄りかかってばかりでは、自分の文章がどこにも立てない。


それでも彼に読まれることを前提にしている自分がいて、直されることも止められることも拾われることも少しだけ待っている自分に気づいた。すると、画面の文字が急に近づいてきた。


「灯花」


名前を呼ばれて、灯花は肩を大きく動かさないようにした。千景が自席から立ち上がり、資料を持ってこちらへ歩いてくる。足音は小さいが、灯花にはすぐに分かった。


「さっきの写真、もう一回見てもいい?」


「はい」


灯花が暗い川沿いの写真を開くと、千景が横に立ってしばらく画面を見た。彼の視線は、写真の中心ではなく端にある小さな街灯のあたりで止まった。


「これ、トップにするなら通知文も変えた方がいいかも」


「明るい写真用の文では浮きますよね」


「うん。行きたくなるというより、思い出すに近い」


思い出す。灯花はその言葉を静かに受け止めた。写真に写っていないものを、見る人が勝手に想像する。夜景にはそういう力がある。


「でも、思い出すって、少し重くないですか?」


「重いね」


「トップ通知で使うには、入口が狭くなりそうです」


「狭い入口のほうが、入ったあとで深いこともある」


千景は画面から目を離さずに言った。灯花は返事をしなかった。その言葉がまた自分の方へやってくるような気がしたからだ。


狭い入口、暗い写真、そして見つけたくなる光。彼の言葉は、今日何度も灯花の内側に触れていった。


灯花は通知文の下書き欄を開き、「ここから見る夜は、少し遅れて胸に残ります」と打ってすぐに消した。「胸に残る」という表現は近すぎる。


誰の胸なのか。アプリを開く人の胸なのか、それとも自分の胸なのか。その境目が曖昧になっていることに気づき、灯花は軽く唇を噛んだ。


「今の、消すの早かったね」


「見ないでください」


思ったより素直な声が出て、灯花は自分でも驚いた。千景も少しだけ目を細めたが、からかうような言葉は出さなかった。


「ごめん」


「いえ、仕事なので」


「でも、見られたくない文章もあるよね」


灯花は黙った。「仕事なので」と自分で引いた線を、千景は破らずに少しだけ触れてくる。そこがずるいと思う。


「見られたくないというか、まだ見せる形じゃないだけです」


「うん」


「形になる前に読まれると、言い訳できないので」


「言い訳?」


千景の声が少しだけ柔らかくなった。灯花がマグカップに手を伸ばしたが、もうほとんど中身は残っていなかった。


「これは仮ですとか、あとで直しますとか。そう言えば逃げられるじゃないですか?」


「逃げたいときもある?」


「あります」


言い切ってしまった後、灯花は画面に視線を戻した。自分の声が想像よりもまっすぐだった。千景は少し黙った。


「逃げてもいいと思う。戻ってくる場所が分かっているなら」


その返事に灯花の胸が静かに揺れた。仕事の話、文章の話、そう受け取ればよかったのに、「戻ってくる場所」という言葉が夜の帰り道のどこかに灯りを置いたように響いた。


「千景さんは、逃げることありますか?」


と聞いてから、灯花はまずいと思った。相手に踏み込みすぎている。けれど、千景は不快そうな顔をしなかった。


「あるよ」


短い答えだった。灯花は思わず彼を見た。千景は、画面ではなく窓の外の、明るすぎる東京の景色を見ていた。


「言葉にすれば進むと分かっていても、言葉にしたら戻れないことがあるから」


編集室の音が一瞬だけ遠くなった。灯花は、その言葉を仕事の話として処理しようとしたが、できなかった。


言葉にしたら戻れないこと。灯花の胸には、昨夜の白い入力欄の記憶がまだ残っていた。送らなかった短いお礼と、付け加えられなかった柔らかい一文。


「そういうときは、どうするんですか?」


「形を変える」


「形?」


「修正コメントとか、確認とか。そういう別の言い方にする」


千景の声は穏やかだったが、灯花はその穏やかさの奥に何かを感じた。すぐに意味を決めてはいけない。決めてしまったら、きっと明日から彼の言葉を自然に聞けなくなってしまう。


「便利ですね、仕事の言葉って」


灯花は半分だけ冗談のように言ったが、声の端には自分でも消せない熱が混ざっていた。


「便利だね」


千景は否定しなかった。


「隠すにも、渡すにも使える」


灯花は返事をしなかった。胸の奥でその言葉が静かに場所を取っていた。隠すにも、渡すにも。自分が毎日扱っているものが急に危うい道具のように見えた。


昼を過ぎると編集室の光は少しずつ弱くなり、外の白さはまだ強いのに机の下には影が濃くなった。灯花は候補写真を暗い川沿いの一枚に仮決定し、紹介文と通知文を整える作業に入った。


トップに置くには弱いけれど、弱いまま残したい。灯花はその矛盾を抱えながら言葉を少しずつ削った。


遠くの光を見つけにいく夜。


短いけれど、どこか広告っぽい。灯花は眉を寄せた。「見つけにいく」という表現には、前向きさが強すぎた。


見つけた光が少し遅れて残る夜。


これも違う。「遅れて残る」が説明的すぎる。灯花は何度も打っては消し、消すたびに指先に小さな疲れがたまっていく。


千景は口を出さなかった。灯花の横を通る時も、画面をのぞき込まずに一度だけ視線を置く。それだけで見られていることが分かる。見張られているのではなく、待たれているのだ。


その待たれ方が怖い。嬉しいと感じる前に怖さが来るのは、自分の言葉がまだ形になっていないのにその未完成な部分まで読まれている気がするからだ。


夕方へ向かう前、灯花はようやく一文を置いた。


暗さの中で、あとから見えてくる光があります。


読み返して少し息が落ち着いた。派手ではないが、この写真にある時間の遅れを無理なく含んでいる。


通知文にはもう少し短い言葉を選んだ。


すぐには見えない光を、今夜の東京で。


こちらは少し強いけれど、トップ通知としては必要な手触りがある。灯花は二つの文を並べ、画面を千景の方に向けた。


「確認お願いします」


千景は立ち上がって灯花の席へ来た。足音が近づくたびに、灯花は姿勢を正しすぎないように意識した。意識している時点で、もう自然ではない。


千景はまず画面の紹介文を読み、次に通知文へ視線を移した。彼の沈黙は長くないが、灯花には十分すぎるほど長く感じられた。


「紹介文、いいね」


灯花はほっとしてすぐに息を整えた。安心を顔に出しすぎないようにしたかった。


「通知文はどうですか?」


「少しだけ強い」


「やっぱり」


「でも、悪くない。トップで出すなら、これくらいの手招きはあっていい」


手招き。灯花はその言葉の柔らかさに少しだけ救われた。誘いすぎず、置き去りにもしない。千景はいつも言葉の距離をそうやって測る。


「一箇所だけ変えてもいい?」


「はい」


千景の指先が、画面の近くで止まった。触れない。灯花が操作するのを待っているのだ。灯花は、カーソルを通知文の中に置いた。


「すぐには見えない光を、今夜の東京で」


千景はゆっくり読んだ。


「『今夜の』を消してもいいかも」


「『今夜』がない方が良いですか?」


「うん。東京で、だけの方が少し広い」


灯花は言われた通りに「今夜の」を消した。すぐには見えない光を、東京で。確かに、少しだけ呼吸ができる文章になった。


「こっちの方が押していないですね」


「灯花の紹介文が静かだから、通知も少しだけ余白を残したほうが合う」


自分の紹介文が静かだと言われて、灯花は妙に胸が熱くなった。褒め言葉なのか、ただの分析なのか分からないまま、受け取ってしまった。


「ありがとうございます」


「こちらこそ」


「千景さんが選び直した写真なので」


「選んだのは写真だけだよ」


千景は画面から目を離し、灯花を見た。視線が合った時間は短かったが、灯花はそこに逃げ場のない静けさを感じた。


「残す言葉は灯花が選んだ」


灯花はすぐに返せなかった。彼は何気なく言っているのかもしれない。先輩として、後輩の仕事を認めただけなのかもしれない。けれど、その一文は灯花の仕事の範疇を超えたところまで触れてきた。


「そう、ですか?」


「うん」


「じゃあ、公開予約します」


灯花は視線を画面に戻し、予約ボタンを押した。クリック音が小さく響き、暗い写真は今日のトップとして保存された。


作業が終わった後も、編集室にはまだ日中の熱が残っていた。灯花は他の投稿を確認しながら何度も自分の文章を思い返した。すぐには見えない光を東京で、と。まるで自分に向けた通知文のようだと思ってまた恥ずかしくなった。


明るいものを選べば見落とさずにすむが、暗いものを選ぶと探さなければならない。探している時間に自分の欲しさまで混ざってしまう。


灯花は千景に見つけてほしいのだろうか。そう考えた瞬間、心の中でその問いを慌てて伏せた。仕事中に考えることではない。


けれど仕事中だからこそ、逃げられないことがある。千景は灯花の文章を読み、必要なところだけを直す。直されるたびに、灯花は悔しさと安心を同じくらい感じてしまう。


窓の外ではビルの影がゆっくりと伸びていき、東京の明るさは少しずつ端からほどけていく。ガラスには室内の照明が映り始め、朝に選べなかった暗い写真が夜が近づくにつれ、だんだんと自然に見えてきた。


「今日のトップ、反応を見てからまた調整しよう」


千景の声が自席から聞こえる。


「はい」


「明るい方に戻す可能性もある」


「分かっています」


「でも、今日はいったんこれでいい」


灯花は小さくうなずいた。いったん。仕事の判断としての言葉なのに、今日はそれが少しやさしい。まだ決め切らなくていいと言われているようだった。


夕方の終わりが編集室に入り込むころ、灯花は帰り支度をはじめた。バッグにノートを入れ、空になったマグカップを洗い、モニターの明るさを落とした。画面が暗くなり、自分の顔がうっすらと映し出された。


昨日よりも疲れているが、昨日とは違う。今日は何かを選べなかったのではなく、選び直した顔をしていた。


「灯花」


帰ろうとしたところで千景に呼ばれ、灯花は振り返った。編集室の照明が彼の輪郭を少しだけ薄くしていた。


「今日の文、最初の候補よりよかった」


「最初の候補、見てないですよね」


「見てないけど、たぶん」


「ひどいです、それ」


灯花は思わず笑いそうになり、声だけが少し柔らかくなった。千景もほんの少し口元を緩めた。


「明るくしようとしていたんだろうなと思った」


「それは当たっています」


「でも、途中でやめた」


灯花はバッグの持ち手を握り直した。千景は椅子から立ち上がらないままこちらを見ていた。距離があるのに、声だけがやはり近い。


「やめたというか、選べなくなっただけです」


「選べなくなるのは、ちゃんと見てるからだと思う」


灯花は返事を飲み込んだ。ちゃんと見ているから、と。彼の言葉は今日の暗い写真のようにあとから効いてくる。


「おつかれさまです」


やっとそれだけ言った。これ以上何かを返したら、余計なものまで出てしまいそうだった。


「お疲れさま」


千景の声を背に、灯花は編集室を出た。廊下には昼の熱が少し残り、外へ近づくほど夜の匂いが混ざってくる。ビルの入口を抜けると、東京はもう光の量を変えていた。


雨は降っていないが、それでも舗道には昨日の湿りを思い出すような冷たさがある。人の流れは駅へ、車のライトはビルのガラスを横切っていく。


灯花は歩きながら、今日公開予約した写真をスマホで開いた。暗い川沿いの一枚。朝にはトップに弱いと思った写真が、夜の街の中で見るとちょうどよく沈んでいる。


すぐには見えない光を、東京で。


通知文が画面に浮かぶ。自分で書いた言葉なのに、帰り道で読むと別の意味を帯びていた。すぐには見えないもの、見つけたくなるもの、見つけられたいもの。


灯花は足を止めそうになり、流れに押されるようにまた歩き出した。駅に向かう道の途中、ショーウィンドウに自分の姿が映る。肩にかけたバッグ、少し乱れた髪、スマホを握る手。


その顔が朝とは違っていた。仕事帰りの疲れだけではない。誰かの一言で変わってしまった表情がガラスの向こうからこちらを見返している。


灯花は視線を外した。外した後で、もう一度だけ見たくなった。自分の顔にそんな風に気づくのは少し恥ずかしい。


夜の東京は、明るいところほど人を急がせる。駅前の照明、横断歩道の白い線、コンビニの明かり。けれど、路地の奥やビルとビルの間の暗がりでは歩く速度が少しだけ落ちる。


灯花は今日、暗い写真を選んだ。けれど本当は、写真だけではない。自分の中のまだ明るく言えない気持ちを消さずに置く方へ、少しだけ傾いた。


千景に見つけられたい、という言葉を口にすれば、すべてが急に浅くなる気がした。だから灯花は、もっと別の表現を探すことにした。


私の文章じゃなくて、私を見てほしい。


その核心に近いものが胸の奥をかすめ、灯花は思わずスマホを握り直した。言葉にしたら戻れない。千景が昼に言った声が車の音に混じって蘇る。


信号待ちの人いきれが夜の湿度を少しだけ高め、足元の白い光は小さな水たまりに割れていた。灯花は、その光を見下ろしながら社内チャットを開いた。


千景の名前は今日のやりとりの中にあった。写真確認、通知文修正、公開予約の共有。どれも仕事に関する言葉で、何もおかしくない。


灯花は入力欄を開き、「今日の写真、ありがとうございました」と打った。昨日と同じような文だが、昨日より少しだけ言い訳が効かない。


「ありがとうございました」のあとに何かを付け足したくなる。「選び直して良かったです」と打てば、仕事上のやりとりとして見える。けれど灯花の中では、その一文が別の意味を持ってしまう。


明るい方を選ばなくてよかった、見つけるまで待ってくれてよかった、そんな言葉が表に出ないまま指先に集まる。


灯花は一度全文を消した。最後の「た」だけが残る。昨日と同じだと思って胸のあたりが小さく痛んだ。


消すことと、なかったことにすることは違う。


千景の声が戻ってくる。灯花は、その一文字を見つめた。消せば何も送らずに済む。けれど、なかったことにしたいわけではない。


信号が変わり、人の流れが動き出した。灯花は歩きながら残った一文字を消さず、たった一文字を残したままスマホを閉じた。


送らない。まだ送れない。けれど、白く戻すこともしなかった。


駅に入る階段の下では空気が少し冷えており、地下から上がってくる金属の匂いと改札前の人の熱が混じっていた。街の明かりは背中で遠くなり、灯花はスマホをバッグの外ポケットに入れて手を離した。


ホームに降り立つと、電車の到着前に風が吹いた。髪の端が頬に触れ、昼間に聞いた千景の声がその内側で響く。見つけたくなる光の方が、残ることもある。


灯花は、黒い窓に映った自分を見た。昨日は声を聞いている顔だったのに、今日は何かを探している顔に見えた。


電車が入ってくる。車体の光がホームをなぞり、窓の中に灯花の輪郭が流れていく。扉が開く前の短い静けさの中で、胸の奥に残した一文字がまだ消えていないことに気づいた。


明るい写真を選べなかった一日は、夜になるほど別の意味を持った。灯花は電車に乗り込み窓際に立つと、東京の光が流れ始めた。暗い川沿いの写真と千景の低い声が同じ場所でゆっくり重なっていった。

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