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夜をほどく声  作者: reika1021


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第4章:触れない熱

朝の東京には、雨が上がった後の匂いが残っていた。アスファルトの奥に水が染み込み、ビルの入口に置かれた傘立てだけが昨夜の重さをまだ覚えている。斜森灯花は、株式会社夜凪図の編集室に入る前に、靴底に触れる床の湿り気を少しだけ気に掛けた。


窓の外は明るいのに空気はまだ乾ききっておらず、白い光がガラスに広がるたびにどこかで薄い水の膜が反射しているように見えた。灯花は席につき、モニターを立ち上げる前に指先を軽く握った。


前夜から届いた投稿には雨上がりの写真が多く、歩道橋の手すりに残る水滴や駅前のタイルに映る街灯、川沿いの植え込みに沈む小さな光が写っていた。東京の夜が濡れると、いつもより言葉を遅く受け取る気がする。


灯花は一覧をスクロールしながら胸の奥に残る昨日の一文を思い出していた。「言えなかったことを、夜が少しだけ預かります」と。自分で書いた通知文なのに帰り道では自分のための言葉のように聞こえた。


あの文を千景に読まれた。読まれて、残していいと言われた。それだけなのに、朝の編集室で平気な顔をするには少しだけ力が必要だった。


灯花は画面の明るさを下げかけ、指を止めた。目が疲れたふりをするにはまだ早い。そう思って、何もしていない顔で投稿一覧に視線を戻した。


今日の候補には歩道橋の写真が続けて届いていた。どれも別の場所なのに雨に濡れた手すりと階段の角度が似ていて、東京が画面の中で静かに息をそろえているようだった。灯花は、その中の一枚に目を留めた。


駅から少し離れた歩道橋で、下には広い道路があり、車のライトが濡れた路面に長く伸びていた。階段の途中には誰も写っていなかったが、踊り場の端に水たまりがあり、そこだけ街灯の光が当たっていた。


投稿者のメモには「雨のあと、ここで少しだけ泣きました」と書かれていた。短いけれど、その短さが灯花の胸に小さく響いた。


泣いた理由は書かれていない。恋人のことかもしれないし、仕事のことかもしれない。あるいは、理由をひとつにできない夜だったのかもしれない。


灯花は紹介文の入力欄を開き、「雨上がりの歩道橋に」と打ってすぐに手を止めた。出だしが普通すぎるが、奇をてらうと投稿者の涙を遠ざけてしまう。


雨のあと、残った光があります。


と打って、少し首を傾げた。悪くはないが、どこか整いすぎている。雨も光も残るという言葉も、夜凪図で何度も使ってきた。


同じ言葉に頼っていると、痛みまで同じ形になってしまう。灯花はそう思い、文を消した。最後の一文字まで消してしまったことに、今日は少しだけ寂しさを感じた。


「雨上がり、続いてるね」


久遠千景の声が横から静かに届いた。


灯花は指先を止めた。彼の声を予測していたはずなのに、実際に聞くと胸の奥がわずかに揺れる。雨の匂いが残る朝には、その声がいつもより近く感じられた。


「はい、歩道橋の投稿が多いです」


千景が画面をのぞき込む。いつもと同じくらいの距離があるはずなのに、今日は湿った空気が音を運びすぎているのか、声だけが肩口のすぐそばで止まった。


「この写真?」


「はい。投稿メモが少し気になって」


千景は、写真の下にある短いメモを読んだ。「雨のあと、ここで少しだけ泣きました」灯花は、その文字を一緒に見つめながら自分がどこまで近づいていいのか分からなくなった。


「少しだけ、っていうのが残るね」


「はい。全部泣いたわけではない感じがして」


「泣いたことを大きく扱われたくないのかもしれない」


灯花はうなずいた。千景の言葉は、投稿者を見つめながらも決めつけない。近づくけれど、触りすぎない。その距離の取り方を灯花はうらやましいと思う。


「雨上がりの文って、きれいになりやすいですよね」


「そうだね」


「水滴とか、反射とか、街灯とか、すぐに使えるものが多いので」


「使えるものほど、使いすぎると遠くなる」


千景の声が落ちる。灯花はその言葉を聞きながら画面の水たまりを見た。たしかに、きれいな描写を積むほど投稿者の短い涙から離れてしまう気がする。


「今日はどう書けばいいんでしょう」


「どう書きたい?」


問いが返ってきた。灯花は少し困った。どう書けばいいかではなく、どう書きたいか。千景は時々、仕事の質問を灯花自身に戻ってくる。


「泣いたことをなかったことにはしたくないです」


「うん」


「でも、泣いた理由まで勝手に書きたくはない」


「じゃあ、理由じゃなくて、残った場所を書くのがいいかも」


灯花はもう一度写真を見た。階段、踊り場、水たまり、濡れた手すり。涙そのものは写っていなかったが、その人が少しだけ立ち止まった気配が残っていた。


「場所の方を少し静かにする感じですか?」


「うん。泣いた人のことは説明せずに、そこにいた時間だけを残す」


千景の言葉が画面の奥にそっと置かれ、灯花はカーソルを入力欄に戻した。今度はすぐに打たず、指先でキーの温度を確かめた。


雨が上がった階段に、立ち止まった時間だけが残っています。


長い。少し説明しすぎている。灯花は読んですぐに消した。


立ち止まった時間だけが雨のあとに残る歩道橋です。


これも少し硬い。時間だけが、という言い方に自分の意図が出すぎていると、灯花は眉を寄せた。


千景は何も言わずに待っている。その待ち方は優しいのに、灯花には苦しい。待たれていると、未完成の自分まで画面に映る。


「見られていると、余計に書けない日があります」


灯花が小さく言うと、仕事中にこんな言葉を口にするべきではなかったと後悔した。


「離れようか」


千景はすぐに返した。


「そういう意味では」


「うん」


「でも、離れられると、それはそれで困ります」


言い終えてから灯花は、自分の声に驚いた。「困ります」という言葉が、近すぎる。仕事の距離に戻す前に、千景が少しだけ黙った。


「じゃあ、ここにいる」


低い声が雨上がりの空気に沈む。


「見すぎないようにする」


灯花は返事をしなかった、できなかった。千景は本当に画面から少し視線を外し、窓の外へ目を向けた。


灯花は、その横顔を見ないようにした。見ないようにしても、隣にいることは分かる。声を出さなくても、彼の沈黙はそこにある。


朝の作業は、濡れた靴底の音を含んだまま進んでいった。通知文の調整、候補写真の整理、反応の確認。灯花は、歩道橋の投稿を下書きに残して別の作業に移っても、何度もそこに戻ってしまう。


雨のにおいは編集室の中へ直接入ってくるわけではないが、誰かの傘や靴、服の端に含まれた湿度が机の下や通路にうっすらと漂っている。灯花は、その気配の中で昨日までより呼吸が浅くなっていることに気づいた。


千景の声が近い。実際の距離は変わっていない。変わっているのは灯花の受け取り方だ。


「好きな人と見たい夜です」と消した文が雨の朝に戻ってくる。あの文は高架下の写真に対して浮かんだものなのに、今日は千景の声に反応して胸の中で形を変えている。


灯花は歩道橋の紹介文に戻った。理由を書かず、泣いた人を飾らず、そこに残った時間を書く。千景の言葉を借りすぎないようにしながらも、彼が示した方向を忘れないようにする。


雨のあと、誰かが立ち止まった温度を残す歩道橋です。


「温度」その言葉を口にした瞬間、千景の顔が浮かんだ。彼がよく使う言葉を自分の文章に用いてしまった気がして、灯花はすぐにその文を消した。


千景の言葉に似るのが嫌なのではない。むしろ、その言葉に近づきたい自分がいて、それが怖いのだ。自分の文章の中に彼の声が混ざってしまうのが。


「温度、消した?」


千景の声が少し離れたところから届いた。


灯花は顔を上げた。彼は自席に戻っていたはずなのに、画面の変化に気づいたのだろうか。いや、直接見ていたわけではない。灯花の手が止まったことで分かったのかもしれない。


「見てないのに、どうして分かるんですか?」


「今、消し方が早かった」


「怖いです」


「ごめん」


「謝られると、余計に」


灯花は言いかけてやめた。何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。余計に、近い。そんな言葉は言えなかった。


千景は席を立ち、少しだけ近づいたが、灯花の画面をのぞかずに机の端に視線を落とした。


「『温度』って言葉、使いにくい?」


「千景さんの言葉みたいなので」


と言ってしまった。灯花はすぐに画面に目を戻した。千景の反応を見る勇気がなかったのだ。


少しの沈黙があった。雨上がりの朝には、その沈黙まで湿って感じる。空調の音が遠ざかり、キーボードの打鍵音だけが点のように響いた。


「灯花が使ったら灯花の言葉になると思う」


千景は静かに言った。


「でも、気になるなら別の手触りに変えればいい」


灯花はその言い方に救われた。奪わない、押しつけない、千景は言葉を渡すときも灯花が持ち直せる形で置いてくれる。


「別の手触り」


「たとえば、ぬるさとか、冷たさとか」


「雨上がりなら、冷たさでしょうね」


「でも、泣いた後の場所なら少しだけ熱が残っていてもいい」


灯花は写真を見る。濡れた階段は冷たいが、そこにいた人の手や息の熱は完全には消えていない。冷えた場所に、かすかな熱が残っている。


「冷たい場所に熱が残る」


「うん」


「それ、少し恋愛っぽくなりませんか?」


と言ってから、灯花はしまったと思った。恋愛っぽい。仕事の会話としては普通の言い方かもしれないが、自分の中ではあまりにも意識しすぎている。


千景はすぐに返さなかった。視線は画面の水たまりに置かれたまま、声だけが少し低くなった。


「投稿メモがそう読ませるなら、無理に消さなくてもいいと思う」


「そう読ませる、ですか?」


「少しだけ泣いた場所って、誰かを思い出している感じがあるから」


灯花は息を小さく吸った。誰かを思い出している感じ。それは投稿者の話なのに、自分の胸にも響いた。


朝から昼へと近づくにつれ、窓の外の白さは少しだけ硬さを増した。濡れた道路は少しずつ乾き、車のタイヤがはねる水の音も遠のいていく。しかし、編集室の中にはまだ雨の痕跡が残っていた。


灯花はようやく一文を打った。


冷えた階段に、言えなかった熱が少し残る歩道橋です。


打った後、しばらく見つめた。近い。けれど、今日の写真には近いままでいい気がした。投稿者の涙の理由を決めつけず、そこにあったかもしれない熱だけを置いている。


「見てもらえますか?」


灯花が自分から言った。千景はうなずき、画面を見た。


「いいと思う」


答えは短かった。灯花は安心しかけたが、すぐに続きを待った。千景が短く言うときは、たいていそのあとに少しだけ直す場所がある。


「言えなかった熱が少し強いかも」


「やっぱり」


「でも、消すよりは少し遠ざけたい」


灯花はカーソルをその部分に置いた。千景は手を出さず、灯花が操作するのを待っている。


「言葉にしない熱だと、どうですか?」


「少し抽象的ですね」


「うん」


「触れなかった熱は?」


千景がそう言った瞬間、灯花の指が止まった。「触れなかった熱」という言葉が、画面の中の歩道橋よりも自分の手の甲に落ちてきた気がした。


「……近すぎませんか?」


灯花の声は小さかった。


「近いね」


千景は認めた。


「でも、写真には合う」


灯花はその言葉を打った。「冷えた階段に、触れなかった熱が少し残る歩道橋です」。読み返すと、胸の奥が静かにざわついた。


触れなかった熱、手すりに残った雨水、近づきすぎない千景の立ち位置、画面を指す前に止まる指先、すべてが同じところへ集まりそうで灯花は息を整えた。


「これで、いきます」


「うん」


「通知文はもう少し軽くします」


「軽くするというより、入口を広くする感じかな」


千景の言葉に、灯花はうなずいた。通知文は短い。けれど、短いからこそ強すぎる言葉はすぐに押しつけになってしまう。


雨のあとに残る、触れなかった光。


灯花は打ってすぐに首を振った。「触れなかった」を通知にも使うと重すぎる。紹介文に残したから、通知では別の角度から書きたい。


雨の後の歩道橋で、少しだけ立ち止まる夜。


これなら届きやすいけれど、少しだけが投稿メモに近すぎる。灯花は悩み、語尾を変えた。


雨の後の歩道橋で足を止める夜。


悪くないが、命令に近いかもしれない。灯花は、唇に触れそうになってやめた。


千景は何も言わない。待っている。灯花はその沈黙に支えられながら自分の言葉を選び直した。


雨のあとの歩道橋に光がゆっくり戻ってくる。


今度は少し平らだったけれど、通知文としては悪くない。紹介文の熱を受け止めるには、入口はこれくらい静かでいいのかもしれない。


「通知はこれでどうでしょう」


灯花が画面を示すと、千景は少しだけ首を傾げた。


「『戻ります』が少し優しいかな」


「優しすぎますか?」


「優しいというか、早く安心させてる感じがある」


灯花はうなずいた。たしかに、泣いた場所の写真に対して光が戻ると言い切るのは、少し急ぎすぎている。救いを早く渡しすぎている。


「じゃあ、『戻ります』はやめます」


「うん」


灯花は削って、もう一度考えた。雨の後の歩道橋に光がまだ残っている。これはよくあることだ。光が残ることも多い。


雨の後の歩道橋に、光がほどけずにいる。


少し変だ。でも嫌いではない。光がほどけずにいるのは、濡れた階段に貼りついた街灯の感じに似ている。


「ほどけずにいる、は変ですか?」


「少し変」


千景は正直に言った。


「でも、引っかかる」


「使えますか?」


「通知よりも本文の中なら、使えるかもしれない」


灯花はその言葉を聞いて、紹介文の後半に短く付け加えた。


冷えた階段に、触れなかった熱が少し残る歩道橋です。雨のあとにも、光はほどけずにいます。


二文にした途端、写真の時間が伸びた気がした。灯花は画面を見つめた。句点は二つ。段落としても重すぎない。


「これ、少し好きです」


自分でそう言ってから、灯花は照れた。仕事の文章を好きだと言うだけなのに、今日はすべてが別のところへ響く。


「いいと思う」


千景の声が静かに落ちる。


「灯花が好きなら、残していい」


灯花は画面から目を離せなかった。「灯花が好きなら」。文の話だ。もちろん文の話だ。それでもその言葉はひどく危うい場所に触れた。


昼が近づき、編集室には少しだけ熱気が増した。外から戻ってきた空気には、濡れた道路が乾き始める匂いが混じっている。灯花は、歩道橋の紹介文を一旦保存して別の投稿確認に移った。


けれど作業の合間に、「触れなかった熱」という言葉が戻ってくる。自分で選んだのに、その文は自分を困らせる。千景の横にいるときの、触れない距離そのものみたいだった。


千景はその後も淡々と作業を続けていた。画面ではなく窓の外を見る癖も、修正箇所の前に黙る癖もいつも通りだった。いつも通りなのに、灯花だけが変化してしまっていた。


昼の光が窓から離れていくころ、灯花は歩道橋投稿の公開予約を済ませた。送信前の確認画面で、もう一度文章を読んだ。冷えた階段に、触れなかった熱が少し残る歩道橋です。雨のあとでも、光はほどけずにいます。


自分の文章にこんなに落ち着かなくなるのは久しぶりだった。いいのか分からない。でも、消したくなかった。灯花は予約ボタンを押した。


小さなクリック音が指先に残る。千景は隣でその音を聞いていたが、何も言わなかった。しかし、灯花にはその沈黙が承認のように感じられた。


午後は雨上がりの写真に添える通知文が続いた。濡れた路地、駅前のタイル、川沿いの欄干。似た素材に見えても投稿者のメモが違えば言葉の入口も変わる。


灯花は、同じ比喩に逃げないように気をつけた。水滴を宝石のように扱わないこと。街灯を優しさにしすぎないこと。反射した光を簡単な希望に変えないこと。


そう考えていると、ふと千景が言った。


「今日、言葉を戻すのが早くなったね」


灯花は手を止めた。


「戻す?」


「消しそうになって、戻ってくるのが」


灯花は画面を見た。たしかに、今日は消す前に一度考えるようになっている。怖いから消すのか、違うから消すのか、その区別を少しだけつけるようになった。


「千景さんのせいです」


思わず言ってしまった灯花は、すぐに言い方が近すぎたと感じた。


千景は少しだけ目を上げた。


「俺のせい?」


「消すことと、なかったことにすることは違うって言ったので」


「ああ」


「そのせいで、消しにくいです」


千景は小さく息を漏らした。笑ったのかもしれないが、声には出さなかった。


「それは少し悪いことをした」


「謝られるほどではないです」


「でも、やりにくくなったのなら」


「やりにくいです。でも」


灯花はそこで言葉を止めた。続けると、仕事の話から離れそうだった。


「でも?」


と、千景が待つ。灯花はマグカップの縁に親指を添えた。逃げ道のように親指をカップに添える癖を、彼はもう知っている。


「前より、残したい場所がわかる気がします」


千景は静かにうなずいた。


「それならよかった」


ただそれだけの返事だったが、灯花には十分だった。彼は踏み込まないのに、灯花が立っている場所を少しだけ照らしていた。


夕方が近づくと、編集室の空気が変わった。朝の湿りは消えかけ、代わりに仕事を終える前の焦りと外の夜へ向かう匂いが混ざり始めた。窓のガラスには室内の灯りが薄く映り始めていた。


灯花は、歩道橋の投稿の公開確認を終えた。反応はまだ少ないが、最初の保存がひとつついたとき、胸の奥が静かに緩んだ。


誰かがこの歩道橋を持ち帰ったのだ。泣いた理由を知らないまま、触れなかった熱を感じた。そう思うと、言葉は画面の中だけにあるものではなくなる。


「今日の歩道橋、場所見に行く?」


千景がふいに言った。


灯花が顔を上げると、彼は画面を見ていて何気なく言ったように見えたが、灯花の胸は、その何気なさに強く反応した。


「今日、ですか?」


「帰り道から少し外れるけど、確認できる距離だと思う」


「仕事として、ですよね」


と言ってから、自分の声が少し硬いことに気づいた。千景はそれを聞いて画面から目を離した。


「うん、仕事として」


その返事は正しい。正しいのに、灯花は少しだけ胸の底が沈むのを感じた。自分で「仕事として」と言ったくせに、仕事として返されると寂しくなる。


本当に面倒だと思う。灯花は、自分の感情をそう扱うしかなかった。


「行きます」


「無理しなくていい」


「見ておきたいです。今日の文が現地の空気とずれていないか」


千景はうなずいた。灯花はバッグの中にスマホを入れ、画面を閉じた。外へ出る準備をしながら、仕事の確認にしては鼓動が少し速いことに気づかないふりをしてやり過ごした。


編集室を出ると、廊下の空気は日中の熱を閉じ込めていた。エレベーターへ向かう足音は、並ぶわけではなく、少しずつずれていくが、同じ箱に向かっていく。


外に出ると、東京は雨上がりの夜に入りかけていた。ビルの谷間を通る風には、濡れた舗装が乾ききっていない匂いが残っていた。空は低く、街灯の輪郭がいつもよりにじんで見えた。


千景は灯花の少し前を歩き、信号の手前で速度を緩めた。並ぶわけではないが、置いていくわけでもない。その距離の取り方が灯花には、昼間の修正コメントのように思えた。


「ここから少し歩く」


「はい」


「疲れていたら、途中で戻っていいよ」


「大丈夫です」


灯花はそう答えた。大丈夫という言葉が本当に大丈夫な時だけ使えるものならどれほど楽だろうと思う。今の自分は疲れている。けれど戻りたくはない。


駅前を過ぎると、人の流れが少し薄くなった。濡れたタイルに靴音が響き、車道からはタイヤが水しぶきを上げる音が聞こえる。まるで夜凪図で扱う写真の中にいるような道だった。


千景は時々スマホの地図を確認する。灯花は、その横顔を見ないようにして街路樹の濡れた葉を見た。葉の先から水滴が落ち、足元の小さな水たまりに輪を作る。


「雨のあとって、音が近いですね」


灯花が言うと、千景は地図から顔を上げた。


「水が残っているからかな」


「車の音も、歩く音も、少し低く聞こえます」


「うん、声も近くなる」


その言葉に灯花は返事を失った。千景は何気なく言ったのだろう。けれど、今その声は本当に近かった。


歩道の幅が少し狭くなり、自然と距離が縮まる。肩が触れるほどではないが、腕の動きや歩幅の違いがわかるくらいには近い。


灯花はバッグの持ち手を握り直した。指先に革の縁が食い込み、自分の体温が移っていく。


「どうした?」


千景が少しだけこちらを見た。


「いえ、歩道が狭いなと思って」


「少し先で広くなるよ」


「はい」


会話はそこで途絶えたが、沈黙は気まずく感じなかった。むしろ、言葉を置くと壊れそうなものが夜の中で静かに保たれているようだった。


歩道橋が見えてきた。写真で見た階段が実際の夜の中に立っている。濡れた手すりは冷たそうで、踊り場の水たまりには街灯が小さく揺れていた。


灯花は足を止めた。写真よりも狭い。写真よりも匂いがある。濡れた鉄の匂い、排気の熱、近くの植え込みから立ち上る土の湿り気。


「ここですね」


「うん」


千景は階段の下で写真と見比べ、灯花は一段目に足を置いた。靴底が少し滑り、手すりに触れようとしてすぐに引っ込めた。


「濡れてるから気を付けて」


千景の声が下から届く。


「はい」


灯花は短く答えた。「気を付けて」。その何気ない言葉が夜の階段で思ったより近く響いた。


踊り場まで上がると、車道が少し低く見えた。車のライトが濡れた路面を走り、白と赤が交互に流れていく。風は昼間より冷えていて、頬に触れると雨の名残を運んできた。


千景も少し遅れて上がってきたが、並ばずに斜め後ろに立った。灯花は、その位置を意識してしまう。画面を見るときと同じ、近づきすぎない距離。


「写真より暗いですね」


「暗いね」


「でも、こっちのほうがいいです」


灯花は踊り場の水たまりを見た。街灯の光はほどけずに膜の上で小さく震えており、自分の文章がほんの少しだけ現地に届いたような気がした。


「紹介文、ずれてなかった?」


千景が聞いた。


「たぶん、大丈夫です」


「たぶん?」


「本当は、触れなかった熱というより、触れたら冷える熱かもしれません」


千景は少し黙った。灯花は自分の言い方を考えた。触れたら冷える熱。変な言葉だ。でも、この場所にはそういう雰囲気があった。


「触れなかったから残るものもある」


千景の声が、横ではなく少し後ろから届いた。


灯花は振り返らなかった。振り返れば顔を見てしまうし、今その距離で顔を見るのは少し怖かったからだ。


「触れたら変わりますか?」


「変わると思います」


「悪い方に?」


「それは、触れ方による」


車の音が下から押し上げてくる。灯花は、手すりに触れないままその冷たさを想像した。千景の言葉は仕事の話から少しだけ離れていった。


「千景さんは、触れない方を選ぶことが多そうです」


言ってしまってから、灯花は息を止めた。踏み込みすぎた。けれど、雨上がりの歩道橋は言葉を少しだけ近づけてしまう。


千景はすぐには答えなかった。下を通る車の光が彼の横顔を照らした。灯花はつい振り返ってしまい、目が合いそうになったので、視線を水たまりに落とした。


「そうかもしれない」


千景の声は静かだった。


「触れたら、相手の場所まで変えてしまうことがあるから」


灯花は胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。相手の場所、編集室、仕事、文章。自分が安心できる場所を、千景はきっと大事にしている。


それは優しさだと思う。けれど、優しさだからこそ苦しいことがある。触れないで守られると、触れてほしい気持ちは行き場をなくす。


「変わっても、困らないこともあるかもしれません」


灯花の声は自分でも驚くほど小さかった。


千景は何も言わなかった。沈黙が雨のあとに残った水たまりのように広がり、灯花はすぐに言い訳を探し始めた。


「場所の話です。投稿の場所が文章によって変わることもあるので」


「うん」


千景は合わせてくれた。合わせてくれたことで、灯花は自分が何を言いかけたのか余計に分かってしまった。


歩道橋の上で風が少し強くなり、濡れた手すりの匂いが近づいてきた。車道の光が足元をかすめ、灯花はスマホを取り出して今日の紹介文を開いた。


「冷えた階段に、触れなかった熱が少し残る歩道橋です。雨のあとも、光はほどけずにいます」。


現地で読むと少しだけ恥ずかしかったが、消したくはなかった。灯花は画面を千景に向けた。


「今読むと、近いですね」


「近いね」


「でも、遠くする気にはならないです」


千景は文を見てから、水たまりを見ました。


「それなら、これでいいと思う」


「はい」


「灯花が遠くしたくないなら」


まただ。灯花が、という言い方。文の話だと分かっているのに、胸の奥では別のものが返事をしてしまう。


灯花はスマホを閉じた。暗くなった画面に自分の顔が薄く映っている。夜の中で少しだけ逃げ遅れた顔だった。


「帰ろうか」


千景が言った。


「はい」


階段を下りる時、灯花の足元がわずかに滑った。大きく崩れたわけではないが、手すりに触れるよりも先に千景の手が空中で止まった。


触れてはいない。支える直前で止まった手。灯花は、その動きだけで胸が熱くなった。


「大丈夫?」


「大丈夫です」


声が少しだけ震えた。千景の手はすぐに下りた。触れなかったが、触れなかったことが触れられたよりも長く胸に残った。


階段を下りきると、街の音が戻ってきた。駅に向かう道は濡れた光を細く伸ばし、人の流れは少しずつ速くなる。灯花は千景の横を歩きながら、先ほどの動きを何度も思い返していた。


触れなかった熱。自分で書いた文章が夜の帰り道で自分に返ってくる。仕事の言葉は便利だ。隠すのにも渡すのにも使える。千景が言ったその意味を灯花は少しずつ体で知っていく。


駅の入口が近づき、明るい照明の下に出る。歩道橋で濃くなった空気が少し薄まり、灯花はそれを少し惜しいと感じた。


「今日はありがとうございました」


「こちらこそ、現地で読めて良かったです」


「千景さんが来なかったら、たぶん見に行ってなかったと思います」


「そう?」


「はい、写真だけで済ませたと思います」


千景は少し考えるように視線を落とした。濡れた歩道に信号の色が淡く映っている。


「写真だけで済まない文章だったから」


灯花は返事をしなかった。千景の声は淡いのにまっすぐで、自分の書いた文章をそんな風に読まれると困った。


「そういう言い方、また困ります」


「また?」


「またです」


灯花は少しだけ笑った。声に出すと胸の緊張がほんの少しほどけ、千景も小さく息を緩めた。


改札へ向かう手前で道が分かれ、灯花は駅の地下へ、千景は別の路線へ。分かっている距離なのに、今日はその分かれ目が少しだけ重く感じられた。


「気を付けて帰って」


千景が言った。


「千景さんも」


それだけでいい。普通の挨拶。けれど、声の奥には歩道橋の湿った光がまだ残っている。


灯花は地下へ続く階段を下りた。背中に千景の気配が残っている気がして振り返りそうになったが、振り返らなかった。


地下の空気は地上よりも乾いていたが、髪の端には歩道橋の風が残っていた。灯花はスマホを取り出し、社内チャットを開いた。


千景に何かを送る理由はない。現地確認のお礼ならさっき言ったけれど、入力欄を開きたくなる。今日もまた、言葉が仕事の形を借りようとしている。


「歩道橋、行けて良かったです」


灯花はそう打った。仕事の報告としても自然だ。けれど自分の中ではもう少し違う意味を持っている。


そのあとに「ありがとうございました」と続けるが、さらに何かを付け足したくなる。触れなかった手のこと、声が近かったこと、雨上がりの匂いの中で自分の文章が少し怖くなったこと。


もちろん送れるはずがない。灯花は全文を消そうとして最後の「す」で手を止めた。


また、最後の一文字が残る。自分でも呆れるが、今日はその一文字が少し温かく感じられた。


ホームに入ると、電車を待つ人の気配が空気を満たしていた。人いきれの湿り気と線路から立ち上る鉄の匂い。遠くで車輪の音が近づき、地下の壁がわずかに震える。


灯花は、黒い画面に映った自分を見た。朝は雨の匂いを連れていた顔、昼は言葉を消しきれなかった顔、そして夜の今は、触れなかったものを胸にしまっている顔だった。


電車が入ってくる。光がホームの端から流れ、灯花の靴先を白く照らす。扉が開く前の短い間、彼女はスマホの入力欄をもう一度見た。


残った「す」を消さなかった。送らない。けれど、消さない。その曖昧な場所に今夜だけ、自分を置いておきたかった。


灯花は電車に乗った。窓の向こうで、東京の地下を走る電車の光が流れ始めた。雨上がりの歩道橋、濡れた手すり、触れなかった千景の手が胸の奥でほどけずに残っていた。

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