3 翠雨の春風の中で
翠雨の月。
土埃を上げて馬を曳いた隊列が小さな集落を行き交う。
領主筋であるアウグスト=ハイゼンベルクは、道を譲ってくれた隊列に頭を下げて通り抜けた。
後方の祖父のコンラート=ハイゼンベルクは、堂々と通り抜ける。
その後ろ、三頭の種牡馬は馬丁が駆け足で馬を曳いていく。随行している荷駄馬も駆け足だ。
すれ違うため待っていた隊列から、
「コンラート様!お気をつけて!」
「前伯爵様!」
と声がかかる。
アウグストの父ユーリウス=ハイゼンベルクに代替わりして四年。
「じい様は、まだ、人気なんですね」
「おお。ありがたいことだな」
騎馬の上から手を振ると、待っている隊列のものから静かに歓声が上がる。
「お坊ちゃんもお気をつけて!」
「ありがとう!」
アウグストたちの隊列は、のどかな春の田園を、目的の牧場へゆっくりと歩をすすめる。
目的地はまだ6ディグルほど先だ。
このままの道行きでは、一時間ほどでつくだろう。
発情している種牡馬を連れての道行きだ。何があってもいけない。慎重な道行きとなる。
加えて馬というのは案外神経質な生き物だ。
「これだけゆっくりだから、馬たちへの負担もそんなにないでしょうか」
「ああ、無理はかけたくないからな」
発情を迎えて気が立っている種牡馬を曳き連れているのだ。
あまり急ぎだと馬丁たちの負担となってしまう。
アウグストは心配で振り返る。
気の立った雄馬が、立ち上がりかける。が、馬丁の曳き綱にしっかりと抑えられて、またゆっくりと歩いていく。
*
高い位置で雲雀がテリトリーを誇示している。
「おお。見えてきたな」
林の向こうに、小さな立て看板があった。
「オリンド牧場ですね」
隊列は緩やかなカーブの道を通り抜け、右に曲がった。
両側の放牧地には、多くの仔馬が跳ね、傍らの母馬がゆっくりと草を食んでいる。
もう少し行くと厩舎と母屋が見えた。
厩舎の前には数名の男たちが、隊列の到着を待ち構えていた。
「コンラート様!本日はお越しいただいて申し訳ございません!」
「何をいう。シルヴェリオ。お前の牧場からの要請だ。そりゃ駆けつけるさ」
シルヴェリオと呼ばれた牧夫は、深々と白髪頭を垂れた。
「昔からコンラート様は、お変わりがございませんな」
「シルヴェリオ、お前は少し老けたようだの」
若かったシルヴェリオは、ハイゼンベルクの牧場に厩務員として勤務していたのだ。縁あって、オリンド牧場の娘の入婿となり、今ではこの牧場主だ。
「シルヴェリオ様。牝馬の用意ができました」
厩務員が呼びに来た。
「ご苦労。では、コンラート様お願いします」
騎乗では、何かと都合が悪い。
アウグストとコンラートは馬を降り、繋留所へ馬を繋いだ。荷駄馬を引いてきた者が、水と飼葉を与えはじめたところまで見て、二人は繁殖用の厩舎の一角に向かった。
そこには、こちらも発情の始まっている牝馬が三頭繋がれていた。
「よぉし、お前はこっちだ!」
馬丁が馬たちに声をかけながら、誘導していく。
小屋に牝馬が先に入った。付き添っていた仔馬は、小屋の外にいて馬丁がその綱をもった。
次に種付け賃料の高いドミニュクス系統のレンブラントが入る。
馬同士のいななきが、興奮の度合いを示していた。
「おお、これは期待できるな」
コンラートが、嬉しそうにその光景を見ていた。
馬同士が離れると、馬丁たちが慌ただしく馬を入れ替える。
「二番手はラドバウトか」
アウグストが、ラドバウトの馬体を、少し遠くから慎重に見た。
「体調は問題なさそうですね。じい様」
「ああ、そうだな」
コンラートはしっかりとうなずく。
「わああ」
「しっかり押さえろ!」
ラドバウトが立ち上がり、牝馬エレケを蹴ろうとする。
危ういところでうまくエルケが躱し、双方ともに怪我はなかった。
「押さえてろと言ったろう!」
馬丁の一人の怒号が走る。
「一番気の荒いレンブラントの種付けが、思いのほかうまくいったから、馬丁たちの気が抜けたのかもしれませんね」
アウグストが、祖父に問いかける。
「ああ、何にせよ。馬丁たちにも怪我がなくてよかった」
発情している馬は、言うなれば凶器だ。
興奮しやすく、その強靭な足で叩かれれば、ヒトなどひとたまりもないだろう。
その後、馬たちが離れても気はやはり抜けなかった。
もう一頭。ピエルの種付けは、慎重に行われた。
と、そこへ牧場主のシルヴェリオが姿を現す。
「今回は本当にありがとうございました」
「いいや。だが、無事に済んでよかった」
「アウグスト坊っちゃんも、付き添いお疲れ様でした」
「こちらこそ。良い勉強になりました」
気持ちの良い笑顔を浮かべたアウグスト。
「コンラート様。アウグスト様はいい跡取りになりますなぁ」
「ああ、そう、期待している。いい孫だよ」
コンラートは無骨な手でアウグストの短く切りそろえた茶色の髪を撫でた。
シルヴェリオから一頭当たり2グリュックの種付け賃料を受け取ると、コンラートは懐にしっかりと仕舞った。
「ああ、坊っちゃん。これをお持ちください」
シルヴェリオは、抱えていたバスケットからまだ温かい包みを、アウグストに差し出した。
「これは?」
「妻のリーンサネが焼いたパンです。坊っちゃんが来るなら持たせたいと張り切って作ってました」
アウグストは包を少し開けてみた。
湯気がゆらり、麦の優しい匂いが鼻腔をくすぐった。
「ありがとう。大切にいただくよ」
シルヴェリオは、満面の笑みを浮かべて、深々とお辞儀した。
ほこほことまだあたたかい包みを開けて、隣を歩く馬上の祖父に、パンを分ける。
「おお、こりゃうまいな」
パンには、ドライフルーツやくるみなどが入っていた。
「シルヴェリオめ。奮発しおって」
一口、また一口とよく噛み締めて食べ終えた。
*
厩舎についた頃には、もうだいぶ日が翳っていた。
連れて歩いた種牡馬たちを、ブラッシングや装蹄がおかしくなっていないかをチェックしてから牡厩舎の馬房にしまう。
「よし、お疲れ様だったな」
「いえ。本当に勉強になりました。今日種付けした仔馬たちは、来年生まれてくるのですよね」
「ああ。上手く着床すればだがね」
「早く仔馬たちがみたいです。って、そこらにはいっぱいいますけど」
「そうだな」
二人は、土埃に汚れた衣服のまま母屋の湯殿にまず向かった。
*
湯殿から出て、衣服を整える。
ジャケットに袖を通し、二人は連れ立ってダイニングへ向かった。
「いやあ、お前もだいぶ腕っぷしが太くなってきてるよな」
「いいえ。僕はまだ細いですよ。じい様には敵いません」
そろそろ老齢を迎えるにも拘わらず、コンラートの肉体は全盛期のそれとそれほど遜色はない。
二人は腕の太さを比べたりしながら、笑い合いながら、ダイニングの扉を開けた。
「いつまで、待たせるのですか」
現当主ユーリウス=ハイゼンベルク伯爵がテーブルの向こうから、実の父と息子に冷たい視線を送る。
その冷たい視線は、ユーリウスからだけではない。その妻、アンネリースとアウグストの弟ランブレヒトからも注がれている。
アウグストとコンラートは、幾分しょげた顔を浮かべて当てがわれている席についた。
「今日は、家族でディナーだと伝えていたはずですが……」
「済まなかったよ。ユーリウス」
「お父様。いつまで牧夫の様なことをされるのですか。あれだけ家族に悪影響があるとお話したじゃないですか」
前菜として、採れたての魚のカルパッチョやサラダの乗った皿が、各人の前に置かれた。
家長が食べ始めたので、倣うようにそれぞれもカトラリーに手を伸ばす。
「まったく、お父様ときたら。アウグストは曲がりなりにも嫡男なんですよ」
「わかってるよ。わかってるから、牧場仕事を教えてるんじゃないか」
スープが運ばれてくる。ポタージュだ。
ほっこりとやさしい味わいが、アウグストは好きだった。
「どこがわかっているのです。再来月には成人の儀を控えているのですぞ。貴族らしいこと、まったくしないで」
「それよりも、馬だろう!我々は名馬ドミニュクスが活躍したから、伯爵までになったんだぞ」
「くどいですぞ。お父様」
香草で焼かれた羊肉のステーキが、湯気を立てている。
ナイフで、アウグストは切り分ける。柔らかい肉を夢中で食べた。
「なに?くどいと?」
「ええ。前世紀の話をいつまでしているのです。それではこの先、貴族社会ではやっていけません」
「ええ。そのとおりですわ。お義父様」
アンネリースが慎ましやかにカトラリーを置き、口を挟む。
「アウグストにしても、牧夫ではないのに毎日薄汚れた格好で戻ってきて、恥ずかしいったらありません」
「では、このハイゼンベルクの牧場の指揮系統を他の者に渡せというのか!」
根菜のローストが、パンとともに運ばれてくる。
アウグストの隣で、わざとらしくランブレヒトが大きなため息をついて、アウグストを睨みつけている。
その瞳は『お前のせいでいつもこうだ』と語っていた。
アウグストは、わざと肩をすくめてみせる。
ガタン。
大きな音を立てて、ランブレヒトの座っていた椅子が倒れる。
急にランブレヒトが立ち上がったためだ。
「アウグスト!お前が悪いんだからな!」
ランブレヒトに指を差されたアウグストは、もう一度無言で肩をすくめた。
「座りなさい。ランブレヒト」
「でも、アウグストが!」
「僕が、なにかしたんでしょうか」
あっけらかんとした声を、アウグストは上げた。
両親が揃って眉を顰める。
「このぉ!」
ランブレヒトは、右手を振りかぶってアウグストに駆け寄ろうとした。
「聞こえなかったか!座れ!ランブレヒト!」
ユーリウスが吠える。
「ぐっ」
ランブレヒトはなんとか自分を抑えることに、成功したようだった。
アウグストを、コンラートは心配そうに見つめた。が、孫息子は、美味しそうにパンを頬張っていた。
(やれやれ……、こいつはとんだ大物だな)
苦笑したコンラートは、軽い蒸留酒を口に含んだ。
*
ひと騒ぎのあった夕食後、アウグストは静かな裏庭を探索していた。
と、そこへ──
「え?誰?」
年若い女性の声がした。暗がりに佇んでいて、誰だかわからない。
「君こそ、誰?」灯り取りのろうそくを、その方向へ。
ぼぅっと浮かんだその人物は、侍女見習いとなったリーアだった。
「アウグスト様。驚かさないでくださいよ」
「それは、こっちのセリフ。こんなところでどうしたの?また迷った?」
「いえ、すこし……」
そう言ったリーアの頬には、涙の跡があった。
「もしかして、ホームシック?」
リーアは、急いで首を振った。
「違うんだ。んじゃ、いじめられてる?」
ビクン。リーアの肩が跳ね上がる。
「そっか。侍女頭に僕から話そうか」
「違うんです。私が訳の分からないことを、言ってしまって。それで怒られてて」
「ん?なんて言ったの?」
「えと、アウグスト様の、お付の侍女にしてくださいって」
アウグストは吹き出した。ひとしきり笑った後、真面目な顔を作ってこう言った。
「たしかに。怒りたくもなるね。だって女性は、男性の従者にはなれないから」
あからさまにリーアはしょげた。
「そういうのって、やっぱり関係があるんですね……」
「そうだね。でも、ありがとう。僕には従者はいないから、君のその気持ち、本当に嬉しいよ」
「え。侍従がいないって、どういう?」
その疑問は、夜風にとけた。
「さ。リーア、寝床に戻りなさい。そろそろ風邪を引いてしまうよ」
アウグストは、片手を上げて自分の寝室に向かった。
春の夜風の中、リーアはアウグストの背中を見送った。




