2 馬に開かれた心
カクヨムから移行作品です
よろしくお願いします
汐風が、低い山全体を揺るがして吹いている。
レオンチー=スヴォロフは家庭教師になって三年目の若手だ。前任者が高齢のため退職したので、王都ヤイニッセの出身で、赴任してきたのだ。
レオンチーは、ハイゼンベルク伯爵家の子息たちとの顔合わせの時、開口一番に
「僕は、海のあるエルメントラウト地方にすごく憧れてたんですよね!海と馬!素敵な組み合わせだと思います!」
次男のランブレヒトは、あからさまに馬鹿にした顔を見せたが、長男のアウグストは共感した。
「僕は、ここしか知らないけど、本当に素晴らしい景色だと思うよ」
その日から、午前と午後に分かれて、子息たちの授業が始まった。
午前は、次男ランブレヒト。午後は長男アウグストである。
当日から、ランブレヒトは授業をサボった。
物を知らぬ若手になぞ、教わることがあるものかということである。
その背後には、母であるアンネリーゼの指示もあったようだ。
*
「先生!大丈夫ですか?」
勉強室のデスクに座るアウグストが、心配そうに聞いてくる。
「ああ、ごめん。前のことを考えてしまってた」
「へぇ。先生にしては、珍しいですね。まるで、僕のクセが移ったみたい」
「そうだね。アウグスト君は、いつもどこかに飛んでいくからね」
アウグストは困った顔で、頭を掻いた。
それにしてもだ。
このハイゼンベルクの子息たちは、両方とも問題児だ。
弟は優秀だがサボり癖があり、兄は授業態度こそ真面目だが、身が入っていない──
それも、基礎学習の面でだ。
だが、こと、牧場や馬、経営などの基礎学習になると話は別だ。
レオンチーは、その面には明るくないため、アウグストに教えを請うている始末なのだ。
「先生、ドミニュクスに掛け合わせた牝馬によって系統っていうのができて、そこから生まれた仔馬からまたいくつかの系統ができたんです。僕たちが主に扱っているのが、その三代下のプロスペロ系統の馬です」
「ドミニュクスのそのままの系統じゃないんだ」
「ええ。系統というのは、本来なら父馬の名前で出るもの、なんです。でも、僕たち、ああ、生産牧場の方の部分では牝馬をかけ合わせたことでできる系統分類をしています」
「ほう、知れば知るほど深いなぁ」
レオンチーは、いつの間にか前かがみで聞いていた背中を伸ばした。
「結構、面白いんですよ。この産駒がどこに行って、どこで子を成し、どんな活躍をしたのかとか、年鑑見てたら、本当に一日潰れます」
「そうなんだね」
ふと、レオンチーはうまくいっていない部分の学習内容を、馬に例えて考えさせることを思いついた。
その思いつきは、大幅な学習効果を生むのだが、それと気づくのはだいぶ後になってからのことだった。
*
牧場に出るために作業着に着替えたアウグストだ。
通常であれば、着替え自体を侍従にやらせるだろう。
けれども、アウグストは全ての着替えを自分でやる。
牧場では従者などを待っていられない。
こと、馬に急変があった場合などだ。
そんなときにいちいち従者を呼んでなどいられない。
とはいえ、そもそもアウグストには側付きの従者はいないのだが。
それもこれも、実母アンネリースの手によるのだ。
「アンネリース様。申し上げたいことがございます」
その時、乳母役だったタルヤが実に言いにくそうに、顔を見せたアンネリースに話した。
「どうしたの?タルヤ」
「御子息アウグスト様ですが、そろそろ1歳におなりになりますが、喜怒哀楽という感情をお見せになったことがあまりございません」
「え?どういうこと?」
「アウグスト様は、あまりお笑いになりませんし、こちらからの呼びかけにあまり反応されません」
「それって、どういう……」
「わたくしの経験上、御子息アウグスト様ですが、お医者様にお見せになったほうがよろしいかと存じます」
真っ青になった、アンネリース。
日を置かずにアウグストの診察のために医師が呼ばれた。
早速診断がくだされたが、健康状態は異常なし。
「では、どうしてアウグストは笑わないのです?」
「それについては、なんともお答えのしようがございません」
「あなた、医師ですよね。どうしてわからないのですか」
息子の異常は顕著なのに、はぐらかされたように感じたアンネリースは、烈火のごとく吠えた。
医師は、下を向き首を横に振るばかりであった。
そこから、アンネリースの教会通いが始まった。
朝に夕に最高神ディアグの教会へと通うのだ。
藁にもすがる心地だったことは言うまでもない。
その頃、第二子の妊娠が発覚するも、教会通いは止まらなかった。
二人目の子が、男子である可能性が確約できないからだ。
伯爵家嫡男が欠陥品だった場合は、製造元である母のせいにされるのが、せいぜいだ。
もとよりプライドの高かったアンネリースだ。
教会に通い詰めるのも、息子可愛さよりも自分の体裁を考えてのことだったのだ。
身重の体でも、アンネリースは通い詰めていた。
と、そこへ──
「おお。どうされた?」
最高神ディアグ教会の神官が、村人の女性に話しかけているのが、耳に入ってきた。
「神官様。以前、お話くださった方法で孫の笑顔が増えました。ありがとうございました」
「おお、そうかそうか」
女性は、お礼を言い、教会から出ていった。
アンネリースは、神官に問いかけた。
「申し訳ありません。聞きかじりですが、あの女性のお孫さんに笑顔が増えたと聞こえました。なにか方法があるのでしょうか」
「おお、これはアンネリース様。当教会に足を運んでくださって、ありがとうございます。……先程の女性ですが、お孫さんが生まれたばかりで、笑わなかったり、泣くこともあまりないそうで。いろんなことを試されたのですが、あまり効果はなかったんですって」
「そうなんですか」アンネリースは、アウグストの表情のない顔を思い浮かべた。
「大昔ですが、聞きかじった治療法を思い出しましてね。それを伝えたのですよ」
「それは、どういう治療法なんですの?」
「馬に、会わせるのです」
アンネリースはくだらないと首を振った。
「そんなことで、治療になどなるはずがありません」
「いいえ。アンネリース様。それが、今回の件だけじゃないのです。この国全土でも何度も成功例があるようですよ」
アンネリースは悩んだ。
ガセネタだと、記憶の奥底に沈めてしまうこともできた。
だが、どうにも引っかかる。
気まぐれに試してみようと思ったのだ。
「アウグスト。今日はお母様とお散歩をしましょう」
許可を取ったアンネリースは、アウグストの小さな手を取り、放牧場へ向かう。
「アンネリース様。お気をつけて」
砂利が敷かれた道は泥道よりは歩きやすいが、貴族女性には向かない。
一行はゆっくりと放牧場へ近づいていった。
「おお。アンネリースか。珍しいところにいるものだな」
この当時はまだ伯爵家当主だったコンラート=ハイゼンベルクが、馬上から声を掛ける。
義父に当たるコンラートは、アンネリースにとってもっとも苦手な人物であった。
「お義父様……」
その時である。
今まで、何にも関心を示さなかったアウグストの目がキラリと光った。
そして、コンラートの騎乗する馬に向かって手を伸ばした。
「アウグスト……!」
「アウグスト!お前!馬がわかるのか!」
「うう!うう!」
アウグストが言葉にならない声を出す。
そして、満面の笑みを見せる。
その日から、アウグストの周囲は一変した。
日課の中に牧場へ通う事が追加されたのだ。
*
「アウグスト様。もう、普通のお子様と何ら変わりがございません」
馬との初対面から三年は過ぎていた。
「先生、あの頃のアウグストは、一体何だったのでしょう。それと、この馬狂いはいつになったら収まるでしょう」
医師は何もわからないと首を振った。
*
コンラートは、よく孫息子のアウグストを牧場に連れ出した。
コンラート自身も馬に接する前の感情を何も示さないアウグストのことが気に掛けていたのだ。
けれども、当主の立場で表立って尋ねるのも気が引ける。とはいえ、どうにも毛嫌いをされているとわかっていると、聞きづらさが先に立った。
「アウグスト。お前、母様と馬とどっちが好きだ?」
ふざけ半分でコンラートが尋ねる。
「じい様!それは馬に決まってます!」
愛情を示してくれる対象と、そうではない間柄。それは言わずもがなだった。
*
数年後。
「背が伸びたなぁ。アウグスト」
家督を息子ユーリウス=ハイゼンベルクに譲ったコンラートは、悠々自適に牧場仕事に時間を費やしていた。
額に汗したアウグストが、作業着姿で笑いかける。
「そりゃ、じい様の孫ですから」
その頃には、一端の牧夫と変わらないほどの働きができるようになっていた。
まだおのれの肩まで背が届かない孫息子の働きっぷりに、前伯爵は舌を巻いていた。
*
怒り心頭に発していたのは、アンネリースだ。
言うなれば、牧場へ連れていき、馬に合わせたのは、アンネリース自身の功績なのに、褒めてくれないばかりか息子アウグスト自身も、自分のことを軽く見ている。
「きっと、あれは、私の息子じゃないんだ」
アンネリースは、割り切って、アウグストのことを息子だと思わないようにした。
そして、それは、使用人たちに広まっていった。
やがて、奥向きでアウグストの味方になる使用人は格段に減ったのだった。
*
昨今、
アウグストには、従者という者がいたことがなかった。
母屋での寝泊まりと飲食はできるが、それまでだ。
母アンネリースからの冷遇は、およそ伯爵家嫡男としては考えられないほどであった。
「お母様!どうですか。このジャケット」
「よく似合っていますよ。ランブレヒト」
アンネリースの溺愛の対象は、次男ランブレヒトだった。
自分では、好き嫌いの範疇外にある馬という存在。それにハマっていった息子は、いらない存在なのだ。
それよりも自分の理解の範疇にいる次男が大切になるのは、当然なのかもしれない。
愛されない長男は、それまで以上に馬への愛情を高めていったのは言うまでもない。




