1 産駒
未明の暗がりに、いななきが走る。
厩番と共に少年は、目を覚ました。傍らのランプに火を灯す。
「産気づいたようだな」
「坊っちゃん。灯りを」
「ああ」
少年は、予備のランプに火を灯した。
二人は馬房へと急いだ。
そこには、大きな腹を揺らした馬が一頭、荒い息をしていた。
見るからに苦しそうだ。
「よし、アンケ。大丈夫だ。ついててやるからな」
少年は、アンケと呼ばれた馬を落ち着かせるように話す。
やがて、アンケがいきむと、体外へ仔の体がでてきた。
だが、様子が違う。
蹄が先に出てきている。
「逆子だ!ヨルク!じい様と先生を呼んできてくれ!」
「へえ!」
ヨルクは、牧場内の小屋に走っていった。
その小屋には、少年の祖父と獣医が待機していた。
少年は、毛羽立ったロープを慣れた手つきで手に取った。
母馬の後ろに慎重に立った。本来であれば、非常に危険を伴うが母馬からの信頼を受けている少年にはどうということもない。
手に持ったロープを慎重に仔馬の足に結わえる。
と、そこへ。
「アウグスト!大丈夫か!」
少年の祖父、コンラート=ハイゼンベルク前伯爵が、白髪交じりの焦げ茶色の髪の上に寝癖を付けて登場した。
「アウグスト様!逆子ですか!」
エラスト=クラスニコフ獣医も駆けつけてきて、作業着の袖をめくった。
「ああ」
アウグスト=ハイゼンベルクは、手に持ったロープを強く引く。
そのロープの先をコンラートとヨルクが持ち、タイミングを合わせて強く引いた。
「まだです!慎重に!」
エラストは、分娩の様子を見ながら的確に指示を出している。
「まだです……!もう少し……!」
肩周りがでた。慎重に進めるが、頭部が出てこない限り、若駒が窒息して死んでしまう。
一刻の猶予もなかった。
ずるり。
母馬の体内から、若駒の全身が落ち、一度バウンドした。
「生まれた!」
だが、いまだ緊迫は続く。
鼻周りを覆う膜を切り、即座に呼吸させなければ、一巻の終わりだ。
エラストは、ナイフを手に取り、膜に切れ目を入れた。
若駒は、一番最初の呼吸をたっぷり味わった。
その間にも作業は続く。
捨ててもいいような布を手に持ち、仔馬の血で濡れた体躯を拭き取ってやる。
それは、体の異常を確認する作業でもあった。
拭き終わると同時に、身動きした仔馬はその薄茶色の身体を伸ばした。
「おお」
コンラートがにやりと笑った。
その時、仔馬は四肢に力を入れた。
よろけながら、一歩二歩仔馬は馬房を歩こうとする。
何度か目に、ようやく足の力の掛け方がわかってきたようで、しっかりと立ち上がった。
その頃には母馬も大分安定してきたようだ。体外に後産を排出し、少しだけ平気な顔を見せていた。
「アンケ、頑張ったな」
アウグストは、その鼻っ柱を優しく撫でてやった。
仔馬は、次第に母馬に近づいていった。
乳を飲むのだ。
これも、何度か試みて、ようやく母乳にありついた。
生まれたての仔馬が母乳を飲むまでは、臨戦態勢である。
せっかく生まれ落ちた仔馬でも、自力で母乳を飲みに行けなければ、生きていけない。
その場合は、可哀想だが殺処分ということになる。
*
この地域、エルメントラウト地方は軍馬を主な産業としている地域だ。
この地方には、百を超える牧場が点在している。
その牧場群を取り仕切っている家が、ハイゼンベルク伯爵家である。
「じい様」
一息ついたコンラートが額に汗した孫息子に振り返った。
「アンケの仔、うまく生まれてくれて良かったですね。オスだそうですよ」
コンラートは、アウグストに気持ちの良い笑顔を返した。
「おう。お前もよく頑張ったな」
前伯爵には似合わないゴツゴツした手でアウグストの頭を撫でた。
「お前の処置が早くなきゃ、アンケ共々仔馬は死んでいただろう」
「いいえ。でも、夜中の見張りを任せてくれて、ありがとうございます」
「そろそろ、お前にも任せていい頃合いじゃないかと思ったんだが。正解だったようだな」
その頃には、朝の光がハイゼンベルク伯爵家の牧場全体を照らしていく。
厩務員が出勤してきて、馬房の馬たちを牧草地へ放牧していく。
「あ。僕も手伝ってきます!」
アウグストは背中を伸ばすと、壁にかけている端綱を持ち、まだ馬房にいる馬へ静かに駆け寄った。
「本当に、いい男に育ったな」
コンラートは、アウグストの背中を眩しそうに見送った。
*
牧場仕事は、のんびりしているように見えて実は忙しい。
馬たちが放牧されたあとの馬房を片付けるのが、朝の仕事だ。
敷き藁の中に点在する馬糞を取りこぼしがないように集めて、敷き藁を屋外に出し、天日乾燥させる。
全ての馬房の掃除が終わると、朝の仕事は一応の終わりとなる。
アウグストたちも一旦の仕事終わりを迎えた。
「坊っちゃん。今朝は大変でしたね」
「ああ、ヨルク。お前も大変だったな」
「いえ。坊っちゃんのほうが大変でしょう。これから、家庭教師様が来られるんでしょう。眠くはありませんか」
アウグストは少し肩をすくませて。
「眠くないと言ったら嘘になるけど、僕がこの家を支えないといけないからね」
そこまでいうと、ヨルクの耳元にそっと寄って
「本当は、厩仕事だけしていたいんだけどね」といたずらっぽく笑った。
*
牧場の広大な敷地から出ると母屋があった。このあたりでは、一番の邸宅である。
三階建ての石灰質の白い石造りで塔が二つ立っている。
中庭を囲むコの字型の構造をしていて、広間から覗く中庭の風景が、訪れる賓客の目を楽しませてもいた。
正面玄関前には、ハイゼンベルク伯爵家が興った要となった伝説馬ドミニュクスの騎馬像が、雄々しく立っている。
アウグストは、そのドミニュクス像の足を撫でてから正面玄関に入った。
と、そこへ──
「使用人は、裏口を使いなさい!」
今まで会ったこともない侍女が、ものすごい形相で睨んでいる。
「いや?僕は使用人じゃないよ?」
「じゃあ、下働き?どっちにしても、こっちじゃないでしょ」と、アウグストの腕を強く引っ張った。
アウグストは抵抗するが、相手は女性だ。
力の加減もわからず、困っていると──
「なんです。朝から騒々しい」
玄関ホール、階段上からハリのある声がした。
「母様……」
冷たい双眸がアウグストを見つめた。
母アンネリース=ハイゼンベルクがそこにいた。
アウグストが渋い顔をする。できたら会いたくない人第一号だ。
「リーア。それは、使用人でも下働きでもありません。息子のアウグストです。それでも、一応ですが」
強く掴んでいた手を、リーアと呼ばれた侍女は即座に離し深々と頭を下げた。
「申し訳ありません!」
「いいんだ。このナリだしね」
アウグストは苦笑する。無理もないのだ。
使用人が着るような麻の服に馬牧場独特の臭い。ホコリもついたままで、今日は馬のアンケの出産のときに付いた乾いた血も付いている。
「本当にみっともない。伯爵家嫡男として、恥ずかしいと思いなさい」
アンネリースは、息子に寄りつきもせずいまだに階段上にいた。
そして、挙げ句の果てに汚いものを見るかのように眺めている。
「よう。アウグ。いい格好だな」
そこへ──。
二歳下の弟、ランブレヒトが玄関ホールに現れた。
「ランブレヒト。それに近寄ってはいけません」
「はい、お母様」
ランブレヒトは、もちもちとした頬を皮肉に歪ませると、階段を上がっていった。
「おお、臭い。行きましょう。ランブレヒト。馬狂いには用はありません」
二人は、屋敷の奥に戻っていった。
アウグストは、肩をもう一度すくませた。
「アウグスト様……先程は、本当に申し訳ありませんでした」
「あれ?まだ、君いたんだ」
アウグストは、リーアに人好きのする笑顔を見せた。
「はい……きちんと謝罪をしなければと……」
「いいのに。僕は慣れてるから。それより、持ち場を離れていて大丈夫なの?」
「まずは、屋敷内を把握してこいと言われまして……。でも、こんなに広いお屋敷初めてで、迷ってしまったところだったんです。お恥ずかしい……」
「ふーん。じゃあ、案内してあげるよ。この格好でもよかったらだけど」
渡りに船と喜んだリーアだったが、その前に湯浴みをすべきだと提案した。
「ええっ。めんどくさい……」
「本当に、ここのご子息様なんですか?身だしなみは整えられたほうがいいと思いますけど……」
リーアに押し切られるように、アウグストは湯殿へ向かった。
「君の案内は、当分先になるけど?」
「それよりも、身だしなみを整えられるのが、先です!」
ホカホカと湯気を上げて出てきたアウグストは、衣服も整えてどこから見ても貴公子然としていた。
言葉もなくリーアが、アウグストを見つめる。
「あれ?どうしたの?」
「本当に、ここのお坊ちゃんなんですね……」
「最初から、そう言ってると思うけど。まあ、いいや。あ、君を屋敷内に案内するんだっけ」
「いえいえ。もう、いいです。ごめんなさい」
「遠慮、しなくていいよ」
アウグストが、逆にリーアの腕を取ってエスコートする。
「坊っちゃん!いけません」
「いいよ。これも、練習だと思うから」
二人は、一階から三階まで立ち入れそうなところはくまなく歩いた。
そうして二人は一階の玄関ホールに戻ってきた。
「どう?我が家は。無駄に広いと思うけど」
リーアは、流石に疲れた顔で小さくはいと答えた。
「調度品も、絵画も何もかも素晴らしいです!こんなところでお勤めができるなんて、夢みたいです」
「夢、か。そうでもないと思うけど……。まあ、いいや」
そこへ、教会の鐘の音が汐風に乗って届いてきた。
「もう、こんな時間か。もう少ししたら、家庭教師が来るんだ。持ち場に帰れるかい?」
リーアは言葉もなく、うなずいた。
「じゃ、僕はこれで」
アウグストは自室に戻ろうと踵を返した。
「あの!アウグスト様!」
振り向くと、リーアが赤い顔をしてお辞儀をする。
アウグストが首を傾げると、
「今日は、ありがとうございました!」
アウグストは、後ろ手に手を振って去っていった。
「決めた!私、アウグスト様付きにしてもらおう!」
リーアは、侍女の詰め所に駆け戻っていった。




