24 小さなわかれ
朝の夏の光が、整然と並べられたダイニングのグラスに反射している。
アウグスト=ハイゼンベルク次期伯爵は、大きなあくびをしながら席に着いた。
食卓では、フィーランたちが与えられた朝食を腹いっぱいになるほど取っている。
「あらあら、アウグスト様はまだ眠そうね」
フランセットが肩を揺らして笑う。
アウグストは、あくびを噛み殺しながら眉を寄せた。
「みんなが頑張っているのに、僕だけ休むなんてできないですよ」と、もう一つ大あくび。
「アウグストよ。儂達に任せて、お前は少し休んでいていいんだぞ?」
「そんな無茶を言わないでください。僕だってできます」
「いいや、アウグスト。お前は、休暇だ」
祖父コンラート=ハイゼンベルクが、ミルクの入ったグラスを傾けて微笑んだ。
「リーア、リーアはいるか?」
「あ。はい! こちらにおります!」
リーアはカートを押す手を止め、立ち止まった。
カートの上には、アウグスト用のスープなどの朝食が湯気を立てている。
「アウグストは、今日は休暇だ。すまんが一日身の回りの世話を頼む」
「えっと?」
アウグストとリーアが同じように首を傾げた。
「おお、それはいい! 名案だな。アウグスト君。状況は落ち着いている。安心して儂らに任せるがいいぞ」
蒼穹の雷帝オスニエル=エルライド辺境伯が、胸を叩く。
「いいわね。若いって」
フランセットとイアンが、心楽しいように笑顔を見せた。
*
数日前、主を失った寝室は──。
真新しい寝具を纏った広いベッドが中央にあり、新たな主人を澄ました顔で待っていた。
祖父と暫定後見人によって書斎から追い出されたアウグストは、今までの自室に戻ったが、そこでも──。
「こちらのお部屋は、もう、アウグスト様のお部屋ではございませんよ」
掃除をしていた老齢のメイドが、一瞬眉をしかめる。
「え? じゃあ、僕はこれからどこで眠ったらいいの?」
「あら。コンラート様のご指示はお伺いになっていないのでしょうか。主寝室でのお休みということでしたが……」
アウグストは面食らった顔を見せた。
「さあさあ、こちらはお掃除に入りますので」
「えっと。私物もあるんだけど?」
「それは、既に運んでございますよ」
そこまで言われては否も応もない。
アウグストは、仕方なく主寝室までやってきたというわけだ。
今はもう、この主寝室の主となったようだが、やはり慣れない。
それよりも、今まで自身を虐げてきた父の営みがまだ残っているようで、どうにも息がしづらい。
アウグストは所在なげに窓際にある籐で出来たチェアに座った。
しばらく経ってから、入口ドアを打ち鳴らすノックの音が響いた。顔をのぞかせたのは、リーアだ。
「あ! 申し訳ありません! お答えがなかったので、覗いてしまいました」
「いいんだ。それよりもじい様たちが、勝手にごめんね。君だって、色々仕事があっただろうに」
リーアははにかんだ笑みを浮かべた。
「いいえ、アウグスト様と一緒に居られるのですから、逆に感謝しなければと思っています」
困惑気味にアウグストは言う。
「僕といてもあまり、いいことはないと思うけど」
「別にいいことがあるから、一緒に居たいんじゃないですよ」
うろたえるアウグストをリーアは楽しげに見た。
「えと、私、前回お淹れしたときよりも、美味しく紅茶を淹れられるようになったんですよ。よろしければ、お淹れいたします。いかがでしょうか」
照れ隠しに笑いながら、リーアはそう言った。
「……ああ、そうだね。用意してくれると嬉しいよ。リーアも一緒に飲もう。用意は二人分頼むよ」
「かしこまりました」
嬉しそうに跳ねながら、厨房に向かうリーア。
残されたアウグストは、再度、籐のチェアに背中を預けた。
「疲れた……。本当に……」
やがて、健やかな寝息が寝室に満ちていく。
「おまたせいたしました……。あれ? アウグスト様、眠っていらっしゃる……」
リーアは少し残念な顔をしたが、広いクロゼットに向かうと、薄めのブランケットを探し出し、アウグストの体の上にかけてやった。
「お疲れ様です。少し、ゆっくりお休みくださいませ」
*
「あれ? リーア。アウグストはどうした」
いつも通り、掃除の仕事に戻ったリーアが掃除道具を抱えて、階段を上がっていたとき、その階段を降りてきたのがオスニエルだ。
「雷帝様!」
驚いたリーアは、階段の端に急いで控えた。
「よいよい。ただのジジイと思ってくれればよいよ」
オスニエルはおっとりと、その手を振った。
「それよりも、少し確認したいことがあってな」
リーアは少し困惑した。
「どのようなことでしょうか?」
「リーア、お主は。アウグスト君のことをどれほど好いておる?」
その問いかけは、予想外だった。
「なぜ、そんなことを問われるのでしょうか」
「うむ。お主は、この度のことがどれほどのことか、わかるだろうか」
「はい。細かいところまでは、わからないのですが。アウグスト様、前伯爵様もアンネリース様もランブレヒト様ともう、お会いになれない。お一人でいらっしゃいます……」
オスニエルは、気遣うようにアウグストのいる主寝室の方を見つめた。
「そこよ。お主もだが、アウグスト君はまだ若い。うら若い今、一人きりになることは、よくないことだと、わかるな?」
リーアは、一瞬ためらった。
「リーア、お主にはひとつ。頼まれてもらいたい」
*
数日後、全権特使としてサインしたオスニエルと祖父としてのコンラートの連名による書面が、トゥオモラのマクシミリアン=サリニャック男爵の書斎机に届けられた。
「これは! 素晴らしいことだ!」
快哉を叫び、マクシミリアンは、長男フレデリクの世話に忙しいテレーズのもとに急いだ。
「いかがされましたか? 旦那様」
産後の肥立ちがまだよくなく、療養中でもあったテレーズは、愛する夫の顔をまじまじと見た。
「聞いて驚くな? 千騎の伯コンラート様と、蒼穹の雷帝エルライド辺境伯の連名の書状をいただいた! 当家に依頼したいことがあるというのだ!」
テレーズは一瞬気をもんで、その横にいたフレデリクを思わず抱きしめた。
*
その日、旅姿のフィーラン、イアン、ジョベール、フランセットと、リーア。他数名の姿が、屋敷の裏門前にあった。
「リーア。本当に、いいの? 後悔しない?」
ジョベールが、旅立ちの準備を終えたリーアに、静かに尋ねる。
リーアは、少し寂しい顔をしたがしっかりとうなずいた。
「リーアは、どうしてもアウグスト様を生涯お支えしたいんです。そのために必要なことなら、何でもできます」
ジョベールは、いかんともしがたい表情でリーアを見つめた。が、やがて愁眉を解いた。
「そっか。アタシにはわからないけれど。リーアが選んだんなら、それでいいと思うよ。長旅だから気をつけていこうね」
「ありがとう、ジョベールさん」
「ジョベールでいいよ。アタシだって、平民なんだ。今のあんたとは変わりない身分だもの」
「そう、そうですね。ありがとう」
「おおい。そろそろ、行くぞ」
列の先頭でマクシミリアンの幼なじみであるアルミカル=パリスが、パイプの火をそっと消した。
裏口のドアが開いて、アウグストが駆けてくる。
「リーア! 今、聞いて驚いた! みんなも! どうして僕に何も言わないの?」
「言ったら、お前、反対するだろう?」とイアンが返した。
「そうそう。アウグスト様は、貴族嫌いだもんな」フィーランが茶化したように言う。
「ふふ。お貴族様なのに、貴族嫌いって。本当に面白い」フランセットが、愉快に笑った。
「だからって。リーアが、貴族になるなんて、それは、だめだ」
忌々しいといった風に、言葉を続ける。
「建前や嘘偽りだらけの人生に、リーアを晒すなんて! 僕は嫌だ!」
オスニエルが、飛び出したアウグストに追いついてきた。
「だとして、アウグスト君。君は、一人きりでその欺瞞の海を泳ぎ切るつもりかね」
「一人きりだなんて……。僕にはじい様もいますし……」
ようやく追いついた千騎の伯は、肩で息をしながらだが、孫息子をまっすぐと見つめた。
「儂が、この先、いつまでもお前のそばにいられるなら、それでもいいんだが……」
「儂は、いつか、死ぬからな」
切羽詰まった悲鳴のような声を、アウグストは上げた。
「嫌だ! じい様!」
「うむ。儂も嫌なんじゃ。お前が一人きりになるのは、耐えられない。だから、なのだ」
「リーアは! リーアは……それでいいの? 僕なんかのために……!」
リーアは眉を寄せているが、それでも、アウグストから目をそらさずに言った。
「アウグスト様だけのためでは、ありませんよ」
「え?」
「これは、リーア自身のためでもあります。だって、お約束したじゃないですか。リーアは、ずっとアウグスト様のおそばにいるって」
リーアは愛らしく笑うと。
「雷帝様もコンラート様も、リーアがサリニャック男爵様のところで、養子にさせていただいて、頑張って色々学んだら、ずっとアウグスト様のお側にいられるとお話くださったんです。リーアはそれを信じたい」
悲痛な顔でうなだれるアウグストの顔を、両の手で正面に向かせるリーア。
「どうか。待っていてください。リーアは、必ず、アウグスト様のもとに立派になって戻ってきます」
「リーア……」
寄せていた眉を解くと。
「僕は、君を信じていいの?」
リーアは飛びつきたいほどだったが、それは、我慢した。
「リーアのこと、信じてください。リーアもアウグスト様に再びお会いできる未来を信じて、頑張りますから」
*
フィーランたちもアルミカルもリーアもいない屋敷は、アウグストにとって今までで一番がらんどうに感じた。
「じい様、屋敷って、こんなに広かったんですね」
「ああ。でも、奴らは送迎が済めばすぐ戻ってくるからな」
「そうですね」
「アウグスト君や、泣いている暇はないぞ!」
蒼穹の雷帝が、豪快に笑いながら、アウグストの背中を叩いた。
「これから、君は、モットーラの町の再興をするんだろう?」
それを聞いたアウグストの表情は一転して、覇気が戻った。
「ええ。そうです。さて、どこから始めるとしましょうか」




