10 礼節とディナー
従僕たちが音もなく背後に立ち、呼吸をあわせたように皿が置かれた。空の銀盆が、シャンデリアの光を反射した。
「さあ、どうぞ。ご遠慮なく召し上がれ」
「ありがとうございます」
アウグストはごく自然な動きで、カトラリーを取り美しく盛り合わせられた前菜の海の幸と夏野菜のコンソメジュレ寄せに口をつけ、その口元をほころばせた。
「ほ。お口に合うようですな」
「ええ。こちらの魚介の使い方が、とても素晴らしいですね。私の町でも魚介はよく獲れる方ですが、ここまで旨味を出す料理までは」
リヒャルト=ヒンターマイヤー伯爵は、気を良くして言う。
「お褒めいただき、何よりでございますな。さ、ディナーは始まったばかりでございます。お心のままにお楽しみいただきますように」
アウグストは会釈するようによく冷えた水のグラスを軽く掲げた。
それを見た奥方のエリザベト=ヒンターマイヤーが、気を使って従僕に指示を出した。
従僕は、その指示に従ってアウグストの前のよく冷えたグラスに美しい黄金色の液体を、静かに注いでいく。
液体の中で細かい気泡が、浮かんでは消えていく。
「気が利きませんで、大変失礼をいたしました。アウグスト様。こちらは、南方の島でしか取れない果実から作らせたワインですの。この時期のアイロラでも、これ以上の涼はございませんわ。どうぞ、お召し上がりくださいませ」
瞬間、リヒャルトは焦った顔をしたのが、アウグストの視界に映った。それに目線だけ移し、次にエリザベトに感謝の表情を向ける。
アウグストは静かにグラスを傾けると、まずその形の良い鼻で香りを確かめた。
南国のフルーツの香りが鼻に抜ける。
その所作を、エリザベトとその娘ビルギッタ=ヒンターマイヤーはなんて優雅な方なんだろうと、うっとりと見つめた。
令息イェレミアス=ヒンターマイヤーだけが、こいつ、面白いやつだとまだ少しだけ怪訝そうに見ていた。
リヒャルトがハラハラしながら見ていたが、アウグストは溶けた真珠を注いだようなその気泡が浮かぶ液体を、ゆっくりと一口含む。
「こちらは、とても美味しい酒ですね。そして、とても香りが高い。気に入りました」とエリザベトに笑顔を向けた。
「まるで、こちら、アイロラの夏の夜空を象徴するような気品のあるお味に感服いたしました」
ビルギッタまでも誇らしい顔をした。
今まで、ビルギッタが婚約までに至らなかったのは、ひとえに彼女の癇癪のせいによるものだが。
その責は、父母が持ってくる縁談の質の悪さと縁談相手の品の無さでのことだと思い込んでいたビルギッタだ。
ここにきて、見目麗しく優雅で教養がありそうなアウグストから、その目が離れなくなった。
そんな彼女は、目線だけでエリザベトと会話をしていた。
冷製の完熟白桃とヨーグルトのクリームスープが運ばれてきた。わずかにミントが利いた甘酸っぱく爽やかなスープである。
「さすが、この地はお食事が楽しいですね。こちらのようなスープは初めてです」
あまり飲み慣れないスープだが、美味しそうにアウグストは優雅に飲み干した。
「そうでしょう。これほどの料理は、王都でも珍しいでしょうな」そう言うとリヒャルトは胸を張る。
イェレミアスは、あまり好きではないようで一口だけ口をつけて、手の振りで従僕に下げさせていた。
そんな彼にアウグストは静かに視線を向けた。
イェレミアスはそれに気づくと、父母の虚栄心に呆れたような笑顔をアウグストに向けた。
その無言の問いに微笑みだけで同意を返したアウグスト。
気を良くしたイェレミアスは、笑みを深くする。
皮目をカリカリに焼かれたスズキのポアレが運ばれてきた。その上にかけられていたのは、南方のハーブとライムのソース。
「さて、お口に合いますかどうか。希少なハーブを使いました。ライムもなかなか珍しいものですな」
あまり食べつけないが、顔にも出さずに終始にこやかにアウグストは食べきってみせた。
「このお魚、あまり好きじゃないわ。下げて」
ビルギッタが、ついいつも通りに一口も口をつけずに、下げさせる。
「これ、ビルギッタ。お行儀が悪いぞ」
リヒャルトは、焦って注意するが、
「だって、嫌いなのだから仕方ないでしょう?」と意に介さずビルギッタは、膨れた。
「アウグスト様。申し訳ございません。不調法者で」
リヒャルトが、焦ったままアウグストに向き直り、謝罪を入れるがアウグストは気にした様子はなかった。
「いいえ。好き嫌いは、誰にでもあるものです。女性は、ビルギッタ様のように好き嫌いをはっきりとお話になる方が、素敵かと思いますよ」と朗らかに笑った。
その笑顔は、女性陣の心深くに突き刺さったようだ。
『お母様!私、この方がとても気に入りましたわ!』
『わかったわ!ビルギッタ!』
母娘の視線での会話が、速度を上げていく。
銀盆に子羊のローストが静かに運ばれてきた。
エリザベトが、またまたいらぬ気を遣い、フルボディの最高級ワインをワイングラスに注がせた。
「どうぞ、こちら稀に見るほどの希少なワインでございますの」
酒を飲みつけないことを知っているリヒャルトは、流石に焦る。
「おい、エリザベト。こちらは……」
だが、アウグストはまた、完璧な所作で香りを嗜んだ後、その液体の入ったグラスの色をまず確かめ、その粘性を無言で見つめた。
「奥様。この様な素晴らしいワインを。ありがとうございます」
まず、謝辞を述べたアウグストは、ワインに口をつけた。
「……これは、重厚な素晴らしい香りですね。まるで大地に抱かれているようだ」
「ここまでの深い芳醇さは、一朝一夕ではとても成し得ません。ヒンターマイヤー家の積み重ねてこられた歴史の重み、その重みを味わっているようです。エリザベト様。この様な名品を私の様な若輩者のために……。深く感謝いたします」
「いいえ。アウグスト様にどうしても味わっていただきたいものでしたの」
「これは、痛み入ります。これほどのワインがこれほどまで、長く大切に熟成されてきたように、本日お届けした馬たちも、長く、そして誇り高く扱われる場所へと向かうのでしょうか」
アウグストの視線は、エリザベトから静かにリヒャルトに移り、そして圧倒された。
「も!もちろんでございます。私共は商家でもございますので、お譲り先については申し上げることはかないませんが、その先についても確かな家柄のところへ。ええ、ええ、もちろんでございますよ!」
アウグストの口元は美しい弓形を作る。
「そうでしたか。安心いたしました。心を込めて育成してきました馬たちです。馬といえど、私たちは幸せになってほしいと考えています」
冷や汗をひと拭き。リヒャルトは同意の声を上げた。
「その様にお考えとは、本当に素晴らしい!」
その後、南方産の果実のソルベと冷たい白ワインのジュレが出て、ディナーは終わった。
*
場所を移し、香り高いコーヒーを楽しんだ彼らは、静かに自室に戻っていった。
リヒャルトにしたらもうしばらく賓客であるアウグストを口説き倒したいところではあったろうが、まだ、アウグストの旅は明日以降も続くのだ。
どうにか礼節を保ち、若干の時間のみでアウグストを解放した。
*
アウグストはあてがわれた最高級の客室から、静かにバルコニーに出た。
風は、ハイゼンベルクの家で吹く風と似ているようで、何かが違っているようだ。
手にはよく冷えた水のグラスがあった。
「あら、お休みになれないのですの?」
そこに部屋着に着替えたビルギッタが、顔をのぞかせた。
「あ、ええと……ビルギッタ様」
合格!ビルギッタは、思わず声を上げそうになった。と、そこで、部屋着だったことに気づいたようだ。
「も、申し訳ございません。淑女にあるまじき格好で来てしまいましたわ……」
ビルギッタは、慌てて物陰に隠れようとした。
「いいえ。ビルギッタ様。私が引きましょう。本日は、急なお騒がせで大変申し訳ございませんでした」
アウグストは身を引いた。
「いえ!お待ちになって?」
ビルギッタが立ちふさがるように、アウグストの前に出た。
「アウグスト様、お伺いしたいのですが、婚約者の方がまだいらっしゃらないと伺いましたが、思いを寄せる方はいらっしゃるのでしょうか」
はしたない格好よりも、よりストレートな物言いだ。
苦笑するアウグスト。
「いいえ。まだ、おりませんが……」
「それならば!私もまだ、婚約者がおりませんの……」
言葉に詰まる。
「ビルギッタ様のような素晴らしい女性が、でしょうか」
「ええ!……これは、アウグスト様のような素敵な殿方をお待ちしていたのかもしれませんわ!」
飲み慣れないワインが、ここに来て、回ってきたようだ。
気づかれないように、小さくため息をついた。
「それは、光栄ですね。ありがとうございます。さ。姫。この様に素敵な夜空ですが、夜風は美しさの敵です。どうぞ、良い夢を」
姫と呼ばれたビルギッタは、なんて素敵な男性だろうとより心酔した。
ここはお淑やかさを押し出すところだと悟ったのか、深々とカーテシーを一礼。
「おやすみなさいませ」
「おやすみなさい」
再び一人になった、アウグスト。
「あと、二家か……」
自分が顔を出しただけで、この様な事態になるとは……。
「じい様は、何も言ってくれなかったな」
つい大きなため息が出た。それは夜風にとけていく。
「先が思いやられるなぁ」
ポリポリと頭を掻き、羽布団の中に体を伸ばした。
アウグストを睡魔が包んでいく。
*
翌日もよく晴れた。
朝食後、いつもの旅装に戻ったアウグストは、ヨアキムの背に乗った。
見ると、母屋の方から手を振り近寄ってくる小さな影があった。
ビルギッタだった。
「も、もう、お立ちになりますの?」
「ええ。これからまだ馬のお届けがありますので」
「そんな……。お戻りの際は、また当家においでくださいませ」
ビルギッタはその顔に寂しそうな表情を張り付けて、必死に言った。
「ええ。是非、寄らせていただきますね」
アウグストは、夏空のような爽やかな笑顔だ。
一行は、馬を引き連れて西へ。
「坊っちゃん、すごく、お嬢様に気に入られちゃったみたいだな」
イアンがからかうような声で言った。
「ああ、あれだけ、人格者だ。そんなもんだろう。家柄もいいんだろうしな」
ぽくぽくと牧歌的な音を立ててキャラバンは西に進んでいく。
一山越えたら、次の行き先が見えてくる。
ウトリオの町のパンチェレイモン=バマノフ子爵家が、次の目的地だ。




