第三十二話
アテルイは蛇の紋章が描かれた扉の前に立っていた。蛇のペンダントをくぼみにはめ込む。扉が開かれた。
「アテルイ」
丁度その時、アテルイを呼ぶ声がして、アテルイは横を向いた。そこにはイリスが立っていた。
「姉さんに聞いたんだけど、ここを出るって」
「ああ、もうしばらく先だが、そのうち出ていく」
「そう……残念ね」
アテルイは意気消沈するイリスを見て、扉からイリスに向き直った。
「そのうちまた会える」
アテルイが言った。
「それはそうかもしれないけど……」
イリスが思い付いたように顔を上げた。
「ついていってもいいかしら?」
「プルウィアも一緒だぞ」
「それはぁ……残念ね」
そうしてまた意気消沈したイリスだが、今度は怒ったようにアテルイを見上げた。
「ちょっと聞いてよアテルイ!」
「なんだ、どうした」
「皆がアテルイのことを話していたんだけれど、ひどいのよ! まるで悪者扱いよ! アテルイが皆を助けたのに!」
イリスは目を吊り上げた。
「せっかく、せっかく今回のことでアテルイのことを見直すって、思ったのに……」
そうしてまた意気消沈するイリス。
「気にするな。俺にとって評判は大した問題じゃない」
「気になるわよ」
そう言ってイリスが見上げたとき、アテルイの側の扉が開いていることに気が付いた。普段は閉め切って、開くことなどない扉だ。うずうずとして、やがてイリスの胸が高鳴る。イリスは目を爛々と輝かせた。
「どこにいくの?」
甘えた声。直前まで落ち込んでいたこともあって、アテルイの保護欲をこれでもかと刺激した。つい抱き上げたくなる。
そんなアテルイの心模様を敏感に察知したイリスは、してやったりと喜んだ。しかしここで喜ぶのは少し変だと、イリスは喜びの笑顔を作り物の笑顔で塗り潰した。しかし喜色を抑えきれず、喜びが滲んだイリスの作り笑いは、真に迫っていて、妙に艶めかしかった。
「面白いことをしにいくわけじゃないぞ」
アテルイが言った。良くも悪くも女らしい顔をするイリスに、アテルイはたじろいだ。成長の過渡期なんだなと、しみじみ思った。
「わたしも行ってみたいわ。アテルイと一緒に行きたい」
イリスの好奇心は旺盛だった。アテルイが見たこともない場所に行こうとしているのを見て、居ても立ってもいられなくなったらしい。
ちょっと上手くおねだりすれば、アテルイは割と簡単にイリスの頼みを聞いてしまう、ということをイリスはよくよく心得ていた。
そしてアテルイはイリスの目論見通り、いとも容易く絆されてしまうのだった。
「わかったが、絶対に俺から離れるんじゃないぞ」
「うん! ありがとうアテルイ」
こうしてアテルイはイリスを連れて、地上に降りてきたのだった。
「前に見たときは暗かったし、あんまりよく見てなかったから、すごく新鮮だわ」
イリスは土の地面を踏みしめながら言った。イリスが歩くと、イリスが踏んだ草が草臥れて、太陽の光を白っぽく反射する。そして時間が経つと起き上がり、元の青々とした色合いに戻る。
イリスはそれが楽しいようで、アテルイの周りをぐるぐるぐるぐると、ひたすら歩いていた。途中、野花を見付けて喜んだ。鼻を近づけて匂いを嗅いだり、愛でるように花弁を弄んだり、ときには口に含んでみたりもした。
そして見晴らしの良い場所を見つけると、そこに立って、じっと遠くを眺めていた。雪の冠を被った霊峰が、遠くからこちらを見ているのである。
イリスは大聖堂と霊峰を見比べて「大聖堂って大きいのね」と呟いていた。
アテルイの方はなにをしていたかというと、荷車を曳いていた。荷車に乗っているのは、簀巻きになった死体だ。布で隠され、傍目にはそれがなんなのか、よくわからないだろう。
この死体は、テマリスアマ大聖堂で死んだギハオ神道の襲撃者たちの死体だ。事件の後、テマリスアマ大聖堂の関係者の遺体は正式な葬儀を経て葬られたが、ギハオ神道の襲撃者たちの遺体はそうもいかなかった。かと言って、放置しておけるはずもない。一時的に地上に置かれていた。
ならば近くで埋葬すれば良いと思うかもしれないが、自分たちを襲った、それもギハオ神道の者の死体を、誰も処理したがらなかった。皆が皆その役割を押し付け合っているうち、アテルイにお鉢が回ってきたのだった。
それに、アテルイに対する神官たちの蔑みや嫌悪感も関わっていた。本来なら複数人でやるべきであろう重労働を、アテルイ一人で行っているのはそのためだ。あいつ、暇そうだしなんかやたら強いみたいだし、一人でやらせとけばいいんじゃね? という言い分である。
しかし実際のところ、アテルイは自分にこの役割が回ってきて良かったと思っている。荷車に積まれている死体。全ての死体が荷車に積まれているわけではない。
大聖堂の側にはまだたくさんの死体がある。そのほとんどはアテルイが手にかけた者たちなのだ。放っておくことなどできなかった。それに自分なら、ある程度はギハオ神道のしきたりに則って葬ることができる。
アテルイの前を、ひらひらと蝶が横切った。黄色い蝶だ。イリスはそれを見て、心底嬉しそうにアテルイに駆け寄った。
「ねえアテルイ、あれ! あれ! あれなに!?」
イリスが蝶を指差す。
「蝶という虫だ。花の蜜を吸う」
「花の蜜を吸うの!? すごい、素敵ね!」
テマリスアマ大聖堂の孤児院にいれられ、最近まで一度も地上に降りなかったイリスである。まるで幼児のようにはしゃいでいた。
「虫っていうより、花が飛んでいるみたいね」
イリスが言う。アテルイはくすりと笑った。
やがて二人は湖に辿り着いた。大聖堂からの距離はそう遠くない。ここからだと、大聖堂の勇壮な佇まいを見上げることができる。一刻ほどで辿り着いた。しかしイリスは疲れてしまったようで、アテルイの曳く荷車に乗っていた。背中には死体があるわけだが、さほど気にした様子はない。
「ここいらでいいか」
アテルイが言った。荷車を止める。イリスはアテルイの横に立った。
「どうするの?」
イリスが言う。
「荼毘に付すんだ」
アテルイはそう言って、肩から下げていた嚢を下した。中には火打ち石と火種が入っている。
「薪になるものを拾ってくる」
アテルイが言った。
「なんでそんな面倒なことするのよ。火なら法術で良いじゃない」
「俺は使えない。知っているだろう」
「わたしがいるわ」
「お前じゃ駄目だ」
「どうしてよ」
「こいつらはギハオ神道の人間だ。ウィロウ教の火で燃やされたくはないだろう」
「別に、わたしはウィロウなんて信じてないわよ」
「なんだと?」
アテルイはイリスの顔を見た。イリスは心外そうな表情でアテルイを見上げている。
「わたし、むしろウィロウなんて嫌いよ」
「どういうことだ」
「どうもこうも、覚えたくもない経典を覚えさせられて、その経典に出てくる神様よ? 好きになるわけないじゃない」
「それじゃ、どうして……」
法術を扱うには、信仰心が必要不可欠のはずだ。信仰心があっても、信仰の対象が中途半端なアテルイは碌に法術を行使できないが、それでもかつては、かなり高級な法術を行使することができた。
だからこそ、信仰心と法術は切っても切り離せない関係だということを、重々承知している。ましてや、無詠唱での法術行使など、生半可な信仰心ではできないのだ。
盲信するでもなく、懐疑に徹するでもなく、生活、儀式、教義の理解と実践、それらが非常に繊細な釣り合いを保ったとき、はじめて可能になるといったものだ。
アテルイは、イリスが無詠唱で法術を行使できる理由を、プルウィアの生活指導によるものだと思っていた。
「それじゃ信仰心がないっていうのか」
アテルイが言った。
「ないわね」
さらりと言ってのけるイリス。
「本当に本当の本当か?」
「アテルイに嘘ついてどうするのよ」
「それじゃあ、なにを信じているんだ?」
ひょっとすると、イリスはウィロウ以外の神を信じているのではないかと、アテルイは思った。イリスはアテルイの質問に少し考えた後、もじもじと恥ずかしそうに、落ち着きがなくなった。
返ってきた答えは、アテルイにとって意外なものだった。
「アテルイね」
イリスは、ちょっと照れくさそうに言った。
「ん?」
言葉の意味を理解できずに、アテルイは固まった。あてるいなんて名前の神がいたのか? と考えたほどだ。
「だから、アテルイよ。貴方のことよ! 何回言わせるつもりよ!」
イリスがアテルイの脛を蹴った。
「ど、どういうことだ?」
「ああ、もう、鈍いわね! わたしはね、どんな危険な目に遭っても、アテルイが助けてくれるって信じてるの!」
イリスは顔を真っ赤にしている。ぶつくさと「なんなのよ、もう」などと呟いている。アテルイは茫然として、周囲の景色を見回した。
麗らかな陽光が注ぎ、湖は宝石のように輝いている。風は心地良く緑の香りを運び、湖の向こうには咲き乱れる花が見えた。風に触れ、風に揺られ、色が瞬くように変化する。虹色の花だ。
「見付けた」
アテルイが呟いた。
「え? なにか言った?」
イリスが言う。
「イリス、火はお前に頼むことにする」
「そう? 任せて」
アテルイとイリスは、遺体を全て荼毘に付した。終わって、アテルイはイリスを見た。
「イリス、あっちに花を見付けたんだ。見てきてもいいか」
「花って、お茶に使う?」
イリスは、アテルイの視線を追った。
「ああ、あれね。いいわ、行きましょう」
二人は湖畔をゆっくりと歩いて、対岸まで行き着いた。そしてそこには、この場を埋め尽くさんばかりに咲き満ちる花があった。空中庭園に咲いていたものと同じ花である。
光の当たる角度や方向によって、色を千変万化させる、虹色の花。イリスは花に顔を近づけて、深呼吸した。
「この花の匂いが一番、落ち着くわね」
イリスはそう言った。
「そういえば、この花なんていうのかしら」
そう言ったイリスの横に立って、アテルイはイリスの頭を撫でた。イリスはアテルイを見た。
「ねえ、アテルイは知ってる?」
「ウィロウ教では、清浄の花と呼ばれている」
「へえ、そうなの」
「……ただ、この花は俺の故郷にも僅かだが咲いていてな。故郷では別の名前で呼ばれていた」
「へえ、そっちはどんな名前なの?」
「……イリス、だ」
イリスは目を丸くした。そしてもう一度、花を見た。その瞳には、親愛の情が宿っていた。
「不思議ね、そんな偶然があるなんて」
「ああ」
「いっぱい摘んでいけばいいの?」
アテルイは花を見て、頭を振った。
「やめておこう。そろそろ戻ろうか」
アテルイが差し伸べた手を、イリスが握った。二人は手を繋いで歩き、大聖堂に戻っていった。帰り際、湖に反射する陽光を見ながら、イリスが言った。
「もしお父さんがいたら、こんな感じなのかしら」
「ああ、うん」
生返事をして、アテルイはきまりが悪そうに上を見た。そうしてそれ以降、アテルイは大聖堂の足下まで沈黙していた。そして、大聖堂に戻る籠に乗り込む一歩手前。口を開いた。
「多分そうだろ」




