第三十話
アテルイは空中庭園の縁に立って、一枚の書類を眺めていた。
「左遷……いや、元々下っ端だし、左遷とは言わないか」
アテルイが手に持つ書類は、風でバサバサと揺れる。花が減り、ところどころ禿げができてしまった空中庭園に、その音は物悲しく聞こえた。
「アテルイ、ここにいたのですね」
アテルイが声に振り向くと、プルウィアが立っていた。長い黒髪が風に棚引いている。プルウィアはアテルイの隣に立った。
「話は聞きましたか?」
「ああ」
アテルイはプルウィアに書類を見せた。プルウィアは微笑んで頷く。書類に書いてあったのは、プルウィアが地上にある教会へ赴任し、アテルイがそれに同伴するという旨。任期は無期限だった。
「準備は早めに済ませて下さいね。出発の直前で慌てることのないように」
「わかってる」
「そんなこと言って、ちゃんとあの部屋を片付けておけるんですか? 今からでも準備をしないと、間に合わないかもしれませんよ」
「問題ない」
「本当ですね? もし出来なかったら怒りますからね?」
プルウィアが言う。これからこいつとずっと一緒なのか。アテルイは思った。イリスの気持ちもわからんでないな。
「ところで」
アテルイが言った。
「俺と違って、お前は左遷だよな。なぜだ」
「左遷じゃありません」
プルウィアはむっとした。
「下界に出て、経験を積めとのお達しです。ある程度の期間を経れば、またここに戻ってきます。そうなれば出世街道、まっしぐらです」
「なるほどな」
アテルイは皮肉るように笑った。
「なにか言いたげですね」
プルウィアが言った。
「昔、お前と似たような境遇の奴と知り合った。そいつも経験を積むという名目で本拠地を離れたんだが、出張っている先で後ろ盾の人間が失脚してな。ついに本拠地に戻ってくることはなかった」
「私がそうなると?」
「そうなった奴を思い出しただけだ」
アテルイはそう言って、プルウィアを見た。清々しい空の水平線を背景に、人形のように美しい輪郭を浮き彫りにするプルウィアの横顔。プルウィアがアテルイを向く。目が合った。
アテルイはロマラムタが言っていたことを思い出す。プルウィアの下着を見たとかなんとか。潔癖そうな顔して、人は見かけによらないものである。プルウィアは下着をロマラムタに見せて、なにがしたかったのであろうか。いや、あれはひょっとして、もっとなにか際どいことを象徴した隠語だったのでは。
アテルイは大きな誤解を交えてプルウィアのことを見詰めていた。
「アテルイ?」
プルウィアがはにかんだ。
「私の顔になにかついていますか」
言われて、アテルイは自分がじっとプルウィアを見ていたことに気が付いた。
「ああ、すまんな、なんでもない」
「そうですか」
プルウィアは残念そうな顔をした。アテルイは前に向き直って、空中庭園の下を眺めた。雲の切れ間から地上が見える。深緑の森が姿を覗かせている。森には雲の影が落ちて、それがゆっくりと動いている。その上を飛び回る鳥たちに、目的はあるのかないのか。
「そういえばどうして俺とお前なんだ?」
アテルイが言った。
「私が教会へ赴任する理由は先ほど述べたとおりですが、それには先達者がいたほうが無難です。その役目が貴方ということでしょう。信仰を磨いてほしいという、ロマラムタ大司教の意向もあると思いますよ」
「なるほどな」
アテルイが言った。しばらくの間、沈黙が続く。なにか話すことはなかったかな、とアテルイは考えた。
「一つ言っておきたいことがあった」
アテルイが言った。
「なんでしょう」
「イリスのことだ」
「イリスがどうかしましたか」
「もうちょっと優しくしてやってくれ」
「今でも十分に優しくしています。これ以上、なにをどう優しくしろと言うのですか」
「お前はお前なりにイリスのことを考えているのはわかる。だが、本人にそれが伝わっていないぞ。反発するばかりだ」
「叱ることが多くなってしまいすので仕方ありません。せめてイリスが悪戯をやめて、勉強を頑張ってくれれば良いのですが」
「求め過ぎだ」
「求め過ぎっ!? たった二つですよ」
「お前にエクデステスを倒せと言って、それができるのか? 求めることは一つだが」
「それは……比べるものがおかしいです」
「いや、おかしくないさ。俺に法術を覚えろったって、それができないのと同じだ」
「それでは、イリスには悪戯をもっとやれというのですか、勉強はしなくても良いと」
「イリスはあれで必死なんだよ。どっかの姉さんが全く自分のことを認めてくれないお陰でな」
「だからっ! それはイリスが悪戯をして勉強をしないからで!」
「お前の手の内だけでイリスが成長して、イリスの成長にお前が満足する。それはイリスを一人前として、一人の人間として認めることになるのか」
「え?」
「なんとなくだろうが、イリスは分かっているんだよ。お前と肩を並べるには、お前に従うんじゃ駄目だとな」
「私が悪いんですか」
「そうだ」
「なにも分からないくせに、横から口を挟まないでください。不愉快です」
険悪な空気に、アテルイは溜め息を吐きそうになったが、思い止まった。自分が作り出した空気でもあるのに、ここで溜め息を吐いたら、まるでプルウィアが全面的に悪いと言っているようなものだ。
「まあ、確かにそうだな。俺が横から口を挟むべきではなかった。すまん」
アテルイが言った。
「ま、まあ、分かればいいのです。許します。私の方も、少し感情的になってしまいましたし」
プルウィアはそう言って、息を吐いた。溜め息という感じではなく、それまで息が詰まっていたところが、やっと解放されたという感じだ。
「ただ、やっぱり一つだけ頼む」
アテルイが言った。
「なんですか?」
プルウィアはアテルイを見た。
「イリスが良いことをしたときは、うんと褒めてやってくれ。大袈裟なくらいでいい」
「なんでまた、そんなことを?」
「あいつのことを一番、見てやってくれているのは、お前だからな。お前に褒められるのが一番、嬉しいんだ。イリスは」
アテルイはそう言うと、回廊の方へと歩いていく。
「どこに行くのですか?」
プルウィアが言った。
「頼まれた仕事があるからな」
アテルイはそれだけ言って、空中庭園を後にした。




