第二十四話
「お前の仲間がやられたようだぞ、アテルイ」
エクデステスが言った。アテルイと対峙している。アテルイは振り向いた。その瞬間、黒い霧が槍の形をとってアテルイに襲い掛かった。アテルイは軽い足取りでそれを躱した。エクデステスに接近している。
アテルイはエクデステスに向き直ると、剣を振り払った。エクデステスが手でそれを受け止める。エクデステスの手には黒い霧が纏わりついている。
「お前のほうこそ、仲間は全員、倒されたぞ。エクデステス、諦めて帰れ」
アテルイが言った。その表情に、イリスとプルウィアへの心配はなかった。イリスたちの方を見たとき、イリスが倒れたプルウィアへ必死に呼びかけていたが、直感的に、大丈夫そうな気がした。
「余裕だな、俺と対峙しておきながら」
「そうでもない」
アテルイが言った。エクデステスは剣を掴んだ手に力を込めた。力任せに投げ飛ばす。アテルイは剣ごと空中へ投げ飛ばされた。間髪を入れず、黒い霧が槍となってアテルイに迫る。
アテルイは剣を盾にして防いだ。床に着地し、構え直す。エクデステスは口の端を吊り上げた。
「どうだ、これこそ俺が十年の間に体得した、瘴気を意のままに操る法術。ギハオ神道、奥義中の奥義だ」
アテルイの表情は変わらない。エクデステスは笑みを消し去り、悪の元凶と向き合っているかのように表情を険しくした。
「ギハオへの信仰を失い、この俺に勝てるとでも?」
「エクデステス、二つ、言っておくことがある」
そう言ってアテルイは構えを解いた。無論、油断しているわけではないのだろう。その姿から戦意を感じることは難しかったが。明鏡止水――そんな言葉が、エクデステスの脳裏によぎった。澄明で、一点の曇りもないアテルイの立ち姿。
エクデステスは思わず、アテルイの言葉に聞き入っていた。
「裏切って悪かった」
エクデステスは耳を疑った。エクデステスの動揺をアテルイは見て取ったらしく、暫時、口を噤んでいた。しかしエクデステスからはなんの返答も、動きもない。アテルイは続けた。
「それとこれが大事なんだが」
アテルイは剣を、つま先から頭の後ろへと振り上げた。弧を張ったのである。
「巫女は渡さん。絶対に絶対の絶対だ」
いささか子供じみてさえいるアテルイの言動に、エクデステスは哄笑した。顔に手を当て、腹を揺すり、舞台の中心で喜劇を観賞しているような、上も下もない無邪気な笑いだった。
「やっと、やっとわかったぞ、アテルイ」
笑いの余韻を引きずりながらエクデステスが言った。黒い霧が塊となって宙に浮く。エクデステスはそれに手を突っ込んだ。
「貴様、エレクトラに惚れていたんだな」
「そうだ」
エクデステスの手元で、黒い霧が剣の形になっていく。禍々しい瘴気を纏う漆黒の剣。エクデステスが前に構える。切り裂いた空気に、瘴気が入り込むようだった。
「そんな下らんことで俺たちを裏切ったのか」
エクデステスの声色が変わる。厳格なギハオ神道の神官としての声だった。
「少し違う」
アテルイが言った。
「理由がなんであれ、もはや過ぎたことだ。取り返しはつかん。粛として報いを受けろ」
エクデステスは言い、一歩、踏み込んだ。
「そうだな」
アテルイは不思議と満足そうな声でそう言い、エクデステスは突風のようにアテルイの眼前へ迫っていた。弧を張っているアテルイは、なんの躊躇いもなくエクデステスに剣を振り下ろす。エクデステスは構わずに突進した。
漆黒の剣を突き立てる。アテルイの肌を通り抜け、肋骨の隙間を過ぎ、心臓に到達して、アテルイの背へ抜ける。エクデステスは口元に笑みを作った。
アテルイが振り下ろした剣は黒い霧に阻まれ、エクデステスの肌すら斬っていなかった。
「無駄だなようだな、エクデステス」
アテルイが言った。その声に苦悶の響きはない。エクデステスは驚愕して、漆黒の剣を引き抜いた。後ろへ距離を取る。平然と立つアテルイ。血の一滴も噴き出ていない。
「何故だ」
エクデステスは呻くように言った。
「ウィロウの加護だろう」
そう言ったアテルイの声には、疲れたような響きがあった。けれどもなにかを懐かしむようでもあった。悲しみを湛えた瞳でエクデステスを見据える。駆け出した。
アテルイが振り下ろした剣を、漆黒の剣で受け止めるエクデステス。その表情からは驚愕が拭いきれていない。エクデステスが剣に力を籠めると、黒い霧がエクデステスの腕に巻き付いていく。エクデステスの腕力が人外の気を帯びて、怪力を発揮する。
剣を力任せに振り抜くと、アテルイは引き下がった。
「瘴気に呑まれろ!」
エクデステスが怒声を上げる。辺りの黒い霧がアテルイに殺到した。瞬く間に姿を覆われるアテルイ。
常人ならばもがき苦しむであろう瘴気の渦。現にロマラムタを含む高位神官たちはこの瘴気に為す術もなかった。教主マンダリンでさえ無様にミイラとなり果てたのだ。
エクデステスはそう考えながらも、慢心はおろか安心することさえできなかった。――まさか、だが、あの男なら。あの男だけは、もしかしたら……!――
固唾を飲んで瘴気の渦を見詰めていたエクデステスの眼に、剣の切っ先が肉薄した。やはり、とエクデステスが思った時には、眼球を剣が貫いていた。
咄嗟に身を引いたために、命までは落とさなかった。エクデステスは目を押さえた。激痛が踊っているかのようだ。片眼で瘴気の渦を睨む。渦の中から、剣を引っ提げたアテルイが歩み出てきた。
「俺の知らない、ギハオの法術か」
「違うな。ギハオ神道の法術はもう使えない。……いや、本当は使えないこともないが、使うには相応の時間と詠唱がいる。それにお前が知らないギハオ神道の法術なんて、俺は知らないさ」
「ならばウィロウの法術か」
「違う。俺はウィロウの法術がてんで駄目でな。沈黙の法術しか使えないんだ」
「ならば一体なんだと言うのだ!!」
「それが俺にもさっぱりだ。心当たりはなくもないんだが」
エクデステスは怒りに歯を食い縛り、血走った眼でアテルイを睨みつけた。
「問答をしても仕方がない。瘴気が効かぬというのなら、この手で直接、その首を捻じ切ってやる」
エクデステスの持つ漆黒の剣が霧に戻った。エクデステスの体全体を、黒い霧が覆っていく。黒い霧は固まり、やがて漆黒の鎧となった。黒い霧を纏ったキイ・ゼテッタを彷彿とさせる、禍々しい姿。邪悪さは、キイ・ゼテッタ以上のものだった。
「殺してやるぞ」
エクデステスがアテルイに近付く。お互いの間合いに入る。一瞬の間。エクデステスの足元が抉れる。激烈な勢いの踏み込み。エクデステスの拳がアテルイの頬を掠る。避けたアテルイは、撫で上げるように剣を振り上げていた。
逆袈裟。漆黒の鎧に阻まれ、刃が通らない。エクデステスが刃を掴み、圧し折った。そして全力の一撃をアテルイへ放つ。拳はまたも空振り、エクデステスの体は宙に反転していた。床へ仰向けに倒れる。
アテルイへ放った拳は、アテルイに掴まれていた。手首を持っている。アテルイはそのまま腕の関節を極めようとする。エクデステスは剛力にものを言わせて、アテルイを振り払った。
アテルイは宙に投げ出され、転がって床に着地した。エクデステスが立ち上がった時、アテルイの背後からありとあらゆる法術がエクデステスを攻撃した。たじろぐエクデステス。アテルイが後ろを見ると、そこにいたのは、人質から解放された神官たちだった。
「これだけの数、さしものお前も、敵うまい」
そう言ったのは、ロマラムタだ。アテルイの背後に、ロマラムタが立っていた。顔はすっかりやつれて、今にも倒れてしまいそうだった。
「馬鹿どもめ、ウィロウの愚者がいくら寄り集まったとて、遅れをとる俺ではない」
エクデステスはそう言ったが、アテルイを見て苦々しく思った。何万の敵が押し寄せようと怖ろしくはないが、このたった一人の男が怖ろしかった。エクデステスはアテルイの異名を思い出す。死神。
「もう十分過ぎるだろう、エクデステス。退け」
アテルイが言った。その時、アテルイの背中に縋りつく者がいた。イリスだった。
「アテルイ、アテルイ、姉さんが、姉さんが目を覚まさないの!」
アテルイの注意が、イリスへと集中する。その隙を、エクデステスは見逃さなかった。電撃的な踏み込み。急速に迫る。アテルイは反応したが、エクデステスの狙いはアテルイではなかった。
「ぐぅっ!?」
イリスが呻いた。エクデステスはイリスの胴を抱えて、講堂の巨大な窓へとまっしぐらに駆けていた。アテルイの背後にいた、状況を判断できていない神官たちが法術をエクデステスに向けて放とうとする。
「沈黙!」
アテルイは法術を行使した。神官たちの放つ法術が、イリスを巻き添えにすることが目に見えていたからだ。その間にエクデステスは講堂の窓を破り、講堂を脱出していた。その脇にはイリスを抱えて。
講堂は地上から遥か高所に位置するが、エクデステスならば黒い霧によって、落下に耐えうると思われた。講堂には沈黙が流れる。しかしやがて、講堂にいる多くの人々が歓声を上げた。
エクデステスを退けたと思ったのだ。それは事実だが、イリスが連れ去られたことが勘定から抜けている。もっとも、アテルイ以外にとっては、イリス一人の犠牲は小さなものだったかも知れないが。
「おい」
アテルイの近くにいた神官が言った。あからさまな敵意を顔に浮かべている。神官はアテルイの襟首に掴みかかった。
「どうして沈黙の法術を使った! なんのつもりだ、ああ!?」
アテルイは体を動かしてロマラムタを見た。ついでに掴みかかっていた神官の手をあっさりと捻り反す。神官はアテルイの前にひざまずいて、床に片手をついた。
「ぐ、お前、痛っ! 離せぇ!」
アテルイは神官を離した。神官は喚き続けたが、アテルイの眼中にない。
「最上階に行かせてください」
アテルイはロマラムタに言った。
「どうするつもりだ」
「最上階は地上に通じています」
「追うつもりか」
「当然です」
「……そうだな、そうしろ」
ロマラムタはそう言って、首に下げていた蛇のペンダントを外した。アテルイに渡す。
「感謝します」
アテルイはそう言うと、講堂の出口へ駆け向かった。途中、倒れているプルウィアを見付けて立ち止まる。しゃがみこんで、プルウィアの傷を確認した。呼吸と、心臓の鼓動を確かめた。
気を失ってはいるが、じきに目を覚ますだろうと思われた。アテルイは最上階へ急いだ。




