第十七話
階段を駆けるイリスに大剣が迫る。鯱の背びれが海面を切り進むように、イリスの足下を切り裂いた。危うく足が縦に避けるところを、イリスは跳躍して回避した。
しかしそのはずみに、イリスの小さな体は階段の吹き抜けに乗り出してしまう。「ふざけんじゃないわよ」と、イリスは心の中で悪態をついた。
「防壁!」
空中に光の板が現れる。イリスの体はその光の板に着地した。しかし光の板を、大剣が突き刺す。イリスは横に転がっていた。階段に降り立ったイリスは、一も二もなく走り出した。
イリスを追い掛けるキイ・ゼテッタ。重厚な鎧を身に着けているとは信じられない早さだ。イリスを仕留めそこなっているのは、イリスの機敏さと、階段という足場の悪さゆえだ。
イリスは振り向いて、下方に目をやった。キイ・ゼテッタが怖ろしい早さで駆けてくる。大剣で壁や手すりが、泥のように切り裂かれている。
イリスは我武者羅に法術を放った。風の刃が、階段の床を切り刻んでいく。イリスの法術もキイ・ゼテッタの大剣に劣らぬ切れ味だった。イリスからは死角で見えないが、キイ・ゼテッタはイリスの法術を切り払った。
大して効果がなかったことを察して、イリスは絶望しながらひた走った。しかし、如何に勇壮活発なイリスとはいえ、子供の体力。階段を駆けあがるのも限界だった。
体力のことをいうなら、鎧に大剣という重装備のキイ・ゼテッタが先に疲れるのが自然だったが、キイ・ゼテッタに疲れは見られない。完全に人外の体力だった。
イリスは作戦を変えた。光の防壁を幾重にも展開し、キイ・ゼテッタのいる下方目掛けて、滅茶苦茶に法術を放った。キイ・ゼテッタに、無数の風刃が襲い来る。
キイ・ゼテッタは大剣を小枝のように振り回し、ことごとくイリスの攻撃を打ち払った。しかしそれでも、この戦法はイリスにとって効果があった。なぜなら、キイ・ゼテッタの足が止まったからだ。できればこれで、アテルイが助けに来てくれるまで持ちこたえたい。イリスはそう思った。
だがキイ・ゼテッタにとって、イリスの攻撃は単調過ぎた。イリスが放つ風刃の速度、攻撃の間隔、そういったものに慣れ始めると、キイ・ゼテッタは一歩、また一歩、と歩を進めた。キイ・ゼテッタの姿が近付いてくるのを見たとき、イリスは心臓が跳ね上がるのを感じた。
青銅色の大剣が、下からイリスに突き上げられた。一枚、二枚、と光の障壁を貫く。イリスは反射的に足を引いていなければ、確実に足を貫かれていた。イリスの足が震えそうになる。
このまま逃げても、いずれ真っ二つにされるだけだ。そうイリスは考えて、覚悟を決めた。やけくそになった、というのと大差はなかったが、思い切りの良さは一人前だった。
イリスは階段の手すりに跳び上がり、吹き抜けを飛び降りた。真っ直ぐに吹き抜けを落下する一瞬。同じ目線にキイ・ゼテッタがいた。
階段を上がっていたキイ・ゼテッタはイリスを見たが、それがなにかという判断にまでは結び付かない。一秒にも満たない一瞬だ。イリスはその刹那に、自身のもてる法術の全てを叩き込んだ。
あらゆる特性の法術が合わさり、イリスの法術は太陽のような光球になった。それはキイ・ゼテッタにぶつかり、特大の衝撃を放った。熱風が周囲に吹き荒れ、あらゆる物を崩壊させる。
後には、瞬く間に燃え尽きて続きを失った階段と、外への大穴を空けてしまった壁が残った。炭が風に吹かれて散った。
イリスはその光景を、吹き抜けから見上げていた。イリスの小さな体は、蜘蛛の巣状に張り結ばれた縄の上に乗っかっていた。イリスが吹き抜けを落ちながら、法術によって出現させたものだ。
「殺しちゃったかしら……」
イリスは呟いた。あまりにも必死で、自分がなにかをしたという実感すらない。ついさっきまで、少しでも立ち止まれば死ぬような状況だった。今はこうしてぼんやり上を見ていても死なない。
そのことに、ただひたすら安心していた。殺してしまったかどうかという呟きは、アテルイの言い付けが頭の片隅に残っていたために漏れ出ただけで、不安などは伴っていない。
ふと、イリスの目に不穏なものが飛び込んだ。大穴を空けた外壁の縁に、指が掛かっていた。黒々とした苔色の、金属質な指。鎧の籠手だ。そして力強く、兜が起き上がってきた。腕を出し、壁の縁に脇を引っ掛ける。
イリスは恐怖のあまり、動けなくなってしまった。キイ・ゼテッタは煤けながらも、ほとんど無傷のようだった。
「どうして」
イリスの唇が力なく動いた。全身全霊を込めた法術だった。無論、態勢や状況のこともある。決して自身の最大級最大限でなかったとしても、無傷ということはないはずだ。
その答えはそう難しいことではなかった。キイ・ゼテッタは大剣で法術の直撃を防ぎ、さらに自身の法術でもって防御しただけだ。
しかしながら、言葉にするとそれだけではあるが、それを実際に実行できるものが、この世に十人といるとは思えない。なにもかもが刹那の出来事だったのだ。
キイ・ゼテッタは冷静に判断したわけではなく、日々の鍛錬、あるいは長きに渡る実戦経験に突き動かされて、無意識的に防御を行ったのだった。
キイ・ゼテッタは壁の縁に立って、イリスを見下ろした。イリスは恐怖のあまり歯の根が合わない。逃げ出そうとして身を起こすが、雷のように降ってきた大剣が、縄を切り裂いた。
イリスの体がふわりと宙に浮く。死んだ、とイリスは思った。キイ・ゼテッタの大剣が壁に突き刺る音が聞こえた。イリスの中で、時間がゆっくりと流れる。それぞれの階の廊下が、視界の上へ上っていく。
アテルイがイリスの体を受けとめた。
「きゃうっ!」
イリスが小さな悲鳴を上げる。
「っとと」
アテルイは身を乗り出したところにイリスを受け止め、吹き抜けから落ちそうになる。くるりと身を反転させて、階段から廊下に戻った。
「イリス、怪我はないか」
アテルイが言った。
「アテルイ……」
イリスはほっとして涙ぐんだ。アテルイはイリスを床に下した。
「ここから離れろ」
アテルイが言う。
「アテルイはどうするの。あいつ、すっごく強いわよ」
「俺に任せろ。ほら、早く行け」
イリスは言われて、廊下の奥へ走った。イリスはちらちらと心配そうに振り返る。そんなイリスに対し、アテルイは微笑みながら手を振った。やがてイリスは角を曲がり、見えなくなった。
アテルイは振り返った。そこには、キイ・ゼテッタが立っていた。
「キゥはどうした」
キイ・ゼテッタが言った。アテルイは答えなかった。キイ・ゼテッタは剣を構えた。
「あの娘は何者だ」
キイ・ゼテッタが問うも、アテルイは沈黙したままだ。
「答えるつもりはないか」
キイ・ゼテッタの手に力が籠る。間欠泉が噴き出すような勢いで、キイ・ゼテッタは大剣を振り上げた。そして、落雷のような一撃がアテルイに振り下ろされる。大剣はアテルイの立っていた床を断ち切っていた。
次の瞬間、キイ・ゼテッタの顔面にアテルイの拳が叩き込まれた。キイ・ゼテッタは兜によって、例えば骨が折れたりするようなことはない。しかし衝撃は伝わる。
キイ・ゼテッタは大きく仰け反った。そして腹部に蹴りを受け、階段の手すりに背中をぶつける。さらに追撃され、踏むような蹴りを胸に受けた。手すりが圧し折れ、キイ・ゼテッタの体が吹き抜けに落下する。キイ・ゼテッタはなんとか腕を伸ばした。
階段の縁に手が捕まるが、勢いが強い。縁をえぐり取って、そのまま落下し続ける。キイ・ゼテッタは大剣を水平に壁へ突き刺した。がくん、とキイ・ゼテッタの体が揺れる。
地面への衝突を免れたキイ・ゼテッタは、階段へ降り立って、そしてその階の廊下の先を見た。そこにはキゥ・テアットの死体があった。




