第十五話
「それじゃあ、行こうか」
アテルイが言った。
「まだ休んでいてもいいのよ? おじいちゃん」
「やめてくれ」
アテルイは、イリスが先に進むよう促した。イリスはそれを受けて、窓縁によじ登った。
「絶対に落ちるんじゃないぞ」
「今さら」
イリスは壁伝いに、するすると進んでいく。慣れたものだった。アテルイも窓縁に足を掛けたとき、背後で扉が開いた。
扉の先に立っていたのは、プルウィアだった。喘ぐように呼吸をし、顔色も明らかに悪い。立っているのもやっとな様子だった。
「プルウィア……おいイリス、ちょっと待て!」
アテルイが言った。
「いや! 先に行くわ」
イリスはそう言って、先に進んでしまった。
「先走るな、おい」
イリスは言うことを聞かず、アテルイの見えない場所まで行ってしまった。苦々しく思いつつ、アテルイはプルウィアに目をやった。
「どうやってここまで来たんだ」
「そんなことより、アテルイ、聞いてください」
アテルイに近付こうとして、プルウィアがふらついた。アテルイは咄嗟に駆け寄って体を支えた。プルウィアがアテルイにしがみついて顔を見上げた。
「ギハオ神道に、講堂が占拠されてしまいました」
「知っている」
「教主様が、殺されてしまいました!」
「知っている」
「……ロマラムタ大司教が捕まっています。黒い霧のようなものが、大司教を拘束して、拷問を」
「知っている」
プルウィアは潤んだ瞳で、アテルイをじっと見詰め、項垂れた。
「なんのために、私はこうまでして……」
プルウィアが呟いた。
「それでお前はどうして、どうやってここに来たんだ。講堂にいたんだろう」
アテルイはそう言いながら、プルウィアを椅子に座らせた。
「ギハオ神道の者たちの狙いは、ギハオの巫女です。巫女というのがなんなのかは知りませんが、人探しなら、私には探知の法術がありますから。それで巫女を探し出ると申し出たのです。それで講堂を出ました。貴方にこの事態を伝えるよう、大司教に言われていましたので」
「お前ひとりでここまで来たのか」
「いいえ、ついさっきまでは見張りが付いていました。他の敵と走り去って、それからそこの廊下に転がっていましたから、貴方が倒したのでしょう」
プルウィアはそう言ったあと、机に突っ伏した。
「大丈夫か」
アテルイが言った。
「あの黒い霧を、体内に入れられました。それから、もうずっと死にそうです。アテルイ、これはなんなのですか?」
「瘴気だ」
「瘴気? 瘴気で傷を塞いだと」
「傷があるのか」
「お腹に……」
プルウィアは服を捲った。生白い肌には黒い霧が纏わりついており、その中心に黒い穴ができていた。
「ひどいな」
「傷ですか? 瘴気ですか?」
「傷もひどいが、瘴気のほうがひどい」
「私、死ぬんでしょうか」
「死なせはしない」
アテルイはプルウィアを抱き上げて、机の上に寝かせた。
「どうするつもりです」
「瘴気を吸い出す」
「そんなことができるのですか」
「わからん、が、今すぐにどうにかしようと思ったら、それしかできない。服を捲っていろ」
アテルイは、プルウィアの傷に掌を当てた。黒い霧が、アテルイの腕に巻き付きながら上っていく。
「瘴気が……」
プルウィアが言った。
「心配するな」
アテルイは詠唱を始めた。だが、その詠唱はプルウィアの知らないものだった。
「その詠唱は……? いったい、どの経典に」
「吸い出すぞ、おそらく苦しいから、覚悟しろ」
アテルイはプルウィアの傷から掌を離した。黒い霧が、不規則に蠢き始める。アテルイの腕に巻き付いていた黒い霧はいつの間にか剥がれて、ゲル状になっていた。アテルイはプルウィアの傷口に、口を付けた。
「ふああっ! く、うう、ぅうああ! あっ、あっ! ああっ!」
プルウィアが悲鳴を上げた。机の上で必死にもがく。アテルイが口を離して、床に黒いゲルを吐き出す。すると、プルウィアの動きが止んだ。プルウィアは喘鳴を零してはいるが、ひとまず落ち着いて、苦しんでいる様子はない。
「い、今ので瘴気を取り除けたのですか?」
「少しだけな。あと三回は繰り返すぞ」
「そ、そんな、ちょっと待、ぁッ!」
「あんまり動くな。やり辛い」
「そんなこと、言われても、無理です。もっと優しくして下さい」
「苦しいのは俺がなにかしているわけじゃない。瘴気が体を抜けるとき抵抗するのが原因だ」
「苦しいのを和らげる方法はないのですか?」
「そうだな……体の力を抜いたらいいんじゃないのか」
「わかりました、やってみます」
「じゃあ、吸うぞ」
「はい、どうぞ……、あ、くぅ! ふうっ、あぁ、あぅぁ、あぅ――」
アテルイが、床にゲル状となった霧を吐き出した。
「じゃあ、次で最後にするからな」
「お、おねがい、ひま……」
プルウィアは息も絶え絶え、呂律も回っていない。かなり体力を消耗していた。
「ひぐっ、……ああー、あくっ、く、ッッ、あああッ」
ぺっと、アテルイが残りの瘴気を吐き出した。
「終わったぞ」
アテルイが言った。机の上で寝そべるプルウィアは、微かに唇を動かしたが声は出ていない。滲んだ涙が一筋、流れた。
「大丈夫か」
「なんとか」
幽かな声で、プルウィアが言った。
「あなたこそ、影響はないのですか?」
「ある。しばらく沈黙の法術が使えない」
「そんな、どうし……」
最後の方は、尻すぼみになって聞き取れなかった。
「なにやってんの?」
窓からイリスの声がした。イリスは窓縁から降りて、アテルイの前に立った。
「もう見てきたのか」
アテルイが言った。
「ええ、これくらい簡単よ」
「どうだった」
「様子はあんまり変わらなかったけど、そうね、ごついのが二人、いなくなっていたわ」
「ごついの?」
「そう、さっきまでは、重そうな鎧を着た奴が二人いたのよ」
「そうか……プルウィア、なにか知っているか」
「ひゃい」
プルウィアは、ぐったりとしながらも答えた。
「きっと、キゥ・テアットとキイ・ゼテッタのことです。見掛けよりずっと速い奴らです。私のこの傷も、キゥ・テアットにやられたものです」
プルウィアの肌からは、すっかり黒い霧が消えていた。だが生白い肌には、痛々しい傷が残っていた。
「プルウィア、お前はここで休んだら、俺の部屋に向かえ。人質から解放された人間で砦を築いているはずだ」
「わかりました。悔しいですが、あとはお任せします」
「いくぞ、イリス」
アテルイとイリスは、勉強室を後にした。
「それで、どうやって講堂にいる人を助けるのよ」
廊下を歩きながら、イリスが訊いた。
「そうだな、なにしろ人質の数が多い。どうにかして敵の注意を一身に受けたいものだな」
階段に到達した。
「手を考えたが、如何せん戦力が足りない」
階段を降りながら、アテルイが言う。踊り場に差し掛かった時だった。
「戦力なんて。要は、敵を一箇所に集めれば――」
イリスの言葉は、アテルイが急にイリスを抱えたことによって途切れた。アテルイはイリスを抱えたまま踊り場を飛び降りていた。直後、踊り場の床から剣が突き出て、さらに踊り場を両断した。
階下に着地したアテルイは、イリスを下ろして、階段を見た。
「なるほど、お前らが話しに聞いたごついのか」
そこにいたのは、刺々しい装飾に、黒々とした苔色の鎧を着込んだ二人組。キゥ・テアットとキイ・ゼテッタだった。




