42.ヘリックスファームプログラム
ダウンジャケットにブーツ。リサがリードを持って立っていた。相変わらずの表情だが、足元にはナックル。伏せの姿勢で舌を出しながら、まだかまだかと上目遣いでこちら見ている。
いつものように、散歩を始める為外に出たエヴァを一人と一匹が出迎えていた。
ショート丈のダッフルコート。エヴァはそのフードを整えながら、コリンズから聞いた話を思い出す。
リサはエヴァとの散歩以外にも、朝夕とナックルの散歩を勝って出ているのだという。しかも、その時は幾分はしゃいでいる感じになるらしい。もちろんコリンズの前でそんな素振りは見せないが、散歩を遠目にした様子ではナックルと楽しそうに戯れていたこともあったという。
リサを一瞥したエヴァ。何かを想像して含み笑いする。それに気付いたリサが眉根を寄せた。
「(何か?)」
「(いいえ、何も。行きましょう)」
エヴァは、そしらぬ顔で歩き出す。その足取りは軽い。
躰は全快といって良かった。施設の地下にあるトレーニングルームでの体力作りも順調に進んでいる。エヴァにとって、この散歩は単なる日課となっていた。そして、ここを離れる日も近いと聞いている。
最近は雪も降らなくなった。心なしか暖かい日も多い。散歩コースにある池の氷も徐々に解け始め、水面が露わになってきていることに気付く。
目の前を進むリサの後ろ姿を見遣るエヴァ。散歩というよりは、元気過ぎるナックルに引っ張られている感がある。友達にはなれたみたいだが、従わせるというには程遠い。散歩しているのはリサなのかナックルなのか……エヴァの顔から笑みがこぼれる。
散歩のことでもそうだが、最近になってリサに変化が表れている。依然として自分のことは話さないが、日常的な会話は自発的にするようになった。
それは、エヴァがここに来てからのことらしい。発端がエヴァにあるというのだ。それなりの時間、リサを見てきたコリンズが驚いているのだからそうなのだろう。しかし、エヴァには思い当たる節が無い。自分が積極的に話し掛けているだけのことで、今までそういう人間が近くにいなかっただけだろうと解釈したのだが、その説明にコリンズは納得しなかった。
彼いわく、リサの自閉的な部分は簡単に変わるものではなかったという。特別なことをしているつもりのないエヴァは頸を傾げた。
そんなことを考えつつ、再びリサに視線を向ける。時折、見えるその横顔。やはり口角が上がっていた。
数日後、施設をビクター・ヒルが訪れた。
彼の外見は悪名とは縁遠い。高身長ですらりと伸びた手足。年齢からして老体と言っていいのだが、まったくそうは見えない。面長で高い鼻。皺はあっても品のある顔立ちを保っている。スーツ姿を着込みシルバーの長髪を後ろで束ねた佇まいは、何処かの貴族と名乗ってもいいくらいだ。ただ、その言動に温か味は一切無い。
「(順調だな)」
「(まあね)」
皮肉を込めた口調で返したエヴァ。ビクターは微かに苦笑した。
リビングの中央。暖炉で薪がパチパチと音を立てている。ソファーで向かい合う二人。
リサはビクターの側らに立っていた。固い表情。出会った時の顔に戻っていた。やはりというべきか、彼女が人形のようになってしまっている原因の一つはこの男にあるのだと理解した。エヴァは目を細める。
そんなことには微塵も関心が無いであろうビクターはエヴァを見据える。
「(どうだね?)」
「(何が、どうだというの? 私は娘の為に、あなたに従っているだけ。それ以上でも、それ以下でもないわ。余計な話は結構)」
即問するエヴァ。ビクターは口角をピクリとさせた。返答が気に入らないといった感じではないが、その心は読めない。
「(まあ、よかろう)」足を組み直すビクター。「(ここでの生活は今週までだ。来週から、軍の施設に移ってもらう)」
「(……分かったわ)」
頷くエヴァを見て、ビクターは眉尻を下げた。その反応に不服な感じだ。
「(やけに素直だな。もっと抵抗するかと思っていたよ)」
「(言ったでしょ。私は娘の為に従う。それだけ)」
「(……そうか。では、もう一つ。君が素直に従えるために必要な話をしておこう)」
思わせぶりな台詞。エヴァは怪訝な顔つきで口篭もった。今度は何を言い出すのかと身構える。
エヴァの変化を察したビクター。分かり易く自分の頬の緊張を解いてみせる。
「(なあに、君の中のわだかまりを解消してあげようということだよ)」
「……」
「(君の母親。イゼル・メチニコフの死についてだ)」
途端にエヴァの顔色が変わる。動揺していた。思考が先行し、押し込めていた感情が沸き起こる。続くビクターの言葉を待たずして立ち上がった。
「(どういうこと!?)」
前のめりで詰め寄るエヴァ。リサも横目でビクターを一瞥する。頬をこわばらせていた。
「(まあ、慌てるな。話を聞け)」
ビクターは事務的な話でもするかのように平然と構え直す。
「……」
エヴァは険しい視線をビクターに送りながらソファーに腰を戻した。
「(君がFBIにまで陳情した件だが、イゼルの死は自殺で間違いない)」
結論を先走ったかに見えたビクター。だが、意外にもエヴァは冷静に聞き入れた。一拍置いたことで、相手が誰であるかということを思い出していた。動揺すれば彼の思う壺だ。先ずは、腹の内を探ることが優先だ。
リサがエヴァの様子を窺っている。心配そうな表情。
「(細かい事情は必要ないだろう。私から訊きたかったのは、この言葉の筈だ……彼女の死は自殺で間違いない)」
「……」
繰り返された「自殺」の言葉が胸に刺さる。エヴァの頬がピクリと動く。ぐっとこらえる。
ビクターは冷淡な表情のまま。
「(今更何を、というところかな?)」
「(……そうね)」
「(ふむ。そうだな、君は既にある程度母親の死については納得している。それは、あの状況とタイミングを考えれば分かることだからだ。賢い君なら大して難しくもないだろう。そして、強い君だから心の整理も大方できている……どうだ?)」
まるで人の心を読んでいるかの如くの言い回し。癇に障った。エヴァの声色が変わる。
「(だから、何だというの? 過去の傷を掘り起こして楽しんでいるの?)」
冷静を装いつつも、軽く深呼吸したエヴァ。しかし、ビクターは見透かしたように軽く鼻で笑う。
「(いいや、そんなつもりはない。でも、君は今正直ほっとしたはずだ……無論、真実なんてものは当事者が信じるか信じないかで決まるものだ。だが、君は私の言葉を軽く受け取ったりはしない……私には分かる)」
腹立たしいが、彼の言うことは少なからず正しい。母の死は多分自殺だろう。それは今となっては分かること。だが、何処かにそれを確かめたい気持ちがあったのは確かだ。それが聞けるのは当事者であるビクターだけなのである。こんな男の言葉ではあるが、気持ちの整理に繋がることは確かだ。
自分の置かれている立場も考えると複雑な感情が沸き起こる。母の時はどうだったのだろうか、どう思っていたのだろうか。想像すると気持ちが萎えた。
うな垂れるエヴァ。その様子を楽しむかの如く、ビクターはニヤリと笑った。
「(とはいえだ……)」
頭をもたげたエヴァ。ビクターはその目を見て言う。
「(結局のところ、君がここに居るということは、イゼルの死は無駄に終わったということなのだがな……えらく、遠回りをさせられたよ)」
咄嗟に動いていた。立ち上がりビクターに掴み掛かろうとするエヴァ。怒りが先行していた。彼の思う壺だとは分かっていても、許せないことはある。
だが、その躰を受け止めたのはリサだった。動きを制したというのではない。やさしく添えるように、リサの両手がエヴァの両肩を捕えていた。
一旦、勢いを収めたエヴァだが、険しい顔つきのまま肩で大きく息をする。
二人の様子を見遣ったビクター。何かを感じ取ったのか、微かに口角を上げた。しかし、すぐに冷淡な顔に戻る。
「(それが、私の語る真実だ。納得しろとは言わん)」ビクターはエヴァを庇うように間に入ったリサを一瞥する。「(だがな、君の母親を殺したのはこのリサだと言われるよりは、余程ましな真実だ。そうだろう?)」
微かに瞠目するリサ。一瞥をビクターに向ける。リサにしては珍しく感情的な視線だが、ビクターはまたしても鼻で笑った。
エヴァに顔を近付けたリサ。耳元で囁く。
「(大丈夫よ)」
その声は落ち着いていた。リサの言葉で我に返るエヴァ。頭を冷やすべく、大きく深呼吸する。
人の気持ちを平気で弄ぶビクター。エヴァは怒り心頭だったが、今後も彼と渡り合わなければならないことは必至と考えていた。改めての宣戦布告とばかり、鋭く尖った視線をビクターに向ける。
当然だが、ビクターに臆する様子はない。もともとそんな感情は持ち合わせていないのかもしれない。それどこか、ビクターの反応は逆だった。悦に入った表情。理解しがたい衝動のまま、エヴァを見遣る。
「(いい眼をしている。こちら側の世界では必要な眼だ。楽しみだよ)」
鼻を鳴らしたビクター。満足そうにして立ち上がる。そして、あっさり踵を返したかと思うと、振り向かずに言った。
「(リサ。後は頼んだぞ)」
エヴァとリサは立ち去るその背中を見送った。
彼が居なくなり、失っていた感覚が戻る。暖炉で薪が燃える音が聞こえ始めた。立ち尽くす二人。
リサを見遣るエヴァ。もう大丈夫、と彼女の肩に手を置いた。リサ自身、自分の行動に驚いたのか、バツが悪そうに顔を背ける。
エヴァは微笑みながら短く告げた。
「(ありがとう)」
選ばれし適性者。ヘリックスファーム計画では、それぞれの適性に合った訓練を消化する。システマティックに特別な工作員を造り上げる道筋ができていた。
基本的にはオフィサーを育成するプログラム。エヴァの適性はパラミリタリーオペレーション。CIAでいえば特殊作戦グループあるいは特殊活動部隊に当たる。
その名の通り勇ましい分野なのだが、エヴァ自身はピンときていなかった。当たり前である。人を殴ったことすらない人間が、簡単に諜報機関の工作員になれる訳がない。当然な感覚。どう考えても無茶なことだと何度も訴えたが、ビクターは聞く耳を持たなかった。
彼は自分の計画に絶対の自信を持っていた。それは成功例があるからである。成功例とはリサのこと。彼女もまたヘリックスファーム計画で造り上げられた人間であった。
そのことを告げられたエヴァ。返す言葉を失った。必然と自分の姿に重なった。彼女の事情は知らないが、自分と同じ犠牲者なのではないかと思わずにはいられなかった。
結局、否応なく従わされたエヴァ。最初は陸軍施設でのブートキャンプ。いわゆる基本戦闘訓練から始まった。もちろん素性は明かさない。他の新兵に紛れるかたちで行われた。
そこに、リサの姿はなかった。エヴァだけ放り込まれたのだ。
一人になると、少し複雑な心境になった。リサとずっと一緒だったから、どことなく寂しい感情が芽生える。直哉や友子がいないことで生まれる心の隙間の一部をいつの間にか彼女が埋めてくれていたことに気付く。また、会うことができればと強く願った。
ともあれ、友子の為にやると決意した気持ちに嘘はない。ビクターの用意したプログラムをこなすだけだ。とうに不安という要素は無くなっている。呪われた血だろうが、運命だろうが乗り越えてみせる。そう考えるようになっていた。いずれにせよ、ここでも監視の目はあるのだろうし後戻りはできない。
ブートキャンプは10週間にわたっておこなわれた。場所はオクラホマ州のフォート・シル陸軍基地。ここまで内陸に来てしまえば、東海岸暮らしの経験しかないエヴァが知り合いに会う可能性はほとんど無い。妥当な選択だ。
大型バスに乗って到着すると、手続きの説明を聞かされた。キャンプの間は偽名を使えと偽の身分証を渡されていた。その後、メディカルチェックを受ける。一緒に来た周りの男女は同い年くらいか、それ以下と思えた。白人、黒人、ヒスパニック、アジア系と様々。人種のるつぼの代名詞、アメリカならではの光景だった。皆少々不安そうな顔だが、その瞳は希望に満ちていた。
ホールで支給品を受け取る若者達。独特の活気だった。それぞれ志願の動機は様々だろうが、自分みたいな者はいないだろう。そう考えると、エヴァは自分が異物であるかのような感覚を覚えた。
訓練はその名の通り基本を学び取得するのもだった。レッドフェーズ、ホワイトフェーズ、ブルーフェーズと三段階に分かれている。4:30起床のランニングに始まり、訓練また訓練。それが、20:00まで続く。その後一時の自由時間があるが21:00で就寝となる。
訓練は軍隊とあって、生半可ではなかった。途中の脱落者も多い。フェーズが上がる度に人数が減っていく。陸軍の一般公募だから、志願を受け入れる敷居は低い。入るのは容易いが、最後まで残るのはそれなりの者だけとなる。最初にふるいに掛ける目的もあるのだろう。簡単に国の税金で給料は貰えないということだ。
エヴァはどうかというと、持ち前の運動神経で難なく乗り切っていた。体力的に厳しいこともあったが、ただそれだけだ。本当に抱えている内面の苦しみに比べたらどうということはなかった。学科の方は無論のこと問題なし。当たり前である。
それにしても、不思議なくらい簡単に順応していることに気付く。軍隊の訓練を受けるなんて生まれてから微塵も考えたことが無かったのに、呆れるくらい体が馴染んでいくのが分かった。
最終段階のブルーフェーズになると、仲間同士の交流も進んでくる。目立つことを避けていたエヴァだったが、その優秀さゆえに隊内で噂される存在となっていた。やはりどこでも人の中心になってしまう彼女だった。
監視の目は常に気にしていたが、ビクターからのコンタクトは全くなかった。まるで忘れ去られているかのような感覚。辛い思いをして家族と離れていることが、馬鹿みたいに思えた。しかし、エヴァは黙々と訓練をこなした。
10週間はあっという間に過ぎ去った。エヴァ自身、ここに来てチームワークの大切さを学んだ。大学では知り得なかったことが、そこにはあった。仲良くなった者もいる。そして、明日は訓練の修了式。仲間たちとトレーニングを無事クリアできた喜びを分かち合った。
エヴァは例外だが、修了式には親類縁者も参加する。晴れてアメリカ合衆国陸軍兵士となった晴れ姿を見に来るのだ。
浮かれる仲間達を横目に、明日の式典に着用する制服の準備をするエヴァ。少し感傷的になる。何だかもの悲しくもなった。自然と直哉と友子のことが頭に浮かぶ。いったい自分は何をやっているのだろうかと思った。
綺麗に整えられた制帽を掲げて思いにふける。だが、答えが見つかる筈もない。取り敢えず、明日で一区切りとなる。その先のことは、また考えればいい。自分の心に、そう言い聞かせた。
その夜、エヴァは忽然と宿舎から姿を消した。




