40.惨劇の裏側で
ぼんやりとした中。周りが騒がしい。声は聞こえるが、何を言っているのか分からない。焦げ臭い匂いが鼻に付く。頭痛がする。躰は重く動かない。目を開けようとしたが、それもできない。暗闇に躰が包まれる……もう、何も聞こえなくなっていた。
ゆっくりと辺りが白くなり始めた。躰が軽くなっていることに気付く。宙を浮いているみたいだ。奇妙な感覚。このまま空高く昇ってしまうのだろうか……そう思ったら、目の前に景色が広がった。
大きな川。見覚えがある。ブカレストを流れるドゥンボヴィツァ川。河畔を歩いている。後ろを振り返ると男女の姿。父と母だった。二人ともこちらを見て笑っている。両親を見上げ手を伸ばす。夕焼けが眩しくて、片目をつむった……光景が変わる。学校の教室。小さい手がチョークを握っていた。黙々と黒板に向かって数字を書いている。数学の授業。恩師が隣にいる。懐かしい顔。正解だったらしく、頭を撫でられた。嬉しくて笑顔で返した……今度は白くて毛がふわふわの犬。父におねだりした、ルーマニアン・シープドック。名前はエーベル。太陽のもと、中庭でブラッシングすると気持ち良さそうな澄まし顔になった。
楽しかった日々。全てが幸せな時間。
突然、ぎゅっと胸が苦しくなる。躰が締め付けられ、総毛立つ。この映像の先に待ち受けているものが分かったから。それは、家族の幸せを切り裂いた出来事……そして、更なる離別……二度と見たくなかった。変えられない残酷な事実。
だが……頭を過る。それで、終わりではなかった筈……その先がある。そう、決して忘れることなどできない。自分がやっと掴んだ幸せ。
――化学反応のよう。
想いが溢れ出す。愛を感じたこと。生きる喜びを教えてもらったこと。運命だと信じたこと。覚えている……ナオヤ……そして……トモコ。
ふと、察する。目の前が再び真っ黒になっていた。何処かへ奥深く吸い込まれていく。「違う!」抗って、強く念じた。「そうじゃない! 戻りたいの!」自分に向かって叫んだ。
刹那、弾かれた衝動。
横たわっていたエヴァの躰が激しく波打つ。瞠目しながら、両手が天に向かう。何かを掴み取ろうとしたかのよう。大きく息を吐き、次に激しく咳き込む。口を塞いでいたものを自ら剥ぎ取った。
薄っすらと視界が広がる。眩しかった。同時に鈍痛が全身を走る。思わず、声にならない呻き声が口からこぼれる。疼きに耐えながら、視点が定まるのを待った。
白い世界だった。また、夢の続きかと思う。でも、違った。そこには白い天井があった。
「(……何?)」
呆然としながら考えを巡らす。しかし、こめかみを刺す痛みが邪魔する。微かな電子音。かろうじて頭は動いた。視線の先にはデジタルの液晶が光っている。リズミカルに刻まれるバイタルサイン。医療機器に囲まれていた。手に握っているのはチューブが繋がった酸素マスクだった。
周囲がざわついている。人がいた。白衣を着た者達。周囲を取り巻き始める。
「(ここは……何処?)」
ゆっくりと近づく人影があった。ベッドの脇まで来ると、見下ろして言った。
「(……意識が戻ったようだな。そろそろだと思ったよ)」
エヴァは瞼をしばたたかせながら目を凝らす。声と同様に見知らぬ男だった。
「(……誰?)」
数日前の朝、エヴァはペンタゴンで信じられない映像を目にしていた。
ニューヨーク。世界貿易センタービルから立ち昇る黒煙。会議室に置かれた大型のTVが、それを映し出している。航空機が激突したという。情報を伝えるニュースキャスターも、あまりの惨劇に言葉を失っていた。
国防総省は世界貿易センタービルに二機目の旅客機が突っ込んだ時点で非常事態を宣言。省内は騒然となった。ペンタゴンは完全閉鎖。外界と断絶。インターンシップで訪れていたエヴァは会議室に押し込まれた。緊急事態の中、部外者である人間の処置としては当然である。
身動きが取れない状況。対応してくれていた人事担当官も今はいない。待機するように言われ、独り残されたエヴァ。タイトスカートの裾を叩き、スーツの襟元を正す。そして、大きく深呼吸。落ち着かなければと思った。
依然としてTVに映るのはニューヨークの異常な光景。横目にエヴァは携帯を取った。しかし、混線して電話が繋がらない。動揺しながらも、メールを送る。今日は昼から仕事と言っていた直哉。まだ家にいるはずだ。
ほどなくして返信が来る。少し安堵した。彼もその文面から驚いている様子が伺える。エヴァを元気付ける言葉に加えて、テロかもしれないと書かれていた。エヴァの身を心配する直哉に、安心してとメールを返す。なぜなら、ここは世界最強の軍隊の中枢、米国国防総省。鉄壁の防空体制と警備が取られている要塞。国内で最も安全といって良い場所のひとつ。
ただ、そう伝えたにもかかわらず。少し前から湧き起こっている胸騒ぎ。
この感じ。覚えている。ずいぶん昔のことだ。記憶を辿ろうとした途端、嗚咽がおこる。生汗が噴き出した。まるで躰が拒絶しているかのよう。次に恐怖が襲う。歯を食いしばる……はっ、とフラッシュバックした。ブカレスト。橋での出来事。
ドゥンボヴィツァ川に掛かる古い石橋。薄暗闇の中、父が自分の手を引いて渡ろうとしている。だけど、怖かった。もの凄く。理由は分からない。ただ、怖かった。混沌とした戦火のもとである。正常な感情ではなかったのかもしれない。だけど、気付いていたのだ。その先に得体の知れないものが待ち受けていることに。
あの時と同じ。
「(いけない!)」
体を突き動かす衝動。エヴァは会議室を飛び出した。
「(――どうしたの!?)」
会議室の外。廊下の端でパンツスーツ姿の女性が声を上げた。それまで立ち話をしていた軍の制服姿の男性を置き去りにして踵を返す。インターシップの人事担当官だった。
「(ここに居てはいけない! 早くこっちへ!)」
何故だかそう思った。彼女に手招きするエヴァ。叫んで走り出していた。
「(何! どうしたの? 勝手に動かないで!)」慌てる人事担当官。全力でエヴァを追い駆ける。「(ちょっと、待ちなさい! 止まって! そっちはダメよ!)」
長い廊下の先にはゲートがあった。分厚い半透明なポリカーボネートのパーテーションで奥と仕切られている。そこから先はセキュリティレベルが上がる。ゲートに立つ警備官の一人がエヴァを目視すると声を張り上げた。
「(そこのあなた! 止まりなさい!)」
ペンタゴン全体が異様な雰囲気に包まれる中。国防総省の警備を預かるペンタゴン警察本部の警備官。その緊張も極限に達していた。躊躇いなく腰のホルスターからベレッタ92Fを抜き両手で構える。
しかし、エヴァに臆する様子はない。走りながら振り向く。人事担当官の女性と制服の男性が付いて来ていることを確認する。良かったと思った。
「(止まりなさい!)」
再度、大声で警告する警備官。
エヴァはゆっくりと足を止める。胸騒ぎは少し落ち着いていた。警備官に対し敵意が無いことを示すべく、両手を上げてみせる。息を整えながら胸を撫で下ろす。もう一度、後ろを振り返った。
「(うっ!)」
見えない壁がぶつかってきた。圧迫に呼吸が止まる。瞬きすらできなかった。そして、黒く巨大な影が今走って来たばかりの廊下を右から左へと横切る。
全てを飲み込む塊。それが、胸騒ぎの元凶。得体の知れないものの正体。人事担当官と制服男性の姿が消えていた。同時に襲う衝撃と強烈な熱風。エヴァは木の葉のように吹き飛ばされた。とてつもない恐怖。結局、あの時と同じだった。
記憶はそこで途絶えた。
虚ろな瞳のまま、唇に指を当てている。俯き加減のエヴァ。背中に大き目の枕を当て、ベッドで上半身を起こしていた。考えているのは、ここ数週間のこと。
この白い部屋に窓はなく、入口に擦りガラスの自動扉がひとつだけ。しかも、こちらからは開かない。他にあるものといえば医療機器と小さなテーブル。それからパイプ椅子が二脚のみ。最初は何処かの病院かと思っていたが、天井にある監視カメラを見付けた時から、その考えは否定されていた。清潔な空間ではあるが、とても殺風景な部屋。温かみは感じられない。
エヴァは吐息を吐く。
何百回も考えた。でも、脳裏に浮かんでしまう。直哉と友子のこと。もう、どうすることもできないというのに。今が軟禁状態にあるからということではない。エヴァは選択したのだ。違うの世界の人間になることを。
躰は酷くやられていた。右足と右腕、肋骨数本と左鎖骨が折れている。加えて浅達性Ⅱ度程度の熱傷と躰中に大小の切創。順調に回復しているものの、顔以外は包帯で巻かれ、さながらミイラというところ。寝返りすらままならない。
これでも、運がいいと言われた。確かに大量の燃料を積んだままの航空機が突入した現場に居たのに、この程度で済んだことは奇跡と呼べるのかもしれない。
半分瓦礫に埋まって見付かったエヴァ。セキュリティゲートの分厚いポリカーボネートのパーテーションが火炎を和らげたらしい。最初の爆風でゲートの向こう側に飛ばされたことが幸いした。不可解な胸騒ぎがなければ、跡形もなく消え去っていたことだろう。あの人事担当官のように。
だけど、思う。本当はその時に死んでしまった方が良かったのかもしれないと。
911。世界を震撼させたテロはそう呼ばれるようになっていた。
全米を厳戒態勢へと追いやった同時多発テロの影響は未だに続いている。大統領はテロとの戦いを宣言したという。首謀者を躍起になって探している。報復のムードは最高潮に達していた。もう誰も止められない。
それは人類が経験する対テロ戦争の幕開けとなり、戦争が新たなステージに変わった瞬間だった。
ビクター・ヒル。エヴァが意識を取り戻した時に現れた男。
朦朧とする中、彼から聞いた話は到底信じられないものだった。悪い夢でも見ているのだと思った。そう、単なる夢の続き。されど、幾度となく現れるビクターを前にして、これが現実だと思い知らされる。
選択の余地はなかった。エヴァが彼を拒絶できない理由。それは、友子にあった。
端的にいえば娘を取引の材料に使われたのだ。赤ん坊である友子が何処かに連れ去られ、身柄をどうこうされた訳ではない。だが、人質にとられたのと同じことで、逆らえなかった。要求を断れば代わりに娘を利用すると言われたからだ。
要求とはエヴァ自身のこと。彼女の意志など問題ではなかった。彼は言った。組織に入り、その身を捧げろと。尋常ではない。最初は狂人の戯言だと思った。しかし、現実が冗談ではないことを示していた。
自分が置かれている状況を鑑みても、単なる脅し文句ではないことが判断できる。最新の医療機器を備えたこの施設。加えて、密かに一般市民を隔離し幽閉できる組織。直哉はきっと八方手を尽くして探してくれた筈。セキュリティのプロや警察関係者の知り合いも多い。だけど、それが届かない。
テロという混乱した状況のせいかもしれない。偶然がビクターに味方しただけなのかもしれない。だが、その男は奇しくもCIAなのだ。しかも、組織の中枢にいるような人間。この現状を創り出せる力を持っている。何があっても、友子を巻き込みたくなかった。
何の因果だろうか、とエヴァは思う。想像もしていなかったことが起こっていた。全く望まないかたちで開かれた裏の世界の入口。
翻弄されるエヴァ。ビクターの口から淡々と語られていく事柄は、どれも腹立たしく許せないことばかり。そこに人の感情など、微塵も汲み取られてはいなかった。あまりの理不尽さに激高したエヴァに、ビクターは冷ややかに言い放った。自分の運命を呪えと。
人の言葉とは思えない非情さ。エヴァは口を閉ざした。
彼の計画は全てを見越しているようだった。決して逆らえない流れ。狡猾にして残酷。用意周到な狂人。
既に、エヴァはテロ被害の行方不明者として届けが出されていた。抜かれ無くなっている奥歯はその為の細工。今後、それがペンタゴンの事件現場で発見されることになり、死亡が確定されるという筋書き。エヴァはこの世に存在しなくなる。
少なからず希望を抱いていた組織の正体がこれだったとは。浅墓だった自分の考えに呆れた。しかし、そんなことはどうでも良かった。なにより、直哉と友子に会えなくなることが辛かった。あれほど愛した直哉。自分の全てを捧げてもいいと思った友子。もう一度、抱きしめて貰いたかった。抱きしめたかった。
娘の幸せを願い決意を固めたものの、夜になると自然と涙がこぼれた。切なさに胸が引き裂かれる。時間の経過と共に増す絶望感。だが、呪われた血統から友子を遠ざけることができるのであれば、自分が犠牲になることなど厭わない。エヴァにとっての僅かな心の支え。
そして、生きていればいつの日か会うことが叶うかもしれないと思うことも。
ヘリックスファーム計画。
初めて耳にした言葉。母がひた隠しにしていたもの。その全容は驚くべきものだった。悪びれるどころか、誇らしげに話すビクターに怒りを覚えたエヴァ。やはり、何処か思考がズレていると思った。尚更、友子には近付けたくない人間である。
不愉快な話ではあったが、大切なことも分かった。無情にも、今の自分と同じ状況を過去においてイゼルも経験していたということ。ビクターの話を鵜吞みにするつもりはないが、大部分は間違っていないと感じた。
全ての経緯を聞いた後、少し和らいだ気持ちになった。母も娘の為に心を決めた時があったのだと知ったからだ。そこにはイゼルの愛が確かに存在した。
その昔、噂が独り歩きしてルーマニアの“ポルタトーリ”と呼ばれたこともある冷戦時代の遺物。プロパガンダと言う者もいたが、信憑性があると考えた者もいた。それは、かつてイゼルが研究していた遺伝子のテンプレート。独裁政権によって行われた特別な研究。有能な人材の適性者を探すためのツール。メチニコフ夫妻の成果でもあった。
渡米したイゼルがビクターから紹介を受けた研究施設で働き始めた時、自身は再びポルタトーリに携わるとは思っていなかった。ところが、ブカレストで封印した筈の遺物をビクターは手に入れていた。入手方法は不明だが、今回のヘリックスファーム計画の基礎になっている。そして、その研究をCIAの為に再開するように言われ、イゼルは愕然とする。研究施設はCIAの息が掛かる機関だった。
騙されたと気付いたが、時すでに遅かった。エヴァはまだ幼さの残る少女。頼る者もおらず、渡米したばかりのイゼルにとって拒否することは簡単ではなかった。悩んだであろうことは確かだ。でも、結局彼女は保身を選びビクターに従うことになる。全てはエヴァの為であったことは容易に想像がつくのだが。
ただ、その時点でビクターも知らないことがあった。イゼル自身が適性者だということを。幼いころからの素養。才色兼備にも理由があった訳だ。それは、決してビクターに知られてはいけないこと。隠し続けなければならないことだった。最も恐れたのは適性者として娘が利用されること。
イゼルの苦悩はそれだけではなかった。望まない研究を続けることもまた彼女の心労となっていく。ヘリックスファーム計画が始動すると世界中から適性者が集められた。合法非合法を問わず様々なルートを通じたものだ。半ば監禁状態となる適性者。様々なテストを行った後、工作員として活動する為に必要な訓練を受けさせられる。個人の意思は尊重されず、テストや訓練で脱落した者は何処かに連れて行かれた。
ビクターの目的は優秀なCIA工作員を造ること。育てるという言葉を使わなかった彼。その通り、この計画は最終的に人体実験の様相を呈していた。彼の頭には“MKウルトラ計画”の汚点を挽回することしかなかったのだろう。同じことを繰り返す、人の心を無くした狂人。
煩悶するイゼル。適性者であることが知られれば、自分のみならず娘も同じ目に合うかもしれない。不安と適応者への非人道的な研究に対する贖罪の気持ち。イゼルは心を疲弊させていった。それが、彼女を自殺に追いやった原因であったことは少なからず正しい。
エヴァもイゼルの変化に全く気付かなかった訳ではない。直哉を紹介したときの反応に気遣わしさがあったからだ。嬉しそうであり、悲しげでもあった彼女の表情。子離れする母親の心情から来るものだと思っていたが、違っていたことに気付く。
今となって分かることにエヴァは心憂いだ。もしかすると、娘が人生の伴侶を見付けたことに安心したのかもしれないと。自分と同じような決意をイゼルにさせる切っ掛けとなったのではないかと。
イゼルの死を最も悲しんだのはエヴァであるが、疑念という面から消化できていないかったのは意外にもビクターだった。もちろん独自の観点からの話だ。自らの答えを導くべく、彼はイゼル自身と身辺を徹底的に調べ上げた。その直感は当たることになる。イゼルの遺伝子から彼女自身が適性者であったことを突き止めた。
疑念は払拭されたが、適性者を一人失ったことに違いはなかった。しかも、遺伝子の調査結果では最も希少なテンプレート適性者だった。身勝手な心情として悔やむビクター。そして、当然思い当たる。娘がいることを。その血統が女系のみに継がれるものであることは既に分かっていた。
イゼルの娘エヴァを調査するビクター。結果、神の思し召しかと思われるほどの偶然に心躍らせる。エヴァは、あろうことかCIAへの就職を希望していることが分かったのだ。ビクターは早速根回しを開始する。彼女がいるプリンストン大学には知り合いも多い。組織に入れてしまえば、計画に加えるのは簡単だった。
だが、そんな中でビクターさえ驚く事態が起こる。まさに、想定外。911テロだった。またしても最高の適性者を失ったと思いながら、彼女の痕跡を探しテロ直後のペンタゴンに入ったビクター。
そこで、彼は発見する。担架で運ばれているエヴァを。怪我は酷かったが、命は取り留めていた。あらゆる権限を使い、すぐさま自分の息の掛かった研究施設へとエヴァを送る。彼女を囲い込む手間が省けたのだ。ビクターは、その奇跡に驚喜した。
後は有無を言わさず従わせればいいだけだった。弱みは把握している。それはイゼルと同じだ。エヴァは逆らえないと踏んでいた。




